12月26日
 満天の星空の下で抱き合い、泣き合ってから私たちは手を繋いで玄関の方へ戻った。不二が靴を貸してくれると言ったけど私はそれを断り、じゃあ抱えるという爆弾発言も何とか退けてゆっくり歩いて帰った。その間私たちはこの先のことを話しあわなかった。
 日が昇ったら、先生の元へ行った方がいいのだろうか。ここにいるのと、帰るのと、どちらが不二のためになるのだろう。不二が「帰れ」と言ったら帰ろうか? でも、不二は私がここに来てくれて安心したと言ってくれた。
 深いため息が漏れる。私の右手を掴む彼の左手の力が強くなる。私も応えるように握り返した。今は私たちの間に言葉はいらない。玄関口まで続いているコンクリートの道の冷たさを足の裏で感じる。けれどそれ以上にコートとマフラーと右手が温かかったから平気だ。
 やっと玄関へ着いた頃、靴箱の上に掛かっていた掛け時計は12時30分を指していた。
 そして、その靴箱に凭れ掛かる様にして乾くんと菊丸くんが立っていた。私と不二は慌てて手を離す。
「不二、それに千代田さん。ちょっといいかな」
 ふたりの間に漂う空気は殺伐としていた。菊丸くんの眉間には皺が刻まれ、乾くんの眼鏡は寒々しく光っている。
「なに?」
「先輩たちの目的が分かった」
 重々しくそう告げたのは菊丸くんだった。
 その場で話すのは危険という判断で、私たちは場所を移すことにした。けれど彼らは5人用の大部屋で寝ているため、自室で話すのは不可能。迷った挙句、私の部屋で話すということになった。私の部屋は男子部屋や監督たちの部屋とも離れているため密談にはうってつけだった。
 四畳半の一人用の部屋に四人が座る。私は朝畳んだままの布団の上に座り、不二はその横で片膝を立てて腰を下ろした。菊丸くんと乾くんは私たちの正面に胡坐をかいて座った。
「オレ、聞いちゃったんだ」
 最初に口を開いたのは菊丸くんだった。
「ねーちゃんから電話掛かってきて、玄関口で話してその後戻る時に浴場の方から大慌てで戻ってくる先輩たちを見たんだ。ああ、また千代田かって思って、隠れてやり過ごしてから先輩たちの部屋の前で聞き耳を立ててたんだ。そしたら……あいつら……」
 彼は歯を食いしばって拳を握りしめた。悔しそうに手を震わせている。私と不二は何も言うことができず彼の次の言葉を待った。
「……千代田に嫌がらせしてるのは、千代田を追い出したいからじゃないんだ……。あいつら、そもそも青学もテニスのことも、もうどうでもいいんだ……っ!」
「えっ?」
 怪訝そうな声を上げる不二。私も何が何だか分からずに彼を覗き込む。菊丸くんは俯き、唸るような声で告げた。
「何でもいいから……問題を、起こしたいんだって」
「それって……」
 不二の声が聞こえて彼の方を見ると、切れ長の瞳が見開かれていた。綺麗な青色の瞳が驚愕を訴えている。
「あいつら、青学を出場辞退に追い込むつもりだ」

 アーモンド色の瞳が、不二を真っ直ぐ見据えていた。
 不二は暫く何も言わなかった。ゆっくりと俯くと、そのまま黙りこくってしまう。私が何か言うわけにもいかず、その場は暫く無音だった。誰かの息遣いだけが聞こえてきた。
「俺が英二から聞いた話と集めた情報を合わせ、簡潔にまとめるとこうだ。先輩方は一年の俺たちがインターハイのレギュラーに選ばれたことに対して腹を立てていた。と言うよりも、相当プライドを傷つけられて恨みを持っていたらしい。選抜大会の枠は団体のシングルスが三人、ダブルスが二組。そして個人のシングルス、ダブルスが一組ずつ。おそらく今度の大会は二年七名一年三名で臨むことになる。今回の騒動の主犯三名はおそらく夏のインターハイ同様選ばれないだろう……。来年には海堂たちも入ってくる上に、インターハイは選抜大会よりも出場人数が絞られるため引退試合の出場はほぼ絶望的だ。そして彼らはいっそのこと、青学の出場自体を妨害しようと考えたらしい。先ほど部長にそれとなく探りを入れたら、案の定彼らは2学期に複数回の暴力沙汰を起こして軽い謹慎処分を言い渡されている」
「えっ、そうだったの?」
「不二は部活に顔出してなくて知らないだろうけど、1日とか2日とかいない日が時々あったんだ。まぁ、オレらもサボりかと思ってたけど」
「だが、問題なのは青春学園の校内で事件を起こしているという点だ」
 乾くんが中指で眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。
「学校と言うのは元々隠蔽体質だから、校内で起こした問題は外部にはけして漏らされない。ましてやテニス部は青春学園の広告塔だ。出場を辞退する様な事態だけは避けたい」
「で、でも問題を起こして周りに知ってほしいなら、もっといろんな方法があるんじゃないの? それこそ、飲酒とか喫煙とか……」
「ああ、それなら彼らはすでにしているよ」
 俺も誘われた。そう平然と言ってのける乾くんに不二と菊丸くんも頷く。どうやら彼らは後輩に違法行為を強要することで有名な人たちらしかった。三人はきっぱりとそれを断り、そんなところも目を付けられる要因になったらしい。
「それこそもっとインターネットが普及すれば、そういった飲酒喫煙問題でも容易に世間へばら撒くことができるのだろうけれど、生憎今の情報システムでは学校側に握りつぶされるのがオチだ」
「な、なら警察署の前で喧嘩でもすれば!?」
「もーっ! 千代田の鈍チン! そりゃあ隠しようがないかもしれないけど、補導歴が付くようなことするヤツらじゃないんだって! 元はただの負け犬ビビりなんだから!」
「じゃあ!!」
「……あるね。ある程度は世間から守ってもらえる、それでいて問題を起こせば必ず外部の目に触れる機会が」
 不二が、俯きながらそう静かに答えた。そこまで言われて初めて、私はこの合宿の特異さに気付くことができた。
 合同で合宿を開くような親密さとはいえ、それはあくまで利害の一致。この四校は互いに、隙あらば蹴落としたい相手であることに変わりはないんだ。
「あの人たちは、とにかくこの合宿内で青学が言い逃れできない不祥事を起こせば、それで良いってこと?」
「そう。つまり、相手が千代田さんだろうが不二だろうが俺だろうが英二だろうが、関係ないということだよ。青学テニス部員が問題を起こした、という事実が欲しいだけだ」
 空気が重かった。全員が次に誰かが何かを言ってくれるのを待っていた。
 私は口を開こうとしては閉じる。私はここにいるべきか否か、それを訊こうとしてはためらった。もう私ひとりの意地だとか、そういう次元の問題ではなくなっていた。
「せ、先生に言おう!」
「お前強制送還だけどいいの?」
 沈黙に耐えきれず私がそう言えば、菊丸くんが間髪入れずに答えた。
「な、なんで!? あいつら強制送還にすればいいじゃん!」
「強制送還にするだけの証拠がない。今俺たちが話していることも、所詮は英二が盗み聞きしたことに俺の情報を合わせた上での単なる推測だ。それに、下手に騒げばそれこそ彼らの思うツボだからね。彼らはキミや不二が騒ぎ出すのを待ってるんだ。女子生徒が青学の選手に真冬の浴場へ閉じ込められ、危うく殺されかけたと」
 乾くんの視線が不二を捉える。不二は静かにそれを享受して、何かを考えているようだった。
 そして、彼は決心したように顔を上げ、私へと向き直った。
「千代田、明日の朝一で東京へ帰るんだ」
「!!」
 とうとう、宣告されてしまった。
 分かっている。もう部外者の私が首を突っ込んでいい事態じゃない。けれどこんな危険な場所で不二に矢面に立たせるのかと思ったら、なかなか首を縦に触れなかった。自分が唾液を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
 けれど次の瞬間、私よりも先に不二へ返事をした人がいた。
「いや、千代田さんにはここにいてもらおうと思ってる」
 乾くんだった。
 その言葉に、不二は目を見開いて乾くんの方を見つめる。
「なんで……?」
 私と不二の共通の疑問を彼が代表して問いかける。その答えはこうだった。
「千代田さんには不二の身代わりになってもらいたい」
 恐ろしく簡潔で、冷たい答えだった。菊丸くんも同意見のようで、何も言わずにただ俯いている。私に視線を合わせてはくれない。
 身代わり、という単語がじんわりと私の中へ浸透していった。乾くんとバスの中で交わした会話を頭の中で反芻する。
 あの時、私は不二の避雷針になると言った。嫌がらせで仕事量を増やされても、ちゃんとテニスに没頭できるようにと。だから私はこんなところまでくっついてきた。邪魔ものであることを自覚しながら。
「……ふざけてるのか? 乾」
 怒気を含んだ不二の声が乾くんを攻撃する。彼らしくない乱暴な物言いに、一番ビビっていたのはたぶん私だ。
「元々千代田さんは不二の仕事を分担するという名目でここへ来た。言うならば、不二の仕事の肩代わりだ」
「そんな次元の話じゃないってことは、乾なら分かるよね?」
「同じ次元さ。要は彼女に不二の役に立つ覚悟があるかないかという話だ」
 不二の身体の動きに反応して、咄嗟に飛び出したのは菊丸くんだった。乾くんへ掴みかかろうとする不二を彼は宥めて押さえつける。「不二、落ち着けっ!!」不二の背中が壁に激突して大きな音を立てた。私は咄嗟に外へ出て廊下に誰もいないことを確認する。時計を見たらもう深夜1時だった。
 恐ろしいほど私の頭は冷静だった。
「放せっ、放せ英二っ!! そこの眼鏡を一発殴らせろ!!」
「落ち着け馬鹿!! 乾も! お前もうちょっと言い方選べよ、不二が千代田のこと好きなの分かるだろ!?」
「ちょっと静かにしてよ!! いくら離れてるって言っても廊下の突き当りには監督たちの部屋があるんだよ!?」
 この時間に男子が女子の部屋にいるのはさすがにマズい。押し殺した怒鳴り声で彼らに注意すれば、声がおよそ二段階くらい小さくなった。
「千代田、キミのことを話してるんだよ? 随分冷静なんだね」
 不二は相当怒っているらしく、なぜか私にまで八つ当たりをしてくる。手慣れた様子で宥めている菊丸くんを見てると、なんだか奇妙な気分になった。どちらかといえば今まで彼の方が不二に世話を焼かれていた印象なのだけど。
「千代田さん。キミの意見を聞かせてほしい」
 そこで初めて、乾くんが立ち上がる。と思ったら膝立ちになっただけだった。なのに私とほぼ同じ目線である件については触れないでほしい。少しだけ下から見上げるようにのぞき込まれ、私は彼の言葉では測れない誠実さを感じ取った。
 この人は別に私を生贄にしたいわけじゃない。真摯な目からそう察した。諦めたようにちょっと肩を竦めて笑ってやる。
「……乗りかかった船だし、最後まで付き合うよ」
「千代田!!」
「不二静かに!」
 そう注意すると今にも食い殺してやろうかという双眸で睨みつけられる。美人が怖い顔をすると迫力があるという典型例だと思った。肝が冷えたけれどそんなことでへこたれてなんかいられない。
「どんなことされても騒がず焦らず誰にも言わず、とりあえず困ったら乾くんを呼ぶってことで良い?」
「飲みこみが早くてとても助かるよ」
 ありがとう。そう告げた彼はたぶん、誰よりも不二のことを考えているのだろうなと思った。そんな彼に、少なくとも役に立つと思われたなら一歩前進だ。
 どうせ何の役にも立たない、無価値な体だ。乾くんが不二のために有意義に使ってくれるなら本望。
「千代田……キミおかしいよ。なんで、キミにそんなことさせたかったわけじゃないのに!」
 悲痛そうな不二の叫びだけが部屋に響いていた。でもそれも虚しいだけだった。私も乾くんも、何を言われたって意見を変える気は無かった。そして、不二は強引に菊丸くんの拘束を解こうとする。
「この合宿内で騒ぎを起こしてはいけないのは分かった。でも千代田には帰ってもらう。体調が悪いとか足が痛むとかなんでもいいだろう、理由なんて……」
「お前、いい加減にしろよ」
 そう言ったのは、菊丸くんだった。彼らしくない、怒りを押し殺したような静かな声だった。
「選抜大会で勝ち抜くにはお前の力が必要なんだよ。言わなきゃ分かんないの?」
 菊丸くんが不二のスウェットの胸倉を掴む。不二は驚きのあまり声を失っているようだった。
「千代田が帰って不二がターゲットになったとして、あいつらがお前に怪我負わせてきたらどーすんの? 抵抗して派手に喧嘩して、喧嘩両成敗でお前まで退部とかになったらどーすんの? 青学で、テニスできずにいられるの? お前が?」
 菊丸くんは、泣いていた。自分では一生懸命怖い顔をしているつもりなんだろう。眉間に皺を寄せて、口をへの字に曲げて、それでもその大きな目からは大粒の涙をボロボロとこぼしていた。
「分かってるよ……関係ない女の子巻き込んで、最低だって分かってる……。でも、俺はまた優勝したいんだよぉ……っ!! やめた大石たちの分も、周りの連中を見返すために……手塚がいなくてもできるって証明するんだ!」

 たぶん、それが菊丸くんと乾くんの本音だ。
 頭のいい乾くんなら、理由をいくらでも並べられると思う。不二周助という選手を守るため、青学というチームを守るため、私と不二では背負うリスクが違いすぎるため、友情。そのどれもが本当だけど、本音はそうではなくて。青学はもうダメだと噂する連中の前で、かつての仲間の前で勝ちたいだけなんだ。
 その後、すすり泣く菊丸くんを宥めながら不二と乾くんは私の部屋から出ていった。けれどなんだか眠れなくて、ああそういえばこの不二のコートとマフラーどうしようかなどと考えながら私は着替えて布団にもぐった。程なくしてケータイが鳴り、見ると不二からのメールだった。
『何かあったら、僕にも連絡してほしい。
 大丈夫、覚悟は決まったから』
 その短い文章の下には乾くんの携帯番号とメールアドレスが張り付けてあった。そして、さらにずっと下へスクロールしていくと、こんな文章が現れる。
『キミのことを安全な場所へ逃がしてあげることもできないけれど、それでも僕はキミが好きだ。
 今はキミに対して時間を割くことができないから、あえて付き合ってほしいとは言わない。
 ただ、いつかキミにそう言いたいと思ってる。だからこれは本当に勝手なワガママなんだけど、できればそれまで、僕のことを好きでいてほしいな』
 あのキザ野郎。眠れなくなったじゃないの。ますます冴えてきた頭で、不二と付き合うかもしれない未来を想像した。もしかしたら高校卒業後とかになるかもしれない。
 上等。いつまでも待ってやろうじゃないの。彼と腕を組んで街を歩く想像をしたら、どんなことも笑って乗り越えられる気がした。


 合宿4日目の朝が来た。3時間睡眠だが清々しい目覚めだった。山の夜明け前は闇が深く、暗がりの向こうになにかを隠していそうで私はあまり好きじゃない。だからカーテンを開けずに部屋を出て手洗い場に出る。脱衣所のカギがこれ見よがしに私の部屋の前に置いてあるのを発見しつつ、顔を洗って歯を磨いて寝癖を整えた。
 もう、メイクはしなかった。
 男にとってはそれが何だという話だろう。でもこれが私なりの覚悟だった。鏡を見れば貧相で幸の薄そうな童顔がこちらを覗いている。立海の選手には一発でバレるだろう。でももういい。私の事情なんてどうでもいい。
 脱衣所から自分の服を回収してランドリールームへ向かう。それからはまた前日や前々日と同じことをこなした。
 買い出しから戻った後の地獄の300メートルに慣れつつある自分が恐ろしい。今日の献立は五目ちらし寿司。しいたけレンコンにんじんそしてお米を担ぎながら緩やかな坂道を登る。気のせいかここ数日、凡骨の右足はよく仕事をしてくれていた。我ながら力強い歩みに満足していた、その時だ。
「まだ帰らねぇのか」
 行く先を阻んだのは、少し汗ばんだ氷帝の王様。ダウンの最中だったらしく、彼は仁王立ちで私の前に立ちふさがった。
「昨日は不二に教えてくれてありがとう。……でも別に、氷帝さんにはご迷惑おかけしませんから放っといてください」
「お前の過去を調べさせてもらった」
 その横を通り過ぎようとした私を、彼はたった一言で見事に引き留めた。その場から一歩も動くことなく。
「……はい?」
「得体の知れない、ましてや俺様に氷水をぶっ掛けるような女だ。臨時の雑用係という点も、やたら不二周助に肩入れする点も気になった。だから調べた。何が悪い?」
「プライバシーって言葉知ってる?」
「本当に守りたいプライバシーがあるのなら、簡単に調べられないようにでもしたらどうだ」
 私の強がりからでた発言も簡単にいなし、跡部はまるで暗唱するかのようにこう告げる。
「千代田渚。東湘南小学校、立海大付属中学校卒。父親は大手イベント会社の代表取締役、母親は国内では一流とされる名門『新宿バレエ・シアター』の元花形バレリーナ。本人も幼い頃からバレエを習い始め遺憾なくその才覚を発揮し、15歳で全日本ジュニアバレエグランプリ優勝。イギリスの王立バレエ学院への留学も決まっていた、天才少女」
「やめてよ」
「施設が整っている立海大付属への進学を決め、順調に実力を伸ばしていた。しかし昨年の12月に不慮の事故から足を……」
「もうやめてって言ってるでしょ!!」
 買い物袋がコンクリートへ落ちる。その場にしゃがんで耳を塞いだけれど、完全に跡部のよく通る声を遮断することはできなかった。
「今朝、あの真田がお前のそのスッピンを見て死人と会った様な顔してたぞ。そして顔と右足を交互に見てた」
 俺様のインサイトはごまかせねぇ。そう言って彼は私の心をも見透かそうとする。眼を塞いでじっと耐えた。
「やはり、その右足がキーワードか」
「もう黙ってよ」
 情けない。自分の過去とすら向き合えないのに、私は不二の、不二たちの役に立とうと。そんな高望みをしていたのか。もう自分が分からない。とにかく千代田渚ではない何かになりたかった。
 なんの取り柄もない自分でも、もう踊れない私でも、居ていい場所が欲しかった。必要とされたかった。

「昔のお仲間さんたちが来たぜ」
 しばらくして、跡部の声にゆっくりと顔を上げた。恐る恐る振り返ると、コートがある下の方からこちらに向かってくるふたつの影。ノートを抱えた参謀と、飄々とした姿の詐欺師だった。詐欺師は遠くから少々声を張って跡部に話しかける。
「跡部、バトンタッチじゃ。そいつに言いたいことは俺たちのほうがよーさんあるナリ」
「……他校の事情に首突っ込む気はねーが、とりあえずこの合宿で問題を起こすことだけは避けてくれ。一応総責任者は榊監督なんでな」
 テメェもだぞ。そう釘を刺して、跡部はその場を後にする。しゃがみ込んだまま彼の足元だけを見つめていた。
 跡部が遠のいていくのとすれ違いに、ふたりが私の前に立った。先に口を開いたのは仁王だった。
「久しぶりぜよ、千代田」
 相変わらずの眩い銀色だ。山の日差しを浴びてキラキラと輝くそれに目を細めると、彼は屈んで私に顔を近づける。
「お前さん、ちょっとは見れるようになったと思ったのに、なんで化粧やめたんじゃ? 真田なんて急に千代田が昔の顔に戻ったからビックリしてポーカーフェイス崩れとったぜよ」
「み、みんな、知ってるの?」
 私が私だと、皆もう気付いてるのか。
「気付かん方が可笑しいじゃろ。俺たちのトップと一番親しくしておきながら、手酷く裏切った女なんだからのう」
 嘲笑うような彼の声に、胃がキンと冷えた。仁王は不気味な表情を浮かべていた。口元が緩く弧を描き、なのに目元が鋭い。
 咄嗟に柳を見ると、視線を逸らされた。
「みんな知っとるぞ、お前さんがやらかしたこと」
 お前が、幸村を殺そうとしたこと。

 考えることを放棄したかった。それでも頭は言うことを聞いてくれず、あの日のことばかりを思い出す。腐葉土に混じった花の匂い、柔らかいマフラーで人の首を絞める感覚、私の怒鳴り声、そしてあいつの泣き顔。まだ、全部を鮮明に思い出せる。
 許されないことは分かっていたけれど、彼らに知られていたという事実が私に重く圧し掛かった。
「幸村が、言ったの?」
「あいつが自分のことを語りたがらないのはお前さんが一番よく知っとるはずだがのう? それに、一人で抱え込んで自滅するタイプだってことも」
 金色の瞳が容赦なく咎めてくる。この犯罪者、裏切り者めと。
「それなのに、幸村を追い込んだ当の本人は他校の男とラブラブ合宿デートか? 良いご身分ぜよ」
「おい仁王、必要以上にショックを与えるのは……」
「参謀。お前さん、千代田に甘すぎるナリ。……こいつには自分のしでかしたことに落とし前を付けさせる必要があるぜよ」
 白く塗りつぶされていく、乾くんの真摯な視線と不二のメール文。たとえ必要とされたって、過去の因縁が全て帳消しになるわけじゃないんだ。馬鹿だ、私。なんでそんなことに気付かなかったんだ。
 友人をひとり再起不能に追いやっといて、それを忘れようとしていた。自分の都合の良い頭に自嘲すらできない。
「仁王。だか千代田も被害者だ。俺にはこいつを必要以上に煽る必要があるとは思えない」
「被害者なら何やっても許されるのか? 言っとくが、俺はこいつがバレエ踊れなくなったことなんて正直どうでもいい」
「っ!!」
 気が付いた時には仁王に飛び掛かっていた。涙を流しながら、まるで獣のように喚いて、仁王に八つ当たりをした。
 どうでもいいってなんだ。私がどれだけ、人生の大半をあれに捧げてきたのか分かってるのか? 興味が無くたって口出ししないのが優しさじゃないのか。コイツは人の皮を被った鬼か?
 鍛えている現役運動部の身体はピクリともせず、私は柳によってそっと引きはがされる。次の瞬間、短く切った私の前髪を仁王が鷲掴みにした。痛くは無かったが、精神的な衝撃は大きかった。
「あの日お前、俺に向かって『幸村がこの世から消えていればよかったのに』とか言ったよね」
 目の前にいるのは確かに仁王なのに、慣れ親しんだ柔らかな少年の声が聞こえてきた。涙が止まらない。
「ごめんなさい……ごめんなさい幸村……」
「おい仁王!!」
「泣いたってやめないよ。だって千代田もあの時、俺が泣いてもやめてくれなかったでしょ?」
 柳が私を放して、今度は仁王を私から引き離した。プリッという拗ねた様な擬音が聞こえる。柳が何かお説教してる。ただ、それを聞き取ろうとは思えなかった。あの日の幸村が私を責める。何度も何度も。
「俺はのう、千代田。幸村のことなんてどうでも良くなったお前さんのことなんて、どうでもいい。消えてしまえと思っとる。……悲劇のヒロイン気取りも大概にしろよ、お前はただの悪役じゃき」
 そう告げて、仁王はその場を後にした。遠ざかる背中を見据える。柳は私が泣き止むまでそこにいてくれて、ただ何も言わず頭や背中に手をやってくれていた。


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