12月25日
 合宿3日目。12月25日は世間一般的に言えば神様の生誕祭だ。この国ではそれにこじつけて恋人同士が肩を寄せ合っている。私はといえば、昨夜干しておいた洗濯物の一部が悲惨な状態になっている光景を見て深いため息をついている。この格差はなんだ。
 合宿所には乾燥機は無いが除湿機はあった。だから私は夜のうちに洗濯を済ませて、それを一つ一つ皺を伸ばしながらハンガーへとかける。そしてランドリールームの端から端まで伸ばされた紐へ、踏み台を使いながら間隔を空けて吊るしていく。除湿機の電源を入れて密室にしておけば冬でも朝までには渇くという寸法だ。なにが問題かというと、一晩洗濯物に監視の目がないということ。
 下着は部屋で干していたので難を逃れた。しかし干していたはずの学校指定のジャージが泥の足跡まみれで床に転がっていた時は、さすがにその場でしゃがみこんでしまった。監督へ抗議しに行こうか10回ほど思い悩んだけれど、そうすれば私は東京へ強制送還されるだろう。すると彼らの矛先は次なる異物、不二へと向く。
 ちゃんときれいに乾いている黒いジャージを手に取った。ハンガーを外してこの腕の中に抱く。邪魔なんてさせない。これは不二とテニスの戦いだ。雑音なんて、私相手に楽しんでいれば十分なんだ。
「……千代田?」
 不二のジャージに顔を埋める寸前で我に返った。人間の反応スピードとは恐ろしいもので、即座に畳んでいる素振りをする。声を掛けてきたのは菊丸くんだった。
「あ、あれー? 珍しいね、どうしたの?」
「あ、いや……今から自主練してこようかなって思って、通りかかったんだけど」
 首に乾いたタオルを掛けた菊丸くんは、少し気まずそうにそう言う。扉を開けっ放しで変態行為に及んでいたのがまずかった。なにか言い訳した方がいいのか、それとも気にしない素振りを見せた方がいいのか考えていたその時だ。
「……それ」
「えっ?」
 菊丸くんの目線の先には、泥だらけでペタンコになった私の緑の芋ジャージ。持ち前の動体視力で、廊下を走り去る一瞬のうちにこれを視界の端に捉えたらしい。私は不二のジャージを畳んで、ランドリールームの棚の上に置いた。そして自分の汚いジャージを摘みあげる。
「もう一回洗濯しなきゃね」
「……あんなこと、するから」
 拗ねたようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。菊丸くんは私から顔を逸らしてぽつりとそう言った。
「あんなことって?」
「みんなに氷水ぶっ掛けたでしょ?」
「……してなくてもこうなってたよ、たぶん」
 洗濯機の横にある小さな洗面台へ投げ込む。まずそこで手洗いする必要があったが、それより先にこれらの洗濯物を畳まなければいけない。
「なってないよ! 少なくとも、ただ怯えてるだけの無害な雑用係の女子なら、こんな……」
「でも、あの場でああやってないと乱闘騒ぎになってた気がするんだ。……私の自惚れかな?」
「別に臨時の雑用に有能さとか機転とか求めてないし……」
 私は手を洗って少しついてしまった泥を落とし、洗濯物を畳む作業へ戻った。
「あのさ、千代田。オレたちってやっぱ全国区の選手の集まりだし、それなりにプライドがある。それに、焦りだって……。だから、頼むからそれを逆なでするようなことしないでほしいんだ」
 青学のものから順に畳み、ランドリールームの端にあるチェストの上へと積んでいく。その間にも菊丸くんは私の周りをうろちょろしながら私を遠回しに説得していた。今すぐ帰れ、たくさん譲歩してもう目立つことはするな。要約するとそう言う意味らしい。その言葉は段々弱々しくなっていく。消えていった言葉尻。私は気になった部分について少し訊いてみた。
「焦り?」
 手には菊丸くんの青学ジャージ。丁寧に畳んで乾くんのジャージの上に重ねる。それから彼の方へ振り返ると、バツが悪そうに目を逸らされた。手持ち無沙汰にその場で軽い準備運動を始める。
「……みんな焦ってるよ。あの立海でさえ、幸村以外は留学組に歯が立たなかったんだ。中学の頃はそれなりにいい勝負ができたのに……」
 腕を組み、肩を解す体操をする菊丸くん。
「千代田言ったよね。口先だけとか、気に食わなきゃテニスで決着付けろとか。そんなことはオレたちが一番分かってるんだよ。だから部外者の千代田になんか言われたくなかったんだ。……オレの言ってること分かる?」
 菊丸くんは流し目で私の方を見る。気休めの準備運動はやめない。その表情からは、どうせ分からないだろうという決めつけが垣間見えた。
「分かるよ。……よく分かる」
 頷くと、彼は私をちらりと見たあとそっぽを向く。呆れた、と全身で体現しているのが分かった。
「頭の中、レンアイでいっぱいのくせに」
 棘のある言葉に洗濯物を取る手が止まる。背を向けた彼の表情は分からない。私を軽蔑しているのか。僅かに怒りが込み上げるけれど、傍から見たら不二のためだけに合宿へのこのこ付いてきた馬鹿女だ。色恋沙汰で頭がいっぱいだと思われるのも無理はない。
 いや、不二で頭がいっぱいなのは事実か。
「正確には恋愛じゃないけどね」
「レンアイだよ! みんなそう言ってた。色ボケの千代田ウザいって。これだから脳内お花畑の女は嫌いなんだって。自分ではいろんなこと考えてるつもりでも、結局は自分が好きな男から好かれることしか考えられない馬鹿。どうせ変に頭使っても敵増やすだけなんだから、最初から頭使わずにヘラヘラ笑っときゃ多少はマシになるのにって。……千代田の所為で不二まで変になっちゃって。台無しだ……」
 よくもまあ、それだけ悪口が飛び出してくるもんだ。女性蔑視の感情が入っていたのは気のせいだろうか? 私は、男子というのは悪口が嫌いな生き物だったと記憶しているのだけれど。
「誰が言ったの? 菊丸くんの言葉じゃないよね」
「……さぁ。でもオレが思ってることだって大して変わりないよ」
 俯く彼の正面へ回り込み、その顔を覗き込む。案の定、泣きそうな顔をしていた。
「……ただ、オレはクラスメイトだし……不二が千代田をきっかけにテニス部へ戻ってきたのも知ってるから……」
 やっぱり、菊丸くんは優しかった。
「だからっ! もう余計な事すんなよ! オレはちゃんと忠告したかんな!? これ以上目立って何かされても、もうオレは知らないからなっ!」
 急に毛を逆立てるように捲し立てる彼に、多少尻込みしながらも笑いが込み上げる。たぶん彼は私に対して良い感情は抱いてないだろう。けれど気に入らないヤツのために痛める心がある。良いヤツだと思った。
「おいっ! 聞いてんのかっ!? 今度こんなことがあったらオレが監督に嫌がらせのこと報告して東京へ強制送還だかんな!」
「えーやだよそれは」
「べーっ、だ! お前の意見なんか全部ムシだかんね!」
 片眼を剥き出し舌を出した菊丸くんは、そのまま踵を返そうとした。思わずそのジャージの裾を掴む。
 ギョッとした表情で彼は振り返った。彼は軽口を叩くように怒っていたが、強制送還の件だけは冗談に聞こえなかった。だから引き留めた。
「もしも、だよ」
「?」
 私は視線を洗面台へと向ける。泥だらけのジャージがそこにある。
「私が帰ったとして、もう誰のジャージも泥まみれにならなくなるのかな」
「は?」
 菊丸くんは一瞬わけが分からなさそうな顔をする。けれど次の瞬間にはアーモンド色の瞳をまん丸にして私を見下ろした。
「……千代田、お前」
 細くても大きくて男の子らしい手が私の肩を掴む。その時だった。
「おい、なに無駄口叩いてやがる」
 いつの間にそこへ立っていたのだろう。開け放たれた扉に手をかけて、若干汗ばんだ跡部景吾がそこにいた。菊丸くんは私の肩から手を退ける。アイスブルーの冷たい瞳が私を真っ直ぐ見ていた。
「家政婦。まだ洗濯終わってねぇのか。もうすぐ6時だぞ。さっさと終えて夫人の手伝いしに行け」
「……りょーかいでーす」
 王様は向き直ってどこかへ去る一瞬で私のジャージを確認していた。そしてそれを鼻で笑って悠々と去っていく。彼が履く上履きのゴム底が鳴る音が人気のない廊下に響いていた。
 そうそう。それが普通の反応だ。何の興味もない他人が嫌がらせにあっていたとしても、自分には関係のないことなんだから。


 クリスマスは何事もなく過ぎ去った。今日は一日、ジャージが泥まみれになったこと以外は大した事件も起きなかった。参謀にあからさまに視線を逸らされたことだけが、魚の小骨が喉元に刺さったままのように引っかっている。けれどこの合宿が終わればもう二度と会うこともないだろう。それでいいんだ、と自分に言い聞かせた。
 洗濯を干し終え、除湿機をセットしてランドリールームから出る。手にしているのは着替えが入った袋だ。その足で浴場へ向かうつもりだった。
 共同浴場は二つある。普段は女子と男子として分けられているが、この期間中はテニス部合同合宿による貸し切りだったため、女子風呂を青学と氷帝が、男子風呂を立海と四天宝寺が使っていた。
 私は監督や男子生徒たちが全員入り終えた後に入る。地味な嫌がらせなのか私が入るときになるといつも浴槽の栓を抜かれているのだが、元から長風呂の趣味は無い。何十人もの汗臭い男たちが入った湯に浸かるのもなんだか気が引けた。だから慌てずシャワーを浴びさせてもらえるだけで十分なんだ。
 今日も浴槽は空だった。ご丁寧に窓まで開けられていて、浴槽は凍えるような冷たさで満たされている。私は体の前をタオルで隠しながら窓を閉めようとした。その時だ。
 ズズズッ! と何かを引きずる様な音が響いた。続いてドン! という衝撃音。振り向くと、扉の曇りガラス越しに何かが見えた。大きな、茶色い壁みたいなもの……。
「……ちょっと?」
 心臓が早鐘を打つ。生物が本来持ち合わせている危機察知の本能が悲鳴を上げている。ドアまでは約2メートル。徐々に早足になり、最後はぶつかる様に扉を押した。この扉は開き戸で、こちらからは押さないと開かなかった。
 ドアは、固く重いものに阻まれる。
「ちょっと!! やめてよ、退かしてよ!!」
 ガラス部分を構わずげんこつで叩く。複数人の足音が響き、やがて脱衣所から人の気配は消えた。
 茶色く重いもの。きっと脱衣所にあったロッカーだ。私は形振り構わずタオルを放り投げてドアへ体当たりした。けれどビクともしない。ロッカーと言っても総重量100キロはあろうかという大きなものだった。私ひとりでどうにかなるものじゃない。
「誰かっ! だれか助けて!! 閉じ込められてるの、誰かっ!!」
 無駄だと、分かっていた。それでも手が痛くなるまで扉を叩いた。もう消灯時間だ。風呂を入り終えた後、こんな施設の最奥にある浴場まで来る人がいるとは思えなかった。
 胃のあたりが痛くなる。冷たく濡れた床に座り込んだ。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけない? 自分で決めた道なのに、そう思わざるを得なかった。
 そういう時は、不二周助の笑顔を思い出す。
 私がここにいなければ、もしかしたら不二がこういう目に遭っていたかもしれない。そんな確証のない仮定だけが私の支えだった。今のところ彼は悪口こそ言われてるものの、実害のある妨害はされてないはずだ。あいつらが私のことで手一杯だから!
 タオルを取って立ち上がった。なに、たった一晩だ。この浴槽の外は選手たちの走り込みのコースになっている。明日の朝になれば自主練をする誰かが通りかかるはずだ。幸いここは浴槽。お湯はたくさん出るからすぐに温まることもできる。何なら今から湯を張ってもいい。
 明日の朝通りかかるのが真田や跡部でないことを祈りつつ、私はシャワーヘッドを取って蛇口を捻った。
 瞬間、私の足に直撃したその温度に、私は飛び退く。
「ひっ!?」
 刺すような冷たさの水だった。
 私はすぐにお湯の蛇口を捻って確認する。赤い蛇口なはずなのに、出てくるのは冷水。何度も捻っては締め、今度は水色の蛇口も捻ってみた。こちらも出てくるのは冷水だ。
 確か、給湯器の電源は浴場の外にある。
 深い、深いため息を吐いた。シャワーヘッドを元に戻して、薄っぺらいタオルで濡れた手足を拭く。寒い。
 急に体の震えが止まらなくなってきた。辛うじて濡れていない床に座って膝を抱える。全身の体温が急激に奪われていくのを感じた。ここにいつまでいなければいけない? 水しか出ない、氷のような冷たさの浴場の中で、私は一晩過ごすのか? いや、過ごせるのか? 人間は一体、何度以下だと凍死するのだろう。
 じんわりと視界が滲んだ。古めかしい石タイルの床と自分の太ももがぼやける。くしゃみの音が情けなく浴室に響いた。惨めだった。彼らは私を殺そうとしているのだろうか? それとも、ただ風邪をひかせて帰そうとしているだけなのか。

 この学校へ入学する時に誓った。もう二度と目立つような真似はしない。誰からも、特に女子から敵視されないように。
 友達なんて無理に作るぐらいならいらないと、本当に限られた一部としか付き合ってこなかったせいで、私は群れを成すのが好きな女子からよく敵意を持たれていた。物心ついたころから仲が良かった幼なじみを除けば、それまで仲が良かったのはみんな男だ。だからなのだろう、中学へ上がる頃にはますます女から嫌われた。私も女が嫌いだった。男子が好きだった。細かいことを気にしない、大ざっぱで適当で、それでいて強い絆に惹かれた。
 でも、私と彼らは別の生き物で、同じ価値観を共有できない。そのことに気付いたのは中学3年の冬だった。たぶん、遅すぎたんだと思う。
 憧れた男の世界に入れないのは悔しかったけど、やっぱり私は女だから、女の世界で上手くやっていくしかないんだと思った。青学に入学してからはそれなりに上手くやれたとも思ってる。だからこそ文化祭はそこそこ成功したし、私の恋を気遣ってくれるような子たちまでできた。私はたぶん、あの頃心底軽蔑していた女の世界の住人になったんだろう。
 女の匂いを全身に染み込ませた私を、彼らは受け入れてくれない。もしかしたらあいつらが、前の学校でつるんでた彼らが優しかっただけかもしれないけど。でも、前の私だったらここまで徹底的にやられることはなかったんじゃないか。そんなことを考えて、願っている私がいる。

 どれくらいの時間が経過しただろう。気が付けば頬と太ももには涙の筋ができていて、私は膝を抱えたまま半分寝かけていた。ここで寝たらやばいことなんて分かってる。
 ふと、視界に入ったのは窓だった。子供一人がやっと出られそうな小窓。頑張れば私でも何とか出られそうだ。でもここは二階。この足じゃあ着地どころか受け身もまともに取れなくて大怪我してしまう。
 指先の感覚が無くなってきた。息が白い。日付は変わっただろうか。クリスマスに何をやっているのだろう私は。次第に馬鹿らしくなってきた。もうどうだっていい。いっそのことこのことを警察に訴えて全部全部壊してしまおうか。彼らは停学、そして次の大会は出場見送りになるだろう。
 不二、ごめん。こんなこと考えてゴメン。でも憎いんだ。不二のことが好きだと思う以上に、こんなことをする彼らが憎い……。

 その時だった。
 窓に、なにか固く軽いものがぶつかる音がした。
「?」
 最初は勘違いかと思っていた。けれど続いて2回連続でその音が聞こえる。どうやら小石が小窓にぶつかる音のようだった。
 慌てて駆け寄る。かじかむ手で窓を開け、下を覗き込んだ。
「千代田っ!」

 その必死な顔を見た瞬間、私はもう、どんな嫌がらせにも耐えられると思った。
 不二が助けに来てくれたからじゃない。不二が、私のためにそんなに必死になってくれると分かったから。
 必死なのは私だけじゃないって分かったから、もうそれだけでいいと思った。

「脱衣所の鍵が見当たらなくて、扉を開けられないんだっ。オーナーさんたちも知らないって言ってる。奥さんはキミに持たせたって言ってるけど……」
「……確かにカギは私が持ってる。シャワー浴びた後に返しに行く予定だったの。……でも施錠されてるってことは、たぶん閉じ込めたヤツらが持っていったんだと思う」
「やっぱりそうか……」
 不二は一瞬宿舎の方を見て舌打ちをする。そしてまた私に向き直った。
「千代田、その窓から這い出ることは可能?」
「……えっ?」
 こちらを見上げている彼は必然的に上目使いだ。こんな時に何を色ボケてるのかと文句を言われそうだが、こちらの意見を伺う表情の彼は愛らしかった。くっそ可愛いな、などと一瞬意識が飛んでいたが、彼の無茶振りはちゃんと聞いていた。
 まさか。
「む、無理無理無理無理!! 2階から飛び降りるとかもうそんなヤンチャできないからっ!?」
「いや、それはさすがの僕も提案できないから」
 そうじゃなくて、と彼は苦笑する。
「その窓の真横に排水管が通ってるんだ。キミにそれを伝って降りてこいとは言えないけど、僕が登って迎えに行くから」
 それでいい? そう言って、彼は私の視界から消えようとする。ここから脱出できる。不二が迎えに来てくれる。その安心感にのぼせ上がっていて、私は重大なことを一瞬忘れていた。
「ま、待った不二っ!!」
 思わず窓から身を乗り出して制止する。彼はほぼ真上にいた私を仰ぎ見ると、顔を真っ赤にして慌てて俯いた。その様子に私も慌てて上体を元に戻す。え、今の見えた? 大丈夫だよね? 胸元だけ見えてセーフとか、そういうのだよね?
「ふ、服着ないと風邪ひいちゃうよ……」
 震えた不二の声がやけに引いた感じのリアクションで、私の顔は熱くなったり冷たくなったりと忙しい。
「ち、違うの! 浴場から出られないんだってば! どうやらあいつら、ロッカーで扉の前を塞いじゃったみたいで……」
「!?」
 不二が弾かれたように上を向き、そして声にならない驚きの声を発していた。私からはくしゃみが漏れる。
 それから、徐々に。不二の整った顔から表情が消えていった。
「……不二?」
「千代田、とりあえず僕のコート貸すから」
 彼は羽織っていたベージュのダッフルコートと黒いマフラーを脱いで排水管を登り始める。彼はコートの下に寝間着らしき水色のスウェットしか着ていなかった。私は慌てて不二を止める。
「ちょっ、不二が風邪ひいちゃうじゃん! 部屋に戻って別の服持ってきてくれればいいから!」
「それはあと。とにかくこれ着て」
 その間にも彼は手早く排水管を伝ってよじ登ってくる。管と外壁の接続箇所に足を掛け、そして私の真横からダッフルコートとマフラーを差し出す。
「でも……」
「いいから早く着て」
 静かな声だった。命令口調でもなかった。それでも、彼が怒っていることがよく分かる冷たい声音だった。
 大人しくコートとマフラーを受け取る。しばらくぶりに身に着ける衣服は温かく、それ以上に不二の体温に視界が滲んだ。温かかった。
「ちゃんとしたものを持ってくるからちょっと待ってて。すぐ戻……」
 降りはじめようとしていた不二へ、身を乗り出して手を伸ばす。顔はもうぐちゃぐちゃだった。
 不二は一瞬だけ目を見開くと、慈愛に満ちた笑顔を浮かべて私のために右腕を伸ばしてくれる。大きく、力強い手だった。
 ゆっくり、慎重に。私は窓から這い出て不二の右手を伝い、彼の肩にしがみ付いた。
 その瞬間に溢れ出た涙は、どうか咎めないでほしい。こうなった原因が自業自得であることは、私が一番よく分かっているんだから。
「降りるよ。しっかり捕まってて」
 足元から吹き上げる風に下半身が冷えた。でも、心の底が温かかったから平気だ。
 不二はゆっくりと地面に足を付くと、そっと屈んだ。彼の背にしがみ付いていた私のつま先がコンクリートに付く。
 私がほっと小さく息を付いた次の瞬間、不二は私を強く強く抱きしめた。
 一瞬、何が起きているのか分からなくて固まる。小さい頃に親に抱擁された記憶を除けば、誰かに抱きしめられたことなんて初めてだった。これが『抱きしめる』という行為だということに気付くまでにも時間がかかった。ただ、温かいと思った。
 不二の胸に顔が埋まって、体の奥が燃えるように熱くなる。表面はまだ冷たいままだったけれど。
「どうして、すぐに言ってくれなかったの」
「……え?」
「跡部が! キミの居場所を教えてくれたんだ! あの女がどんな仕打ちを受けているか、自分の目で確かめてこいって!」
 今回だけじゃないんだろ? そう問いかけてくる彼の声は涙ぐんでいた。私の方はすっかり涙が引いて、どうしたら不二が落ち着くか足りない脳みそで一生懸命考える。馬鹿な私には彼の背を擦ることしかできなかった。
「……ごめん……僕が、キミを連れてきたりなんかするから……」
「違うよ、私が勝手についてきたんだよ」
「ううん、僕が連れてきたんだ。……断ろうと思ったら断れたんだ。それに、キミがある程度嫌な目に遭うことも予想していた……」
 背中と腰に回される手の力が強くなる。放したくないと訴えているようだと思った。
「僕は甘えたんだ。本当はまだ、合宿に来るのが怖くて……英二も乾もいるのに、一人で戦地に行くような気分で。……だから、キミが来たいと言ってくれた時、ホッとしたんだ。僕がまた弱音を吐いた時、キミに優しく慰めてもらえると思って」
 彼の頭が私の首筋にくっつく。汗臭い私と違って、不二からはシャンプーの良い匂いがした。
「ダメだ、僕……どんどん弱くなってる。これじゃあキミを傷つけるばっかりだ……」
 きつい抱擁だと思っていた行為は、もしかしたら不二にしがみ付かれているだけなのかもしれないなと思った。不二の心の拠り所になれているのだとしたら、それは私にとって本望だ。私にはあの頃いなかった。弱くて卑怯な自分をさらけ出せるような人を作る気力すら奪われていた。それだけ人間関係に疲れていた。
 この人を絶対に守るんだと誓った。昔の自分に重ねるだなんて馬鹿だと思う。でも、私は彼がもう一度真正面からテニスで人に挑むところを見たい。
「……不二、上を見て」
 私は不二の肩越しに空を見上げ、彼にそう言った。感覚で彼が顔を上げたのが分かる。
「冬の天の川だよ」
 標高1400メートル。
 真冬の落ちてきそうな星空に、私たちは息を呑んだ。
「ねぇ、あの日のこと覚えてる?」
 そう言ったのは不二だった。
「もちろん、覚えてるよ」
 忘れるはずがない。あの日、私はキミに夢中になったんだ。
「あの時、僕キミのこと、男慣れしてなくてからかうと面白い子だなって思った」
「うわ、最低」
「人に頼まれごとをされたら嫌だって言えない子だなって思って、暇つぶしのためにちょっと仲良くなろうって思った」
 うん、なんとなくそうだろうなって思ったよ。あの頃は、私たちの間に天の川があったんだよね。
「ほんと、なんでこうなったんだろう……。キミは魅力的な女の子だけど、今は恋愛なんかにかまけてる場合じゃないのに……」
 痛いくらいに抱きしめられる。逃げないで、いや逃がさないとでも言うように。
 ばかだなぁ、逃げるはずないのに。私がどれだけキミのこと大好きか、分からないキミじゃないでしょう?

「好きだよ……千代田が大好きだよ。キミにしか言えないことがたくさんあるんだっ。……だからどうか、僕にもキミの苦しみを教えてほしい……」
 流れ星が見えた。不二がもうこれ以上苦しみませんようにと願った。3回唱えているうちに跡形もなく消えてしまったけれど、冬の天の川には届いていたらいいなと思う。


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