12月24日
 雑用係の一日は長い。
 昨夜はあの後食事をとる時間もろくに取れず、すぐに食器の片付けと洗濯。男子高校生の殺人並みの体臭が染み込んだ洗濯物を学校別に洗い、シワを伸ばしながら干す。当然不二には先に休んでもらった。慣れない作業に身も心も疲れ果て、風呂に入って自分の部屋に戻ることには日付が変わっていた。
 合宿2日目。5時に起きて身支度を整えて二階からロビーへと降りると、跡部や真田を初めとした数人が外で自主練に励んでいた。それを横目に昨夜干した洗濯物が乾いたことを確認し、学校別に畳んで各学校の部長の部屋まで運ぶ。本当は不二もそれをやる立場なのだが、真田たちを発見した時点で「不二も行ってきなよ」と私が追い出してしまった。
 厨房に入ると夫人が朗らかな笑顔で迎えてくれる。
「悪いわねぇ、渚ちゃん。お客さんなのにいろんなこと手伝わせちゃって」
「いえ、こちらこそこんな大人数でご迷惑おかけします」
 林間学校などで忙しい夏季は、この宿泊施設の従業員も増えるらしい。しかし今は冬でしかも年末。最初オーナー夫妻は四校合同の合宿の申し込みを断ろうとしたらしいのだが、この時期合宿所はどこも冬季休業中で監督陣は後がなかった。だから何名か手伝わせることを条件に、ほとんど無理やり予約をねじ込んだらしい。
 青学以外の三校は適当に炊事洗濯の当番を決めて持ち回りで選手にやらせようと思っていたらしいが、雑用係という参加枠で来た生徒を見てしまった以上そちらに押し付けたくなるのは当然だ。よって諸々のオーナー夫妻の手伝いは私と不二の固定の仕事になってしまったのだが、理不尽さを感じてしまうのは私だけか。
 6時半。身支度を整えた選手たちが食堂へとなだれ込んでくる。今朝の朝食は焼いた川魚とヒジキの煮物とポテトサラダとみそ汁と漬物。ちなみにポテトサラダは昨晩の残りだ。質素だけれど宿泊料は三食付きで一泊3150円、文句は言えまい。赤だしのみそ汁に眉を顰める四天宝寺勢を横目に、私は機械的な作業で並ぶ選手たちへ配膳した。
「よし、これで最後かな」
 青学の一年生たちの配膳を終え、不二が私の方を見てそう言った。私は不二のお椀にみそ汁やごはんをよそってあげると、自分の分も盛り付けて青学テーブルの一番後ろへと向かう。最初の方に並んでいた選手たちはもう半分以上食べ終わっていた。
「不二ー! こっちこっちー!」
 テーブルの後ろの方で菊丸くんが手招きしながら不二を呼ぶ。乾くんと菊丸くんの間には一人分の空白があった。不二は笑顔でそっちに行こうとするけれど、次の瞬間歩みを止めて私の方を見る。
「私、厨房の方で食べるから」
「でも……」
「じゃ、あとで」
 二人は不二の分しか席を用意していなかった。いや、もともとテーブルにゆとりは少ない。ただでさえ青学は他校に比べ人数が二人多いんだ。不二へ手を振る間、ちらりともこちらを向かなかった乾くんと菊丸くんを思いだしながら、私は厨房へとトレーを運ぶ。適当な丸椅子を持ってきて流し台の上にトレーを置いた。小さく手を合わせ、ほとんど吐息のような小声で「いただきます」と言った。
 インハイ上位四校の合同合宿が本格的に幕を開けた。午前中は不二も交えて全員での基礎トレーニングをする。私もその時は外に出て、ドリンクの用意や監督たちの指示でタイムを用紙へ記録、道具を出し入れなどをする。そして午後からは学校関係なしで、監督たちが作成した対戦表に合わせて試合を行っていく。この間、不二は主に青学の選手のウォーミングアップの手伝いが主な仕事だった。私は何をしているかといえば、追加でドリンクを作ったあとにオーナー夫妻に付いて買い出しのため麓の町へ降りる。
 今日も駐車場から厨房までの300メートルをふらつきながら歩いた。中には大量の野菜と肉が詰め込まれている。肉野菜炒め60人分の材料だ。オーナー夫妻には軽めの荷物を持って先に行ってもらった。パンパンに膨れた白いビニール袋、持ち手がすでにひも状になっている。道の中腹まで来たあたりで、その持ち手が手に食い込む痛みが限界を超えたため少しだけその場へ下ろす。
 そこからは合宿所のテニスコートがよく見えた。不二は乾くんのアップを手伝っているようだ。二人でコートのフェンスの外で球を二つ用意し、交互に打ち合っている。ふと、菊丸くんと皇帝、真田弦一郎がAコートで試合しているのが目に入った。
 ここからボードは見えなかったが、菊丸くんが劣勢なのは目に見えて分かった。何人かの残像が見えるくらい高速移動している彼だが、皇帝の雷には敵わない。真田はどこか苛ついているようにも見えた。
「……さて」
 いつまでもサボっているわけにもいかない。軽く屈伸した後に掌を数回閉じたり開いたりした。そして意を決して袋を持つ。
 コンクリートから一瞬浮き上がった白いビニール袋は、次の瞬間地面へと激突した。ひも状になっていた持ち手が、鈍い音を立てて切れた。
「あっ!?」
 それは玉ねぎとピーマンを詰め込んだ袋だった。ピーマンはその場ですぐに回収できたが、玉ねぎ複数個の内3つがそのまま転がり始めてしまう。そこではじめて、この駐車場から合宿所までの道が緩やかな坂であることを自覚した。緩やかな坂でも、落ちた衝撃で勢いづいた玉ねぎは止まらない。慌てて追いかけようにも右足が縺れて邪魔した、その時だった。
 目で追っていた3つの玉ねぎが動きを止めた。ラケットが器用にがそれをすくい上げる。
「あっ……」
 およそ20m先。芥子色のジャージを上下で着込み、ファスナーは首元までしっかりと閉められている。黒く細そうな髪は山の北風に吹かれて寒々しく靡いていた。口元からは白い息が出ている。
 大きな手には玉ねぎ3つがしっかり握られていた。立ち尽くしている彼は、白い袋の間で座り込む私を真っ直ぐ見据えている。そして、何か決心したようにゆっくりとこちらへ寄ってきた。心臓の音がうるさい。
「大丈夫か?」
「……」
 優しい声に合わせて、長身の彼が私の前にしゃがんでくれる。懐かしくて、気を抜けばその場で抱き付き号泣してしまいそうだ。それくらい、私の中で彼の存在は大きかった。一生かけても得難い友人の一人。だからこそ、その他人行儀な声も仕草も悲しかった。
 たぶん、彼は私が千代田渚だと気付いている。気付いていて、触れないんだ。もう、私たちは何の関係もない赤の他人だと宣告しているんだ。
「ありがとう。ごめんなさい」
「運ぶのを手伝おうか?」
 立海大付属のレギュラー、柳蓮二は袋から飛び出したピーマンと玉ねぎを丁寧に詰め込み直してくれる。私はそっと首を横に振った。
「大丈夫。練習中でしょ?」
「丁度ダウンの最中だった。気にすることはない」
 千切れた持ち手を固く結び直してくれる。私は彼が行動に移す前に袋二つを掴んで立ち上がった。両掌へ食い込むビニール。このまま切断されるかもしれないとさえ思ったが、振り返るわけにはいかなかった。
「本当にありがとう! 練習がんばって!」
 これ以上彼と一緒に居たら、本当に私は何故ここへ来たのかが分からなくなる。不二の支えになりに来た。不二が少しでも練習に集中できるよう、一日でも早く復帰できるよう、千代田渚という一個人の感情を捨てると昨夜決めたばかりだ。今私がしなければいけないことは、正しいことでも自分のためになることでもない。不二のためになること。
 だから、私も柳を知らない風に振る舞わなければ。
 踏み出した一歩は力強いものだった。相変わらずよろけているけれど、右足を引きずりながらもちゃんと前へ進んでいる。柳の気配を振りきれるまで、無我夢中で一歩ずつ進んだ。頭の中でぐるぐると回っている記憶は、不二の笑顔じゃなくてあいつらの笑顔。柳の微笑と誰かの笑い声。春の訪れを告げるような明るい陽だまりの。
「千代田!」
 ずっと、ずっと後ろの方から大声で呼び止められる。全身の力がどこかに空いた穴から急激に抜けていくような気配。それでも私は気にせず歩き続けた。立ち止まってはいけないと思った。涙は辛うじて流れていなかったけれど、きっと鏡を見たら目の周りが黒いのだろう。
「……千代田。俺は、俺たちはお前が分からない! 何故あの日何も告げずいなくなった? 何故今になってこんなところへ来た?」
 立ち止まってはいけない。けれど両手は縛られていて、耳を塞ぐことさえできない。
「……何故、よりにもよって青学なんだ……!」
 もう後二歩。背後から迫る足音。建物の中へ入れば逃げ切れるという根拠はどこにも無かったが、どうしてだか私はその時、この扉を閉めてしまえば柳は二度と私に話しかけないだろうという確証があった。
 けれど、私の左足は施設の中へ踏み入ろうとしない。半開きになった半透明のガラス戸の前で、ビニールが手に食い込んでいく感覚を体へ刻み込んでいた。そして、扉にかかる大きな手。
「……重ねているのか。自分と不二を」
 背後、頭上から降ってきた低い声。高校生にしては渋みのある大人の声だ。私は柳の声が好きだった。その声はいつも私たちに賢い選択を教えてくれた。
「ただの下心だよ」
 少しだけ嘘を付くと、背後の男が纏う空気が数倍重くなった気がした。先ほどまで金縛りにあったように動かなかった足は簡単に動いた。一歩合宿所の中へ入り、彼の方へと振り返る。
「私だって恋したくなる年頃だよ。あわよくば〜って思って何が悪いの?」
 柳はただでさえ常時細めている目をさらに細めた様な気がした。睨んでいるのだろうか?
「そりゃあ、不二が頑張ってるから私も支えたいっていう気持ちはあるよ? でも、自分に重ねてるとかはないわー。そんなことしたら不二に失礼じゃん。私はもう全然、取り戻したいものとか、克服したいものもないし……外部受験したのも、気分だし……」
 自分でも何を口走っているのか分からなかった。けれどなぜか本能的なもので、立海のみんなへ私が不二にかける思いを話してはダメだと感じ取っていた。あるいは、あの男へその情報が漏れることを恐れていたからかもしれない。
 あの日の、腐葉土に混じった花の匂いを思い出した。
「……じゃあ、私もう行くから」
 踵を返し、もう半ば引きずるようにして食材の詰まった袋を最後の20メートル運ぼうとした。そして、
「……そうか、ならば不二に謝っておいてもらおうか」
 怒りを隠そうともしない、静かだけど荒っぽい口調で彼は告げた。
「アイツは……精市は高校へ進学した頃から、日常でもテニスの最中でも平常心を保てなくなった。もっと分かりやすく、自暴自棄になって他人を潰したがっているとでも言おうか。高校へ進学した頃からだ。いや、正確にはその少し前かもしれない……。その理由はおそらく貴校の臨時雑用係が知っているだろうと。そう、伝えておいてくれ」
 テニスシューズのゴム底がコンクリートを蹴る音が響く。薄暗いロビーで、私は両手の自由を奪われたまま泣いた。今度こそ、音もなく。たった独りで。
 ぶち壊してしまったんだ。私が、ふたりの天才をめちゃくちゃにしてしまった。


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