12月23日
 終業式の翌日、12月23日火曜日。まだ日が昇っていない早朝6時に学校前へ集合し、小さなマイクロバスの前で整列する。今回合宿を行う場所は、愛知にあるテニスコート付きの合宿所と聞いていた。何故わざわざそんな遠い所へ? と疑問に思ったが、私が気にすることでもないだろう。
 今回の合宿に参加するテニス部員は総勢15名。プラス、私と不二、そして監督の先生だった。
 監督の先生は三年生の世界史を教えている中年の男性教諭で、私たちの学年と接点は無いけれど温厚な先生だと有名だ。それは私にも例外じゃなかった。
 不二の紹介を経て「臨時の雑用係をさせてほしい」と頼みに行った際、彼はじっと私を見るとひとつだけ質問をした。「どうしてだい?」と。友達の助けになりたいからです、と答えた私を彼は温かく迎えてくれた。
「今回の合宿で特別にお手伝いをしてもらうことになった、一年生の千代田渚さんだ。お前ら、女子が参加するからって浮かれるんじゃないぞ」
 監督は冗談っぽくそう言って私を紹介したけれど、現実は真逆だった。浮かれるどころか沈んでいる。品定めするような30の視線が私に集中した。
 良い顔をしない人間の方が当然多い。想像していたとおり、いやそれ以上に風当たりは強かった。
「天才様は雑用の分際で女連れかよー! 良いご身分だな!」
 2年生と思わしき男が擦れ違いざまに大声でそう言った。バスに乗り込む前のことだ。部長さんが彼のことを咎めていたけれど、彼へ密かに賛同する部員も周りにはいた。不二が私の前へ壁のように立ちふさがってくれる。彼は暫く無言で先輩を見据えると、すぐに踵を返した。
「行こう」
 そのまま私の腕を引いてバスに乗り込もうとする。けれど彼と私の間に意外な人物が割り込んだ。
「千代田さんは俺の隣に乗ってくれ。大量のファイルが置いてある席の隣だ、見ればわかる」
 見上げていると首が疲れる。190近くあろうかという長身の彼は、そう言って私の肩を掴んでバスの入り口まで押した。先に乗れという意味らしい。バスへの階段を一段上がったところで振り返った。乾くんの後ろに不二が見える。何かを言いたそうに、困った顔をしてこちらを見ていた。
「不二……頑張ろうね」
 不安げな彼に、拳を向けてそう言った。どうか上手く笑えていてほしい。
 不二は一瞬怯んだように動きを止めると、微笑んで同じように拳を向けてくれる。無理やり笑ったような歪な笑みだった。それでも綺麗だ。
「うん、頑張ろう」

 バスにゆとりは無く、補助席も使って18人ギリギリの席数だった。私は前から二列目の窓際に腰を下ろす。しばらくすると部員たちも続々と乗り込んできた。乾くんは宣言通り私の隣に腰を下ろし、私に話しかけることもなく黙々とファイルの中身を読み始める。やがて補助席も埋まり始め、最後に監督と部長と副部長が一番前の列に座り、バスは出発した。不二は私の一つ後ろの列、私とは反対側の窓際に座っていた。その隣の補助席には菊丸くんが座っている。
 不二はずっと窓枠に頬杖を付いて窓の外を眺めていた。時々話しかける菊丸くんにも、物憂げに応えてはまた視線を外へと向けてしまう。
 付いてきてはいけなかったかもしれない、という自分を責める言葉が頭を飛び回っていた。また真正面からテニスと向き合おうとしている彼に、余計な心労を増やしてしまった可能性があるのだ。朝から不快な思いをさせてしまった。私も視線を窓へと向けると、バスはトンネルに入った。窓ガラスに酷くやつれた自分の顔が映った。化粧で塗りたくったって意味がない、幸の薄い顔。
「キミは、不二がこの程度のことも想像できずキミをここへ連れてきたとでも?」
 冷静な声が真横から聞こえてきたのは、バスがトンネルから抜けた時だった。
 慌てて隣を向くと、ファイルから目を離さない乾くんがいる。
「それは……」
「むしろキミは、この程度のことを想像していなかったのかい?」
 ペラッ、と紙が捲られる音。バスの走行音と数人の喋る声でお世辞にも静かとは言い難い車内で、その音はやけに私の耳に研ぎ澄まされて聞こえた。
「敢えて言おうか。……今の不二はもうキミとは違う。前のようにプライドと自信で弱い自分を武装し始めている、一人の選手だ」
 黒縁のメガネフレームの隙間から、鋭い深緑の目が見えた。
「性別が違い、テニス部員でもなく、テニスに関しては素人。不二への煽りが効かないと分かれば、彼らは弱者であるキミへ敵意を向けるだろう。きっとここはじきに、キミに対して心無いことを言う者であふれるよ。俺は、キミはその程度のことは理解してここへ来ているとばかり思っていたが……」
 ここで降りるかい?
 胃に響く重低音がそう脅してきた。これは忠告なんかじゃないことは分かっていた。忠告ならバスに乗る前に言ってくるはずだ。
 試されているんだ。たぶん、このバスの中で私を警戒していないのは不二と監督だけだ。
 小さく深呼吸をする。
 乾くんが意地悪なんじゃない。誰だって自分たちのテリトリーを守りたいものだから。
「バカ言わないで。私は不二の避雷針になりに来たの」
 敵意を向けられて結構。背負うものなんて何もない私だ、潰れるほどに圧迫されたって関係ない。それで不二が元の道へ戻れるなら。
「頼まれてもいないのに?」
 無感情で冷静な声はそう問いかけてくる。
「部外者が複雑な事情に首を突っ込んで、本当にごめんなさい。でも不二が理不尽な嫌がらせに晒されるのかと思ったら、いてもたってもいられなかった……」
「それが不二の乗り越えるべき壁でも?」
「!!」
 乾くんのその言葉を聞いて、脳裏を過ったのは不二のことじゃなかった。
 藍色の髪に隠れた、寂しそうな横顔。作り笑い。右足の激痛。振り下ろされた鉄パイプ。
 息の仕方を一瞬だけ忘れる。不二に、あんな思いをさせる訳にはいかないと改めて決意した。
「……そんなものは、壁でもなんでもないよ」
「?」
 ズボンを握りしめる。動きやすい、ストレッチ素材のウェアだ。捨てられなかったかつての筋トレ用の練習着。
「努力をしている人がいる。悪意を持ってそれを妨害するのは、壁でもなんでもない。ただの雑音だ」
 思いの外、私の声は冷たかった。感情の籠っていない声に、出している自分が一番驚く。乾くんも眼鏡越しにその目を少し丸くした。けれどその後、ふっと緊張が緩んだみたいに微笑む。
「……なるほど。ようやくキミの本質を知れたような気がする」
「えっ?」
「随分と憎んでいるようだね、その雑音を」
 彼が持っているスポーツバックの中からノートを取り出す。『一般生徒用データ』と横書きで書かれたそのノートに、かつての友人の面影を見た。そうだ、乾くんはあいつの幼なじみだ。
「そして、再び立ち上がろうとしている不二に並々ならぬ思い入れがあるようだ。男女の複雑な感情を抜きにしても」
「!!」
 したり顔の乾くんに、体の温度が上がっていくのが分かる。菊丸か、あいつが言ったのか。
「言っておくが、バレバレだよ千代田さん」
「……自分でも薄々感づいてるんでもう放っておいてください……」
 座席の上で膝を抱えて縮こまった私を、乾くんは可笑しそうに声を漏らしながら笑っていた。そして彼の硬い手が私の頭部にそっと乗った。データマンの手は大きくて温かくて、安心する。


 だがしかし、同じデータマンでも彼は私の保護者的立場ではないのだと思い知らされた。それは合宿上に着いた直後のことだ。
 バスを降りると、そこには黄色と緑が特徴的な他校のジャージを纏った男子たちがいた。前髪がカールしている選手と青学の部長が挨拶をしている。ジャージには『四天宝寺』と書かれていた。
「……乾、これはどういうこと?」
 温度のない不二の声が乾くんの背後から響く。四天宝寺の後ろには氷帝のお洒落なジャージ軍団も控えていた。どの学校も15人ほどの集団。これが何を意味するのか分からない不二じゃない。馬鹿な私にも分かる。
「言えば、素直について来たか?」
 不二の舌打ちが聞こえ、私は思わず肩を震わせた。その様子を目敏く察知した不二は慌てて私を覗き込んで「怖がらせてごめんね」と言ってくる。気にしないで、と少し笑いかけた。
 震えたのは確かに不二が怖かったからだけれど、今こんなにも手足が固いのは別の理由だ。
「……芥子色のジャージ姿が見えないようだけど」
 冷たく言い放たれた不二の言葉に息が詰まった。寒い。ここは愛知県の比較的標高が高い山の山頂付近にある合宿所で、冬になれば当然気温は氷点下になることも珍しくない。今は太陽も出ている昼間なので気温はそれほど低くないはずだが、それでも息は白かった。
 けれど体の芯まで冷たいと感じるのは、気温の所為だけじゃない。
「もうそろそろ到着する予定やで、不二クン」
 いつの間にか近くまで寄ってきていた白石くんが話しかけてくる。心なしか嬉しそうだった。そして目に僅かだが好戦的な光が伺える。
「……そう」
「お、ウワサをすれば」
 しっかりと舗装された合宿所までの道を登ってきたのは、うちと同じようなマイクロバス。それは青学が乗ってきたバスが先ほどまで止まっていた場所に横付けると、がたりと大きな音を立ててドアを開けた。

 中から出てきた黒帽子の男に、私は思わず不二の後ろへ隠れた。
 相変わらずの貫録だ。肩で風を切って歩く芥子色の王者たち。けれどその先頭にはあの黒帽子がいるだけだった。どこを探しても彼がいない。不二の後ろから少しだけ顔を出して伺ったけれど、一番見たくない顔がどこにもなかった。
 立海も総勢15人。真田が青学と四天宝寺の2年と軽く挨拶を交わしているうちに、一番奥に控えていた氷帝ジャージ軍団が2つに割れた。そして間から出てきたのは、ジャージのポケットに手を突っ込んだ男子生徒だった。さすがに見覚えがある。中学の頃真田に非公式試合を申し込んできた跡部景吾だ。
「幸村はどうした?」
 開口一番でそれだった。真田は眉を顰めるとそちらへ向き直り口を開く。
「U-17の選抜組として海外遠征中だ。貴様も選ばれた場にいただろう?」
「……チッ。せっかくそこの腰抜けと対面させようと思ったのによ。間の悪い奴だな」
 跡部景吾がギロリと不二の方を睨んだ。その隣にいた菊丸と乾が不二の前に一歩出て威嚇する。跡部はその様子を見て鼻で笑った。
「たとえ幸村が参加していたとして、あのような負け犬には目もくれぬわ」
 真田は不機嫌そうだった。腕を組んだまま跡部を一睨みすると、そのまま不二の方を見据えた。だが次の瞬間、その視線が僅かに右へずれる。スッと目を細めた。私が慣れ親しんだ真田弦一郎ではないその恐ろしい眼力に、思わず一歩下がる。
「おい青学! なんだその女は」
 四校の選手の視線が一斉に私へと襲いかかった。単純計算で60人の男に囲まれていることになる。氷帝も四天宝寺も立海も女子マネージャーなどいなかった。紅一点? 冗談じゃない。ただの公開処刑だ。
「臨時の雑用係だが、何か問題でも?」
 答えたのは青学の部長だった。立海は誰一人として私について言及しない。丸井が目を細めてガムを膨らまし、柳生が反射する眼鏡をクイと押し上げた。驚く様子を見せる者など皆無。
 そうか、メイクと髪型か。そう思った瞬間、ふと力が少しだけ抜けた。彼らは気付いていないのだ。私が千代田渚だと。そう確信した時、一瞬だけ視界が滲んだような気がした。もしかしたら、もう私の顔なんて忘れてしまったのかもしれない。
「……では、そこの黒ジャージもか」
 私なんかに気が付くそぶりも見せず、先輩である部長に対して不遜にそう言い放つ皇帝。その視線の先には黒い無地のジャージを着こんだ不二がいた。山の北風が不二の髪を靡かせた。彼の表情はここからはよく見えない。
「雑用が二人か。良いご身分だな、青学」
「キミたちのこともやってあげようか?」
「結構だ。我が立海は自分の面倒も見きれぬ選手など一人もおらん」
 彼は不二を一瞥すると鼻で笑い、踵を返して氷帝軍団を割る様に建物内へと入っていった。遠のいていく芥子色の集団。誇り高き王者たちが大好きだったのに、今はその目を見るのが怖い。


 全員に部屋が割り振られ、簡単な支度が出来た後に合宿の開会式が行われた。この合宿の総責任者である氷帝の榊監督と跡部景吾部長が挨拶をし、この合宿が開かれた名目を改めて確認させられる。
 秋の新人戦が一区切りついた11月初旬から、約1カ月弱の間行われていたU-17合宿。そこで露見した問題は、部活動としての大会が所詮井の中の蛙だったということだ。スクールに所属している者や留学組など、高校生にもなると部活以外でテニスに関わっている者の実力の方が上になってくる。このことに危機感を覚えた榊監督を初めとした各校監督陣は、インターハイ上位四校から選手15人を選抜して部活組の底上げをしようと画策したらしい。
「諸君は、高校生という時期になって敢えて『部活動』としてテニスと向き合うことを選んだ。ならば我々は監督として、教師として、諸君の行く末に責任を持たなければならない。この意味が分かるか?」
 今年。インターハイ上位四校のレギュラーの中で、U-17の選抜に選ばれたのは幸村精市だけだった。
 不二は、その合宿にすら呼ばれなかった。
「部活動には部活動の強みがある。この合宿で、諸君がそれを各々発見できることを願う」
 その後、すぐに練習は開始された。鬼のような基礎練習プログラムをこなす彼らを横目に、私は各校の監督たちへと挨拶を済ます。青学の監督の提案で、雑用係を連れてきていない三校の面倒も見る羽目になったが、仕事内容は掃除洗濯買い出しなど本当に家事に毛が生えたような内容ばかりだった。
 買い出しには合宿所のオーナーである初老の夫妻と私の3人で行くことになった。本当は不二も一緒に行く予定だったのだが、私が『一人で出来る』と押し切ったのだ。不二には一分一秒でも多く練習していてほしい。
「大丈夫かい? やっぱり誰か呼んでこようか」
「平気です! 私、こう見えて結構力あるんで!」
 米袋と野菜が詰まった袋を抱えながら少しずつコンクリートの道を歩く。駐車場から台所までは300メートルほどの距離があった。夫妻の力はあまりあてに出来ず、地道に進むしかなかった。
 途中、テニスコートから掛け声が聞こえてくる。青学のレギュラージャージの横で、黒いジャージを纏いながら素振りをする不二の姿が見えた。買い物に出てから2時間。まだ基礎練をしてるのか。
 私も頑張らなければ。米袋を抱え直し、先を急いだ。
 料理に関してはド素人だが、何とか夫人の手伝いくらいはこなせた。野菜を切ったり、皿の準備をしたり、ピッチャーに氷水を用意したり。私が米とぎしたご飯が炊きあがったのを確認していたその時だ。「腹減ったー!」と大声を出しながら丸井が食堂へ駆けこんでくる。その後に立海勢、続いて他校も続々と食堂へ入ってきた。長いテーブルが4つ並んでいて、そこに学校別で生徒たちが座る。皆タオルで汗を拭きながら、口々に疲れただとか腹が減ったなどと言っている。
 不二はその中で、少し済まなさそうな顔をして私に駆け寄ってきた。
「ごめんね千代田。僕も手伝うよ」
「いいよいいよ。不二も疲れたでしょ? 私が配膳するから座ってな?」
「そんな、悪いよ。僕だって一応雑用係だし……」
 監督陣は各々自分の部屋で食事をとると言っていた。各校の部長たちから点呼完了の合図が出たので、不二に断りを入れつつ配膳を始めようとしていた。皿を取ろうと手を伸ばすと、不二が「はい」と言って差し出してくれる。その朗らかな笑みに思わず見とれていた、その時だった。
「おい不二! テメェいい加減にしろよ、女とイチャつきたいだけなら帰れ!」
 鋭い怒声は私と不二まで真っ直ぐ伸びて直撃した。不二が目を見開いて振り返る。その視線の先には、あの跡部景吾がいた。足を組み、酷く苛立った様子でこちらを睨みつけている。酷く軽蔑したようなまなざしだった。
「……いちゃついてなんか」
「基礎練中もそわそわそわそわ厨房の方ばかり気に掛けやがって。気付いてないとでも思ったか? 目障りなんだよ。ここはテニス部合同強化合宿の場だ。テニスやる気がないならとっとと帰りやがれ!」
 不二が悔しそうに唇を噛みしめている。俯くその横顔を見て、私は確信してしまった。
 私の存在が、確実に不二を追い詰めている。来るべきではなかったんだ。たとえ不二が一人で重労働を強いられることになったとしても、練習時間が削られることになったとしても、私がこの真剣な場所へ来るべきではなかった。
 何をやっているんだ。真剣勝負の場へ素人に踏み込まれることがどれだけ不快な事か、分からない私ではないのに。
「……返す言葉もねぇか」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべて跡部が立ち上がった。不二は俯いたまま何も言わない。誰も何も言わなかった。巻き込まれただけの夫人がお玉を持ちながら不安そうに見守っている。跡部はそのまま近づいてきた。
「……不愉快だ。こんなお粗末なチームに二度も負けたかと思うとな」
 吐き捨てるようにそう言う跡部。
「進学だ、家業を継ぐ為だとチームは空中分解。挙句の果てに新しいエース様はたった一度の敗北で尻尾蒔いて逃げ出しやがった。しかも戻ってきたと思ったら女連れで合宿参加とはな。……ふざけてんのかテメェ」
 不二は俯いた顔を上げなかった。けれど私からは見えてしまった。チームのことを引き合いに出された途端、その目に敵意が宿った光景が。
「手塚は正解だったな。こんなチーム、早々に見捨てて」

 先に手を出したのは不二だった。
 その右手が跡部の胸倉へ伸び、背後にあった氷帝テーブルへと彼の身体を押し付ける。咄嗟のことで反応が遅れた跡部は受け身が取れず、背中へもろに衝撃を受けた。氷帝メンバーが一斉に立ち上がる。青学テーブルからは誰よりも速く菊丸が飛び出した。けれどそれは不二を止めるためではなく、跡部へさらに追い打ちをかけるためだった。目が本気で殺気立っていた。遠くには、微動だにせず呆れ顔を浮かべる立海陣がいる。四天宝寺の白石くんとその友達数人が立ち上がり、頭に血が上った氷帝選手数名を押さえていた。
 全てがスローモーションに見えた。野太い怒声が飛び交う。跡部の右ストレートが不二の左頬に入る。不二の薄ピンクの爪が跡部の首筋を引っ掻いた。

 私は、ピッチャーの中の氷水を不二と跡部とその他数名に向けて思いっきり被せた。

 飛び散る水音とカラカラと氷が床の上を滑る無機質な音。様々な音で溢れていた食堂は、一瞬で静寂に包まれた。不二や跡部の髪から雫が垂れ、静かな水音を生み出す。金属製のピッチャーを手放すと、耳障りな衝撃音が私の足元で響いた。自分の息遣いがうるさい。泣き出しそうになるのを懸命に抑えた。
 来てはいけなかった、じゃない。もう来てしまったんだ。私が今しなければならないことは、考えること。
 不二の立場が少しでも良くなる方法を、考えて実行すること。
「……そこの女を摘まみ出せ」
 跡部が唸る様にそう告げた。
「……忍足! 宍戸! 今すぐにだ!」
「なんで俺なんや……」
「樺地がいないとすぐこれだ。ふざけんなよテメェ」
 そう言いつつも、名前を呼ばれたらしい丸眼鏡で長身の男と帽子をかぶった短髪の男子が前に進み出てくる。短髪の方が私の手を掴んだ瞬間、私はそれを勢いよく振り払った。
「ガタガタ言ってないでとりあえず食べれば? ……おばちゃんビックリして腰抜かしてんじゃん」
 カレーが入っている大鍋の横で腰を抜かして倒れている夫人に近づき上体を起こしてやると、夫人は困り顔で「ありがとう」と言ってくれた。それ以外は誰もしゃべらない。数名が噛み殺しそうな目で私を睨みつけてくる。
「おばちゃん、ホントごめんね。口先だけのヤツとか、口で勝てなきゃすぐ手出す男とか、ほんと男子って野蛮だよね」
 夫人に話しかけるようにそう言ったが、それは夫人に向けた言葉じゃなかった。その言葉に反応したのは夫人ではなく跡部と不二だった。
「おい、テメェ本当に……」
「ここはテニスの合宿所なんでしょ? ……不二のことが気に食わなきゃテニスで決着付ければ」
 今度こそ跡部を真っ直ぐ見据えてそう言う。60人の誇り高い選手たちが、一斉に私を睨みつけた。お前に何が分かる。お前のような部外者の女に分かってたまるか。
 分かるよ、と言ってしまったら。おそらく私は不二にさえ嫌われてしまうんだろうな。
「……そこを拭きます。退いてください。……おばちゃん、すみませんが配膳頼めますか? 拭いたらすぐに手伝うんで」
「え、ええ……」
 食堂の隅に干してあった雑巾とバケツを持って床に膝をつく。雑巾からは不快な牛乳の匂いがした。立海勢が無言のまま立ち上がり、配膳がなされるカウンターの前に列をなす。白石くんの明るい声が響き、四天宝寺もその後に続いた。食堂の前方に人だかりができるのにしたがって、徐々に人の声が蘇ってくる。
「不二は着替えてきな」
 雑巾を持って私のそばに膝を付こうとした不二へ、私はそう言い放つ。彼の方は見なかった。
「千代田……」
「私のことは一切気に掛けなくていいから。不二は自分のことだけ考えてて」
 しばらくの無言の後、不二は「ごめん」と言って立ち上がった。
「千代田、これだけは覚えておいてほしい。……キミをここへ連れてくることを僕は了解したんだ。キミが、僕に責任を感じることは一切ないんだ」
 去り際にそう告げられる。私は顔を上げなかった。床に散らばった氷を集め、冷たい水を丁寧に雑巾へ吸い込ませる。どんどん冷えていく指先。こんなものを人に被せてしまったという罪悪感が今更襲ってきた。
 誰も私に近づかない。その場にいる全員が私など存在しないかのように振る舞っていた。切磋琢磨するチームメイトと談笑し、カレーの匂いを嗅ぎ空腹を訴え、驚かせてしまったおばちゃんに謝罪をしている者もいる。菊丸くんも乾くんも、こちらを気にしてはいたが近寄ってくる気配は無かった。
 早く夫人を手伝わなきゃ。その一心で手を動かした。その時だ。
「ひっ!?」
 下半身、もっと言うと臀部に冷たさを感じた。慌ててそこを押さえると、ストレッチ素材のウェアがぐっしょり濡れている。私の尻の上には、空になったコップがかざされていた。
「うわ、コイツ漏らしてやがる」
「ビビッてちびったんじゃね? あの跡部に喧嘩売ったんだからよ」
 自分の今の状態と、漏らしたという単語に顔が真っ赤になったのが分かった。違う、漏らしてなんかない。そう訴えるように周りを見渡しても、誰もが目を背けるばかりだった。
 コップを持っていたのは他でもない、青学の二年生たちだった。
「おい一年。さっき監督にお前の強制送還を頼んだら断られた。どういう手を使ったかしらねーが、だったら力づくで追い出してやるからな。……男追いかけて遊び半分で顔突っ込んだこと、後悔させてやる」

 奥歯が噛み合わない。掌に爪が食い込むほど拳を握りしめて、ようやく涙をこらえることだけはできた。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -