12月16日
 季節は流れ、12月。11月初めに行われた席替えで、私は何の因果かまた不二と近くの席になった。今度は私の前の席になった彼は、授業中でもふとした瞬間に振り向いて話しかけてくるので気が抜けない。ただでさえ不二の髪から良い匂いがするとか考えている私は、このやましい思いがいつかバレないかと冷や冷やしているのだ。
 私がささやかな青春を楽しんでいる一方、菊丸くんたちテニス部は死闘を繰り広げていた。10月、11月にあった秋季大会。青学は双璧がいない状態でもなんとか持ちこたえ、県大会も関東大会も順調に勝ちあがっていた。関東が持つ4枠にギリギリで滑り込み、3月の下旬に九州で行われる選抜高校テニス大会の出場権をキープできたのだ。
 そして、その双璧の一角である不二周助も確実にテニスに対する恐怖心を克服しつつあった。ここ数カ月で、気心知れた中学時代の仲間たちとは試合して勝てるほどにまで勘を取り戻しつつあるらしい。この分なら3月の本選までには間に合うかもしれない、とこの前菊丸くんがこっそり教えてくれた。
 忘れてはならないのが、学生の本分である勉強である。半泣きになっている菊丸くんへ不二が笑顔で半ギレになりながら英語を教え、2学期末の考査を無事に乗り越えさせたのは記憶に新しい。奇跡のような赤点回避に、不二も朝までファミレスで勉強を教えた甲斐があるってもんだろう。ちなみに、私はその横でひたすら数学の問題集をやっていた。
 途中、父親から電話が掛かってきたけれど、友人とファミレスで勉強をしていると言ったら興味なさそうに電話を切られた。お父さんから電話掛かってきたと告げた時の不二と菊丸くんの方がずっと狼狽えていた。二人に送られて7時ごろ一時帰宅すると、父はもう家を出た後だった。
 胃が痛くなるテスト返却週間を終えると、華のテスト明け。もう冬休みを待つばかりという解放感溢れる季節の到来だ。周りが冬休みの予定を決めるためにざわざわとし出す頃、私も落ち着きがなくなっていた。
 冬休みに入ってしまうと、また不二と連絡が取れなくなるかもしれない。そのことを考えると私はテスト返しとは違う胸の痛みを覚えた。無駄に消費した夏休みを思い出す。テニス部にとって夏休みはお盆返上の超繁忙期であることは理解していた。けれど今彼は正式なテニス部員ではないし、テニス部は冬に積極的な活動は行わない。はず。
 いけ! 渚! 今こそお前の積極性が試される時だ!
 恋する乙女として、とりあえず当たって砕ける覚悟で23日から25日のどこかで会えないか訊くだけでも!

「ごめん、23日から29日までテニス部の合宿なんだ」
 一瞬で散った私のクリスマス計画は次の通りだ。どこか暇な日ない? と問い掛け『○日なら空いてるけど、どうして?』という流れに誘い込む。今年家族と一緒に過ごせないから寂しいんだ。他に誘える人もいないし、不二さえ良ければ会えたらいいなと思って。ともっともらしい言い訳をしつつ映画、写真展、ウィンドウショッピングの中から一択を選択させる。そして当日は用事が終わったらそのまま食事でもーと……。
「あ……そっか、そうなんだ。もう合宿に参加できるようになったんだね」
 負けるな渚。恋する女は、想い人の前では常に可愛くいなければならないのである。
「うん。本当はまだ正式な復帰をしてないんだけど、特別に監督と部長が参加をみとめてくれたんだ。雑用係って枠だけどね」
 基礎練にも参加させてもらえるみたい、と不二が笑う。
 天才と呼ばれ、最初からレギュラーに選ばれていた選手が雑用係として合宿に参加する。人によってはプライドがズタズタに傷つけられるだろう。けれど彼は嬉しそうだった。テニスに触れられる時間が一秒、また一秒と増えるのが楽しくて仕方ないようだ。どこまでも前向きで、テニスが大好きな人。
 この笑顔が見たかったんだ、何をこれ以上望むもんか。
「頑張って、不二!」
「うん。年明けには絶対復帰してみせるよ」
 私が不二の肩を叩くと、彼は本当に嬉しそうに笑っていた。
 不二がテニスから離れていたのはおよそ1か月。短い期間とは言い難いけれど、その間も筋トレやランニングは惜しんでいなかったらしく、体の衰えは無かったらしい。天才たる所以か、テニスの『勘』みたいなものも特に変化はないらしく。あとは気持ちの問題なんだとか。そういった意味で、テニス漬けになる合宿はいい機会なんだと思う。もう一度、正面からテニスのことだけを考えるいい機会。
 寂しいとか思うな、渚。不二は今幸せなんだ。
 そう言い聞かせて移動する昼休み。不二は乾くんに用があると言って隣のクラスへ赴いていた。私はその間にトイレへ行った。その帰りのことだ。
 女子トイレから戻ると、階段の影から女子に囲まれた猫男子が手招きしていた。
「……え?」
 大きなアーモンド色の瞳が早く早くと訴えている。小走りでそちらへ近づくと、ベージュのカーディガンを腰に巻いた菊丸くんが壁に手を付いて待っていた。不二より身長は高いけれど、不二より華奢な体なのであまり威圧感は無い。けれど香ってくるのは男の子が好きそうな香水の匂いだ。
 そんな彼の周りには、文化祭の時にジュースをくれた学級委員長たちのグループ。計5人の集団は暫く何も言わない。女子たちは一様に笑みを浮かべ、菊丸くんは何かを思案するように私をじっと見つめていた。なんなんだ一体。
「……あの、何か?」
 実は菊丸くんとはあの文化祭以降、少し気まずい関係になっていた。
 いや、正確には私一人が遠慮しているんだと思う。彼自身はあれ以降、不二のテニス中の様子なんかを私に教えてくれたりしている。ただ、あの屋上での一言が彼の本音であるような気がして、私はあれ以来不二へテニスの話題を自分から振らないようにしていた。
 その彼が今、私の前に立ちはだかっている。
「ね、どう菊丸」
「んー……確かに千代田テキパキしてるし、体力もありそうだから雑用向きだけどさぁ……」
 会話の脈絡が分からない。助けを求めるように周りの女子たちを見つめると、ひとりが助け船を出してくれた。
「実はね、菊丸がテニス部合宿の雑用係探しててさ。でも私たちその間丁度旅行行く約束してたんだよね」
 引き継ぐように委員長が言葉を続ける。
「だから私たち、千代田さんはどう? って。ほら、文化祭の時すごくしっかりみんなをまとめてくれたし」
「……えっ」
 菊丸くんが数多い女子の知り合いから彼女たちを選んだのは分かる。全員男に媚を売る様な女じゃなく、それなりに仕事をこなせる頭のいい子たちだ。けれどそこから私に白羽の矢が立つのは解せなかった。実際、菊丸くん自身が納得していない様子なんだが。
「それはその……私ほら、足悪いし」
「菊丸、雑用係のお仕事は?」
「えーっと……ドリンク作りでしょ、洗濯でしょ、球拾いに球出し、道具の片付け、スコアやタイムの記録、合宿中のお金の管理、その他雑用……あとオレらの癒し」
 最後が全てなのだと悟った。それ以外は1年生の初心者を連れていけば何とかなることだ。
「ほら、そんな全力疾走しなきゃいけないことなんてないよ」
 千代田さん可愛いし、適任じゃん! と半ば脅すようにそう菊丸くんへ畳みかける彼女。けれどその時、複雑な表情をした彼が爆弾発言を投下した。
「でも千代田って不二のこと好きなんでしょ? オレあんまそういうの部内に持ち込みたくないんだけど……」
 はっ、と顔を上げる。怪訝そうな菊丸くんの目とばっちりかち合う。
 顔が真っ赤になっていくのが分かった。
 次の瞬間、炸裂したのはひとりの女子のげんこつ。
「こっのバカ猫! 今さっき口止めしたばかりでしょうが!!」
「ってええええ!? なにすんだよ!? そんなバラされたくないなら最初からオレなんかに言うなよなぁっ!? 大体、オレ千代田のキューピッド役なんかやんないからなっ! めんどくさいっ!」
「アンタねっ! 不二くんがあそこまで立ち直ったのは千代田さんのおかげなんだからねっ!?」
 4人の中で一番活発な女の子と菊丸くんが言い合いを始める。煙にはどうやったらなれますか? すでに石化している私を、委員長たちが慰めてくれていた。しかし言葉が耳に入ってこない。
 菊丸くんが隠し事をできない性質であることは想像に難くない。不二の耳に私の思いが届くまでそう時間は掛からないだろう。だからと言って、私は私を応援してくれようとしていた彼女たちを責める気にはなれなかった。
 昼休みも残りわずか。廊下と階段の一角で派手な言い合いを続ける彼らに、とうとう最悪の人物が引き寄せられてくる。
「ちょっと英二、女の子にそんな汚い言葉浴びせないの」
 ヒートアップする口げんかに、背後から釘を刺す声。振り向くと、不二と乾くんの姿がそこにあった。その場にいた女子全員の動きが止まる。頼むから菊丸、余計なことを言うなという殺気が彼に集中していた。
「あーっ、聞いてよ不二、乾! こいつらひでーの! 部長から頼まれた雑用係の話、こいつらに振ろうとしたんだけどさぁ……」
「ちょっ、菊丸!」
「旅行行くから千代田さんはどう? って。でも千代田足悪いし、文化祭とは話が違うじゃん? 泊まり込みだよ? こいつらなんでも困ったら千代田に押し付けんの。かわいそーじゃね?」
 真っ青な顔して菊丸くんの肩を掴んだ子へ、彼は一瞬だけ振り向いて舌を出した。『一つ借りな』と目で訴えてきている。「後でなに奢らされるか……」と私の隣にいた1人が小さく呟いた。
「オレ的にはもう癒しは諦めて、選抜から漏れた部員の誰かを連れてった方が良いんじゃないかって思ってるんだけど」
「でも今回の選抜に入ってない子って、言い方悪いけどちょっとプライド高めの子たちだよね? わざわざ雑用のために来てくれるかな……普通の部活中の雑用だってサボり気味なのに」
「しかし、そうなると不二の仕事が単純計算で二倍になる。不二がテニスに集中できるよう、今回は特例で部外から雑用係を頼むという話じゃなかったのかい?」
 テニス部3人が集合し、何やらこそこそと話し始める。もうすぐ昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るだろう。もう帰ってもいいだろうか。そもそもテニス部にマネージャーや雑用係は必要ないんじゃなかったのか。かつての友人たちから聞いたテニス部マネ不要説を思い出していたその時だった。
 不穏な会話に、意識がそちらの方へ向く。
「仕方ないよ。僕が一応雑用係として合宿に参加するんだから」
「俺の見積もりだと、一人でするのは些か大変だ。やはりもう一人くらいほしい所だよ。たとえ俺や英二が手伝ったとしても」
「ちょっ、ちょっと待って!」
 話に割って入ると、やっぱり菊丸くんはちょっと不機嫌そうな顔をした。初対面の乾くんも、表情にこそ出していないがきっと気持ちよくはないはず。「話割ってゴメン」という謝罪を言ってはみたけれど、たぶん気休めだ。
 でも聞きたいことがあった。
「雑用係が一人か二人かでそんなに仕事量って変わってくるの? あくまで選手が自分で出来ないことが雑用になるんじゃないの? 玉拾いやコート整備も主に選手が分担してやるって聞いたんだけど……」
 私が一歩踏み出すと、乾くんがその曇ったレンズを光らせて口を開いた。
「本来はそのとおりだよ。けれど仕事量なんてものは選手の気分一つでどうにでもなってしまう」
「……というと?」
「例えば、ある雑用係のことを気に入らない選手が三人いるとしよう。その選手たちが『疲れたから何もできない、後はよろしく』と言ってしまえば、雑用係はその三人から仕事を丸投げされることになる。それが本当に雑用の為だけに存在しているならともかく」
 乾くんは敢えてその先を言わなかった。
 私は不二の方を見る。
「……そんなこと、許されるの?」
「仕方がないよ。彼らは選手で、僕はそうじゃない。それだけの話だ」
 不二は苦笑していた。悔しくないはずがないのに。
 不二は雑用係の枠で参加する予定だが、特別に基礎練の参加も認められている。けれど逆に考えれば、ただでさえ大変な練習の合間を縫って面倒くさい雑用を一人でこなさなければならないということだ。
 たぶん菊丸くんや乾くんが手伝うのだろうけど、それでも不二が正規の選手である彼らへ頻繁に頼る様子は思い浮かばない。下手に器用な彼は全部一人でやろうとするだろう。
 そう、たとえば……自分の練習時間を削ってでも。

「っ、わ」
 この一言を言ってしまえば、たぶん相当数のテニス部員を敵に回すことになる。下手したら不二にも煙たがられるかもしれない。
 だから、声が震えた。
「私、その雑用係やりたいんだけど……」
 ずぶり、ずぶりと侵入してはいけない域まで入り込んでいく感覚。迷惑にならないよう恋心を寄せるには、あまりにも近い距離。仲の良い異性の友達を気取るにも、言い訳が苦しい地帯に踏み込んだ。
 誰かを守ることは、とても難しい。


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