9月29日
 文化祭終了から一夜明けた、9月29日月曜日。
 学校は振り替え休日。見事ベスト展示賞を獲得した1年5組は、賞品のカラオケ4時間パーティールーム貸し切り無料券をさっそく使い、打ち上げの最中だった。天候はあいにくの雨。室内の熱気に比例して、珍しく冷え込んでいた外との温度差に結露が溜まっている。
「歌わないの?」
「私、下手だから」
「へぇ、意外」
 何事もなかったかのように、不二は私の隣に座って冷たいウーロン茶を差し出してきた。先ほどまでみんなの楽しむ姿をカメラに収めていた彼は、もうすっかりこのクラスのカメラ担当と言っていい。「文化祭お疲れ」とグラスを傾けてきたので、軽く乾杯した。
「怒ってないの?」
「僕がいつまでも根に持つタイプだと思う?」
「思う」
「ひどいなぁ」
 もう怒ってないよ。急に怒ってごめんね、といつも通りの微笑みで告げる不二。少し離れたところでは、菊丸くんが同じクラスのテニス部と馬鹿みたいに騒いでいた。こちらの様子は少しも気にしていないようだ。少なくともそう見えた。
 もう、戻れないのだろうか。私はどこで間違えた?
「なんか、みんなの私服姿って新鮮だね」
「ああ、うん。……でも不二は予想どおり」
「え、そうかな?」
「うん。絶対そういう育ちの良さそうな格好だと思った」
 不二は、オフホワイトのシャツの上に薄手の黒いVネックニットを着て、少しダメージの入った細身のブラックジーンズを履いていた。青いスニーカーが高そうだ。きっとホントにいいとこのお坊ちゃんなんだろう。
「そういう千代田は、ちょっと意外」
「ん?」
「もう少し清楚系だと思った」
 少し意地悪そうに微笑む不二。私が拗ねたように唇を尖らせるとますます面白そうに笑う。
 大きなギターの絵がプリントされた赤いTシャツに、黒のミニスカート、網タイツ。この足に負担をかけないようなヒールの低いショートブーツは、探すのにとても苦労したんだ。意外に女の子には『カッコいい』って好評だったぞ!
「そう怒らないでよ。似合ってないとは言ってないじゃないか」
「いいじゃん別に! ファッションっていうのはね、似合うか似合わないかじゃなくて着たいか着たくないかが問題なの!」
「でも清楚なワンピースとかもきっと似合うよ」
 不二周助は人の話を聞いていないことがたまにある。清楚な服が似合うってことは、私は清楚な子だと思われているのだろうか。不二は清楚な子は好きですか?
 彼の発言にちょっと照れながらも、思い出すのは昔の友達とのやりとりだった。
「……昔、友達にはワンピース着てると馬鹿にされた」
「え、うそっ」
 驚いた様に目を見開く不二。
「ホント。お転婆が服だけ清楚なワンピース着てても無駄だって」
 むきになって言い返すと、彼はいつも意地悪そうな笑みを浮かべてもっとからかってきた。他の女子には紳士的なクセに、私にだけ彼は辛辣だった。
「……もしかして、その子は男子かな」
「……うん」
 一瞬言いよどんだのは、その彼が不二の知り合いだからだ。そしてそれが知られるのは非常にマズい。けれど私のその緊張を知る由もなく、不二はすこし可笑しそうに肩を震わせて笑った。
「な、なに?」
「千代田、もしかしてその言葉を気にしてファッション変えたとか?」
 それもある……が。
「とにかく、昔とは違う自分になりたかったから」
 そう言うと、一瞬で不二の笑顔は引いた。少し驚いたような顔をする。
「……化粧して、髪型と服装も変えて、学校も変えた。前の自分を全部否定したら、もう少し生きやすくなれると思ったから」
 室内にはオレンジレンジの上海ハニーがかかり、クラスのみんなが大合唱をしながら笑い合っていた。このクラスのこういう底抜けに明るいところに、私も不二も救われてきたのだ。
 異質にも普通にもなりきれない者を、彼らは阻害しないでくれた。たったそれだけのことだけど、私はこのクラスに感謝している。
「それで、生きやすくなった?」
 そう問いかけてくる不二は、少しその選択肢に魅かれているように思えた。私はしっかり首を横へ振った。不二の淡い期待をちゃんと断ち切った。
 させない。不二に今の自分を否定させたりなんかしない。私は何度も間違えたけれど、最終目標だけは見失わないつもりだ。
「不二は消えちゃダメ」
 黒いVネックニットの端を軽く掴んだ。騒がしい外野の音が脳内に響かない。パーティールームの端は私たちだけの空間だった。不二の綺麗な青い瞳に私の顔が映っている。
「……でも、白石たちに会って確信したんだ。僕はここに居ちゃいけない」
「なんでそう思うの?」
「僕が青学に居続ける限り、彼らは『天才』という選手がいたことを忘れてくれない。それじゃダメなんだ。僕にはその責任がもう取れないんだから」
「不二はもうテニスができないんでしょう? だったらそんなことを負い目に感じる必要ないと思うけど。テニスともテニス部とも、縁は切れたんだから」
「!!」
 怯えた様なその表情に確信を持つ。ああ、やっぱり。
 この人は本当は消えたがってなんかいない。
「不二が自分でテニス辞めるって決めたのに、第三者が口を挟む資格なんてあるわけないじゃん。だから堂々としてればいいんだよ。たとえ誰が来たって、不二が後ろめたく思うことないんだから」
 ダメ押しのその言葉を言い終え、俯く彼を覗き込もうとしたその時だった。
 不二が急に私の腕を掴んで引っ張りだした。やはりその力は華奢な彼らしくない強さだ。
 思い出すのは先日の文化祭準備の時だ。こんな場面見られたらまた冷やかされるかもしれない、という恐怖が襲う。私は慌てて周りを見渡したが、クラスの連中は誰もが馬鹿騒ぎに夢中になっていて、気付く者は誰もいなかった、はず。その間にも不二は私を強く引っ張り、部屋から連れ出した。カラオケ店特有の重たい扉が、背後で音を立てて閉まった。
「……千代田、僕は」
 人気のない廊下に引っ張られ、不二はやっと私の腕を放す。
「僕はっ」
 そして私に背を向けた。窓のカーテンをギッと掴む彼の左手が震えている。
 トンッ、と。彼の額が窓ガラスにそっと押し付けられた。

「みんなとまたテニスがしたい……っ。青学の不二周助として、まだ戦っていたいよ……!」

 彼は一見穏やかだが、とても冷めた人間だ。自分のことも他人の事も、どこか第三者的な目線から冷静に分析している。ときどき冷たい目をして、クラスの皆を外から眺めていたことも知っていた。
「テニスやテニス部のみんなと中途半端に関わることなんかできない。それは僕の最後に残った僅かなプライドが許さない。……けどキミの言うとおり、完全に縁を切って堂々とできるほど吹っ切れないんだ」
 でも友人のことに関しては、誰よりも敏感で繊細だった。怖がっているようにも見えた。独りにされるのが怖くて、最初から孤独を好むフリをしているようにも見えた。
 どこかで聞いたことのある話だ。
「英二を見ると、あの猫のような動きを追いながら一緒にラリー練習がしたくなる。乾を見ると、ノートを見ながらああでもないこうでもないって試合の話をしたくなる。白石を見たとき、彼と戦った時の高揚感を思い出してしまった。……ラケットを握るといまだに手が震えるのに、彼らを見るとテニスがやりたくなるんだ。もういやだ……」
 この数週間。彼はずっと、闘争心と恐怖心、仲間やライバルへの思いとトラウマに苛まれていたのだろう。逃げた私なんかが想像できるはずもない、苦しい日々だったに違いない。
 今私が彼に強いていることは、テニスとテニス部が大好きな彼にとってとても残酷なことだ。それが痛いほど分かったからこそ、私は彼に教える義務があった。
 逃げてもこの苦しみは追ってくるということを。
「不二、テニス何歳から始めた?」
「えっ?」
 ふと、思いついたのはそんな会話のきっかけだ。
「たしか幼稚園年長のころだから……5歳?」
「そうなんだ。じゃあ、私の方がちょっとだけ早いね」
「?」
「私、4歳から始めたんだ」
 何を? と振り返った不二が表情で訴える。その顔があどけなくてからかいたくなってしまったので、私は少しだけはぐらかしてみた。いつも不二が私にそうするように。
「何だと思う?」
「何だろう……スポーツ?」
「ううん。でも体はいっぱい動かすよ」
「えーっと……」
「ヒントは私の体型。……今は鍛えてないから筋肉量落ちちゃったけど、前は骨と筋肉しかない体型だったんだ」
 腕を組んで首を傾げていた不二は、ふと思いついたように口を開いた。
「わかった、ダンスだ」
「ダンスにもいろいろ種類あるよ?」
「えーっ、でも僕ダンスなんて詳しくないから分からないよ」
 唇を尖らせ不貞腐れる不二があまりにも可愛らしかったので、私は思わず大ヒントを出してしまった。

 右足を真っ直ぐ後ろへと上げて、90度の位置で留めた。負傷した足首のせいでつま先までピンと伸ばすことができないが、久々に上げたにしては上出来だ。右手は横に上げて、左手は前の方に差し出してバランスをとる。一番有名なポーズだ。名を、アラベスクと言う。

「……もしかして、バレリーナだったの?」
 不二が、彼らしくなくビックリした表情でそう問いかけてきた。きっと、ガサツな私の印象とあまりにもかけ離れすぎていて、ビックリしているのだろう。私だってビックリだ。
 まさか再び、こんなことをする日が来るなんて。
「私の母親は、日本じゃちょっとは名の知れたバレリーナだったんだ。……でも憧れのロイヤル・バレエ団では成功を収めることができなかった。その夢を娘に託したかったんだと思う。私はバレエを母から教わった」
 私が体勢を戻してそう言うと、不二は神妙な顔をして少し私に近づいてきた。ここへきて初めて、私たちの立場が初めて逆になった。不二もそのことを理解しているらしく、真剣に私の話を聞こうとしてくれていた。
「いやだった?」
「ん?」
「バレエ。そんな小さい頃からお母さんに教わって、嫌じゃなかった?」
「ううん。すっごく楽しかった!」
 綺麗に笑えているだろうか。
 久々に、昔のことを語っている。

 バレエは私の全てだった。習い始めてからというもの、幼稚園や学校の終わった後に誰かと遊んだ記憶は数えるほどしかない。帰宅後は大体家で夜遅くまでストレッチや筋トレをするか、近所にある小さなバレエ教室を間借りして自主練に明け暮れた。土曜日は朝早く電車に乗り込んで新宿のスタジオまで行き、夜まで有名な先生にレッスンを付けてもらった。コンクールの前は日曜日も朝から晩まで練習に追われて。泊まり込みで合宿に参加することも珍しくはなかった。
 中学に上がってからは毎日部活という名目で、施設の整った学校内の一角で踊り続けた。休日は大きな大会が終わった後の日曜日だけ。それこそ人生のほとんどすべてを、私はバレエに捧げた。
 クラスメイトと遊べないことがなんだ。体重管理のために食事制限されることがなんだ。放課後誰かの家で遊ぶ計画を立てる女子たちも、甘ったるいお菓子も、そんなものには何の魅力も感じなかった。踊る時間が欲しかった。
 とにかく楽しかったのだ。踊っている自分が好きだった。私は踊るために生まれてきたのだと本気で信じていた。

「私はこの通り足を痛めちゃったから、もう二度と踊れない。……でも、何年間も続けたことって、どう足掻いても生活の一部から抜けてくれないんだよね」
 テニス辞めても、いつの間にか繰り返してる習慣とかない? と問いかければ、彼は少し気まずそうに苦笑いした。
「私もそうなんだ。いまだに甘いお菓子食べるのには抵抗があるし、いつの間にか柔軟体操してるし。昔のライバルが活躍しているのを、つい耳にしてはまだ悔しいと思ってる」
「千代田……」
「だから! ……だから、ね。えーっと、あの……」
 私はもう無理だ。治せないし、今更追いつけない。けれど不二はそういった体の怪我ではない。もちろん、体の傷よりも心の傷の方が治りは遅い場合があることも知っている。
 だからこそ、伝えたいことがあった。
「逃げようと思っても逃げ切れないよ。頑張って前の自分を取り戻すか、割り切って中途半端に関わり続けるしかない。……私はね、不二にできれば後者を勧めたくないんだけど」
「どうして」
「え?」
「どうしてキミは、そこまで」
 僕のことを、そんなに親身に考えてくれるの?
 そう問いかけてきた不二は俯いていて、表情が分からなかった。
「え、そんなに親身かな?」
「普通ならこんな暗い話、直接関係ないキミはとっくの昔に嫌になってていいはずなのに」
「関係ない、か」
 不二は、変なところで鈍感だ。そんなところも愛おしい。この人を守りたいと思う。
「今の聞いて分からなかった? 私は、勝手に不二と昔の自分を重ねてるんだよ」
 不二への恋慕にひっそりと混ざり込んで、共存している私のエゴ。私は、不二の向こうに自分が歩めなかったもう一つの未来を重ねていた。
 だからこんなにも不二に幸せになってもらいたくて、こんなにも不二が気になる。こんなにも、不二の力になりたい。
「僕と、キミを?」
 不二は顔を上げた。綺麗な海の底のような瞳が真っ直ぐ私を見据えてくる。彼の背後では雨が窓を叩く音がした。
「でも、私は別に不二をテニス部に戻したいわけじゃないんだ。そんな無理やり戻ったって、不二が今以上に苦しむのは分かってるし。……ただ、本当のことをみんなに言わないのは絶対に良くない。私がそれで失敗したから」
 右足が鈍く痛んだような気がした。とっくの昔に完治しているはずのこの足首は、いまだにふとした瞬間痛んでは、私に忘れさせまいと主張してくる。
「友達に別れも言わず、それどころか酷いことも言っちゃって。今の不二と同じで、自分の本心を見せたくなくて。ただその一心で逃げたの」
「……そうなんだ」
「うん、その結果がこれ。卑屈で、自分が嫌いで、後悔ばかりだよ」
 だから、こんな寂しい結末を、不二には絶対迎えさせたくない。
 文芸部という殻に閉じこもって、遠くからテニス部やクラスを眺めるばかり。孤独を気取っていた私を、引っ張り出してくれた不二や菊丸くんだからこそ。ちゃんと向き合ってもらいたい。
「不二が試合中に思ったこと、感じたこと。なんでテニスができなくなったのか。全部話してから、これからの居場所を決めても遅くないと思う。……みんなきっと、不二に失望なんてしないから」
 そう、私はこの言葉を伝えたかったんだ。


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