いつまでも感傷に浸っている暇はないとクライサが教会に入ると、怪我人や火事で焼け出された人々が集まっているだろうという予想を裏切り、礼拝堂に人の姿はなかった。

「……ちゃんが、オレに振り返ってくれますように」

ただ一人を除いて。紫色の長い髪を後頭部で結わいている、若い男がこちらに背を向けて跪いていた。襲撃で不幸な目に遭った人かもしれないと思えば、彼が祈っているのは先のような願い。

「でもって、オレのことを好きだって言ってくれて、手とか握ってくれて、チューとかしてくれたりして、もうあなた無しでは生きていけないから結婚してください、デクスくん大好きとか何とか言ってくれちゃったりしますように」

……なんかもうアレなんで、クライサはそっと扉を閉めた。中に救助が必要な人はいないようだし、あんなのに自ら近付いていくのはただのアホだ。見なかったことにするに限る。
それに、扉を開けた途端に鼻を突く強烈な臭いが漂ってきたのだ。恐らく臭いの元は彼で、香水か何かを使っているのだろう。そんなもんが漂っている堂内に入るのはごめんだ。

「あれ?どうしたの、クライサ」

扉に両手をついたまま、脳内から記憶を消去しようと俯いていると、背後からエミルがやってきた。彼の担当していた区域の人々の救助が済んだのだろう。こちらの様子を見に来たらしい彼に、どう説明しようかと返答に悩んでいると、不意に扉が開いた。

「ん?なんだお前ら」

中で祈っていた青年だ。しまった、とクライサは額を押さえ、強烈な臭いにエミルが顔を顰める。

「ま、まさか!」

青年はやけに時間のかかるオーバーアクションで二人を指差すと、芝居がかった声で驚いてみせた。

「お前らもオレが好きになったのか!?」

「はぁ?」

「そうか……通信販売で買った魅惑の香水『メロメロコウ』は男女問わず効果があるんだな!」

ただ呆気にとられているエミルの横で、クライサは彼方に目を向けていた。完全な現実逃避だ。

「少年たちよ、君たちの気持ちはよくわかった。しかしオレには心に決めた人がいるのだ」

「……ええと……」

「だが、せっかくこうして出会ったんだ。オレのかぐわしき香り『メロメロコウ』を君にも分けてあげよう」

そう言ってエミルの手に香水の小瓶を押し付けると、何故かその場で一回転してからクライサに向き直る。

「そして君にはオレのサインをあげよう!」

「いらねぇよ」

「ごふぅ!!」

鷹爪蹴撃(リーガル直伝)で青年を地面に沈め、クライサは何もなかったことにして街の方へ足を向ける。まだ怪我人もいるだろうし、火事もおさまっていないのだ。エミルもそれに続き、教会を後にした。





何もなかった、うん




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