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第5話


あの一件から尾形さんを訪ねてくる師団の人が極端に減った気がする。私としては仕事が捗って気分が良い。が、


「あらチク先生、ごめんなさい」


こんな所にいらしたなんて、と言われた言葉を受け止めて今し方圧力を感じた左肩から腕をさする。
廊下ですれ違うのに気付かなかったと言わんばかりの体当たりは他意しかないのだが。
陰で何かをされるよりはずっと分かりやすくて可愛らしいと学生時代と比べれば幾分もマシだと思う。


「いいえ、大丈夫ですよ」


にこりと笑みを返して袴に零してしまった薬を軽く拭う。これは洗わないとだめだな。
手元に残った薬を確認して今度から尾形さんの部屋で煎じるかと心に決める。必要なものさえあればどこだって別に良いのだが、物音など造作は淑やかなものではない。
見せない様に、とは思わないが見てしまう側への配慮だと思っていたのが仇になった。
深く息を吐いて気を持ち直す。今日は尾形さんの固定を緩める日だ。完全に外すわけではないから咀嚼はまだ無理だけど食事は液体から流動食へ切り替わる。
僅かに開いた口元から彼の声も聞けるかもしれない。そんな大事な日に余計な事を考えたくはなかった。
手元に抱えた物を持ち直して通いなれた尾形さんの部屋に向かった。









包帯を取り除いて顔の輪郭から傷までを観察する。思っていたとおり、固定は緩めて大丈夫だなと経過を見て判断した。もしかしたらもう数日前でも良かったかもしれないけど無理をされて後々困るのは尾形さんなので安静に安静を重ねた。
この様子なら完全に固定をとる日は早いかもしれない。
尾形さんと面と向かったまま私は尾形さんに「歯を見せて」と伝えれば彼は唇を開く様にして私に従った。その彼の様子を確認して、使い捨ての手袋をして彼が開いた唇の中に指を突っ込んだ。


「っ!?」
「固定を少し緩めるから、じっとしててね」


驚いた様に私を払おうとした彼に気がついて頬を引っ張る様にこちらを向かせて視線を合わせる。
尾形さんは顔を顰めつつも大人しくなったので、私は手元を動かした。
ガッチガチに固定した顎は歯をすり合わせるのもできない様に施した。歯と歯を縫い合わせる様にして糸で固定していたので言葉の通り口を開くことが出来ない。固定する際に段階に合わせて解ける様に行った処置履歴をチラリと見てから、順に解く。いくつかの糸を引き抜いて尾形さんから手を引き「どうですか」と声をかければなんとも言えない目線を送られて彼はそのまま口を閉じてしまった。

違うよ尾形さん、そうじゃない。

意味が伝わらなかった事に「何故だ」と思わず口にして手袋を脱ぎ捨てる。


「口、開きませんか」


そう言えば合点がいったらしい。
もごもごと口元が動くのが見てとれて小動物の様だとどこか思った。
そして眉を顰める彼に私は首を傾げる。何か不都合があったのだろうか。


「見せて」


また彼と向き合ってそう言えば尾形さんは先程と同様に唇を開く。その向こうに見える歯に私は注視した。手の小指程の開き具合だが、たしかに開いている。それは私の想定通りで問題ないが尾形さんはもっと開くと思ったのかもしれない。「大丈夫、予定通りだよ」そう伝えれば彼からまた刺さる様な視線を感じた。
早くご飯が食べたかったのかもしれないなと思いながら私は尾形さんに水を渡す。


「尾形さん、声出そう?」


受け取った彼が目を瞬かせる。止まってしまった手元にどうぞと促せば彼は水をグイッと喉に押し込んだ。良い飲みっぷりだ、液体薬を口の端から零していたとは思えないほど豪快である。
そして口元を軽く手で拭った彼が意識的か無意識的か自身の喉をするっと摩った。


「…ぁ……あ゛、あ゛ぁぁ…」


張り付いたものを無理に剥がしたような、水気のない布巾から水を搾り出すような、カサついた掠れたその声はしっかりと低い男のものだった。
げほげほと咳き込んだ彼にまた水を注いでやれば、それを受け入れて煽る。
苦しそうに息を乱した彼に声帯って使わないと萎縮するらしいもんなと何処かで思いながらも私は何故か高揚していた。
生まれて初めて声を出すわけでもない、彼と話したことがないだけであって彼は声変わりも終えた立派な大人であるのに何故か私は彼が声帯から音を奏でようとするその様子をとても神秘的なものに思えてしまったのだ。
息を整えた尾形さんが私をチラリと見た。そして何故か口角を上げて見せたので私はドキリとした。見透かされたわけでもないだろうに。


「…お前は、いつも急だな」


からからと掠れた声だった。出しにくそうに音を紡いだその声は小さくまるで病室に溶け込んでしまいそうなものだったけど、向けられた私にはしっかりと届いていた。


「え、急、かな…?」
「大体の事に説明が足りん」


まさかの駄目出しに私は思わずたじろぐ。彼はそんな私の様子を気にも留めない様子でそう続けた。
最初の会話がこれってなんなんだろうと思いながらも発声に問題はなさそうかなと思って尾形さんの顔に両手を伸ばす、とパシリとその手を取り上げられた。


「え、なに?」
「そういうところだ」


吃驚して彼を見れば呆れたように答えられた。
えええ…と少し考える。尾形さんこそ言葉足りないんじゃないだろうかと思いながら触らせてくれないと顎の筋肉をほぐしてやれないのにと心の中で愚痴れば、ああそういうことかとやっと理解した。


「顎周りの筋肉が硬直してるから関節が動けるようにほぐすんだよ」


そう言えば知りたい事に関しては正解だったらしい。するっと解放されて改めて彼の顔に手を伸ばし顎関節を探った。
開閉をしてもらい関節と筋肉の動き具合を探り処置履歴にメモを残す。そして再び彼の顎関節に触れて指の腹でその周りを強く撫で付ける。
尾形さんは目を瞬かせて私をじっと見た。痛いはずなのに何も言わない彼に思わず感心してしまう。


「お前人間専門の医師だろうな?」
「なんです突然」


人間以外の医師ってなんだ。馬とか獣専門という事だろうか。獣の解剖は経験あるが処置は一切した事がない。医学校も勿論人体について教わっていたのだから。
不躾な質問だなと尾形さんに視線を送れば悪びれた様子も無い彼と目が合う。


「手際は良いんだろうが、節々に乱雑さがある」


それこそ説明不足ってのは医者の信頼問題じゃないのかい。と続けた尾形さんに言葉を飲み込む。
棘を感じる彼の言葉にも言い返せない、鋭いとすら思う。
生身の人間を診るのは初めてではない。父の手伝いや煎じ薬を処方する事も多い。けど担当医としてついたのは初めてだし、大きな怪我を診たのも初めてだ。切断された腕の縫合や溢れた臓物の手術の真似事は何度も行なって慣れてはいるけど、どれも冷たくなった人間に対してだ。
人形の様に横たわって文句も何も言わない彼らを多く相手にしていたのだから労わる面が足りないと見抜かれては否定も出来なかった。


「…気をつけます」


居心地悪くそう答えれば尾形さんは声に出してははっと笑った。愉快だと言いたげな笑い方に思わず手の力を強めてしまったのはわざとではない。


「あ、そうだ尾形さん今日から流動食ね」


思い出して彼に伝えると彼の視線が卓上に動いた。


「本当はちゃんと噛んで味わいたいだろうけど、咀嚼はまだ無理だから我慢してね」
「…おい、俺はそんな食いしん坊じゃねぇぞ」
「え、そうなの?」
「お前は俺の何を見てそう思い込んでたんだよ…」


割と最初の頃に液体薬について抵抗されていたから、ご飯が食べたいのだと思っていた。そう伝えれば深い溜め息が返ってきた。


「(この人思っていたよりいい性格してるな…)」


もっと寡黙な印象だった。喋らず今まで過ごしてきたからというのもあるだろうが、皮肉めいたものを込める人なのだと何となく分かった。
触れていた手を止めて「しばらくこれ繰り返しですからね」と告げる。顎に関しては繰り返しほぐして可動域を元に戻す。ただし顎に負荷を加えるのはまだ出来ないため彼には流動食と付き合ってもらうとする。


「じゃあご飯食べよ」


匙に乗せた薬膳の流動食を尾形さんの口元に運べば分かりやすく眉を顰められた。


「…なんのつもりだ」
「え、食べないの?」
「じゃなくて」


それは何だ、と匙を指差されて私は首を傾げた。何って、何だろう。説明したと思うんだけど聞いてなかったのかな。


「流動食」
「………」
「…その溜め息は傷付きました」


隠す気もない深い溜め息を目の前に浴びせられて私の手が震える。ひどいな、言いたいことあるならちゃんと言えばいいじゃないか。


「その手は何のつもりだと聞いてる」


その言葉に流動食を運ぶ私の手を指していたのだと気付く。何って食べさせようとしてるんだけどな…


「尾形さん口の開き具合わからないでしょ、自分で食べてもいいけど零しちゃうよ」


液体と違いドロついたこれをこぼす図はあまり見たくない。幼子なら微笑ましく見れるだろうが良い大人が食事を撒き散らかすのは見ていてみっともないだろう。
そんな意味を込めて伝えると尾形さんは黙り込んだ。
少しして返事の代わりに開かれた口元に私は笑みを彼に返して匙を運ぶ。歯と歯の間から口内に流し込む様に匙を傾けてやれば、尾形さんは顔を少し傾けてそれを受け止めた。
こくり、ゆっくり飲み下した彼は感情の読めない目で流動食の入った器を見た。


「味気がない…」


そう言った彼に笑いながら続きを運ぶ。
何だかんだ完食し薬まできっちり飲み込んでくれた。