×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

第35話


私が知る軍人とは程遠く、狡猾さや傲慢といったものが微塵も滲み出ていない彼は名前を鯉登と名乗った。
気品を漂わせる所作に自然と私の背筋も伸びてカップに伸びる指先すら少しだけ緊張しているようだった。おそらく、きっと、理由はそれだけじゃないけれど。


「遠慮することはありません、こちらに滞在されている間は我が家のようにお寛ぎください」


何か不都合があればすぐさま私へ。そう付け足された言葉と淡い微笑みに私は居心地悪く視線をカップの中に落とした。ドキリと心臓が忙しなく動いたのは嫌な意味ではないのだろう、むず痒いような気持ちを誤魔化すように奥歯をギッと噛んで私はゆっくり息を吐いた。


「使いの者は既に出しています、時期に迎えが参るでしょう」


そう言う鯉登さんにそっと視線を戻す。
優雅な動作でカップを口元へ運んでいるところだった。
私はそんな大層な扱いを受けるような存在ではないはずだった。だったけど、事実こうしていると言うことはおそらく鶴見さんが絡んでいるのだろう。
使いと言ったが、小樽に戻されるのだろうか、父の元に。そこに鶴見さんが根回ししていると言うならばなるほど上手いなと思う。旭川に連れてこられたのは予想外だったけど、軍属の庇護の元だと思えば納得できる。私は利用されているのだろう、その価値があるかどうかは置いておいて鶴見さんは可能性を見出したのだと思う。
鶴見さんの元から父と合流して東京に帰らせられるという形を予想していたが、まさか旭川を間に挟むとは思っていなかった。交通の便を考慮してなのかもしれないが、尾形さんが言っていた事が正しいのであれば鶴見さんは第七師団を乗っ取りたく反逆を企てているはずなのだ。だとしたら旭川を介するのは余程この鯉登さんを買っているのか、私の頭ではどうやらあの狸の考えを読み取るのは不可能らしい。さっぱりだ。


「私のことは鶴見さんから…?」


連絡が行って迎え入れられて、ということは彼によって手が回り話がついているということなのだろう。確信を持っていたが、特に会話の話題になるようなことも見つけられなかったため沈黙を回避しようとそう口にする。
すれば、鯉登さんが私の言葉に反応してふっと力を抜くかのように表情を綻ばせた。端正なその顔の微笑みと呼ぶに相応しい彼の表情に、きっと花園などが似合うのだろうなと場違いにも思った。


「ええ、とても心配しておられました」


キリリとしていた表情から花を愛でるような、そっと頬を風で撫でられるような、そんな空気を持った彼に私は鶴見さんがどれほどこの人から信頼されているのかを悟った。軍に所属する以上は上下や規律が厳しいと想像するに容易いが、敬愛と呼ぶのだろうか、この人は単に軍属という立場を除いても主従のように疑わず尽くすような、そんな気がしたのだ。


「心配……ね」


それは一体何に対してなのか。
私という存在の利用価値を考えて、身の危険云々を想像すれば父や祖父、つまりは私の家を敵に回してしまう以上心配するのだろう。それが鶴見さんの管轄下で私に何かあれば危ういほうに傾くし、行方不明とした私が保護されたとなれば鶴見さんの手柄となる。
天秤を傾けるかのように、その錘は鶴見さんの采配次第だ。まったく、面白くない。
そうは思っても、籠の中の鳥状態である以上、私は詰みであり何もすることができない。


「お嬢さん…?」
「いえ、なんでもありません…。少々疲れましたので、休ませていただきますね」


小さくつぶやいた私の言葉を拾い上げたのか、鯉登さんが怪訝そうに私へ声をかけた。
それに力なく笑みを返しつつ思考を放棄するかのように私はこの場から逃れようとそう返す。
だって、そう、詰みなのだ。もう何もできない。どこにも連れて行ってもらえない。私はどこにも行くことが出来ない。短く不甲斐ない逃避行だった。



***



起きて身支度をして部屋で時間を潰し食事をとってまた時間を潰し食事をとって眠りにつく。
そうやって一日を消化していると私が退屈しないようにと思ってなのか、ピアノや刺繍など案内されたけど私はどちらも好まないし刺繍をするなら何か果物に縫合の練習でもしているほうがずっといい。
けれどそんな事を言えるわけもなく私はまた起きてただ寝る生活を繰り返した。
ここからなら陸軍病院もすぐだから行きたいのだけれど、部屋の外にいる見張りのせいで私は自由に外出ができないでいるのだ。おそらく、鶴見さんの指示なのだろうな。
鳥籠の鳥とは皮肉な表現もあるもので、尽きることのない溜息を吐き出して私は菊の簪を指でなぞった。飛ぶことを制限され箱に詰められるというのはどんな気持ちなのだろう。
生憎、私は鳥になったことがないので空を奪われる苦痛を知らないけれど、行動を制限される苦しみは理解しているつもりだった。

――コンコンコン

乾いた音が静寂を破るように響く。視線だけを音の発生源に投げればそれは自然とこの箱と外を隔てる扉へとたどり着いた。
どうぞ、と短く返すと言葉の後一呼吸おいて扉が開かれた。ガチャリとドアノブが回る音にその向こうの人物に視線をずらせば、見張りの一人である瀧元さんが立っていて私とカチリと目が合った。


「お嬢さん、ご実家から使いの者が到着しましたよ」


乱れてもいない軍帽をきゅっとかぶり直しながら、彼はそう言うと鍛えられたためだろう、がっしりとした体をすっと扉の前からずらし私から使いの者らしき人物に目をやった。
その一連の流れを眺めていた私も同じように瀧元さんから視線を使いの者≠ノ向ける。
瞬間、ひゅっと喉が閉まるのを自覚した。
元々若いという年齢でもなかったが、給金の良さは何となく感じるような身なりだった。いや、あの家に仕えるのだから建前だったとしても見栄を張るために外見を整えるのは当たり前だっただろう、流行りを取り入れた着物だって髪型だって私はよく見てきた。けれど、どこかふくよかと言えた体格は一回りばかりか二回りほども小さくなっているような気がして、きっとそれはおそらく気のせいではないのだろう。頬骨の出た骨格、首も喉が良くわかるくらい細くなって、最後に会ったよりかなり老け込んだような気がするが、私がこの女を見間違える訳がなかった。


「とよ…」
「お久しゅうございます、江茉様」


瀧元さんが「では私はこれで」と扉をゆっくりと閉めるのに促されるようにとよが部屋に入室した。
気味が悪いほど様変わりしたとよは私の乳母である。祖父母の良い使い駒で私の監視役であるこの女は、私が道で転んだ子どもの傷口を拭っただけで祖父へ告げ口を行い私に罰を持ってこさせる。
にこりと私へ微笑んでみたとよに、まるで骸骨を見ているようだと私は無意識に目を細めた。
桐原からの迎えがとよかもしれないというのは考えられた選択肢の一つだ。祖父母の金魚の糞であるこの女は祖父の一声で何だって言うことに従う。
自分の保身のためであるその行為は、私から乳母への信頼というものを根こそぎ奪っていくには十分すぎたものだった。それに幼少の頃の私の記憶が正しければ、母は間接的にこの女に追い出されたと言っても過言ではない。
だから私はこの女が大嫌いだった。
とよが来るかもしれないことは予想していた、だけど、こんなに変わり果てた気味の悪い姿は予想外だった。


「旦那様がとても心配していらっしゃいましたよ、よくご無事で」


とよの面影を残しとよの声で老婆がそう口にした。
私に向かって伸ばされた手を、私はいつかと同様に反射的に弾いた。私の行為にとよは弾かれた自身の手を撫でて「わたくしも大変心配しておりました」と続ける。


「白々しい」


ほとんど反射的にそう返すところ、姿が変化してもとよであると確信している以上私の体に染み込んだ対応は変わることがないらしい。考えるよりも早く口に出たその言葉に私自身が笑ってしまった。


「そんな…悲しゅうございます江茉様、わたくしは何よりも一番にあなた様のことをいつだって考えておりますゆえ…」


皺だらけになった手をこすり合わせ、私に媚びを売るかのような猫撫で声は背筋をぞっとさせた。鳥肌が立ちそうだと腕をさする。
扉の前に立っていたとよが、部屋の中央の椅子に腰かけた私のテーブルを挟んだ逆側にやってきた。
座ることを許した記憶はないのだが、断りもなく腰かけたとよに私は顔が歪むのを隠し切れなかった。
それを気が付いてか否か、とよはにっこりと笑みを私に向ける。笑い皺が深く刻まれたその顔にまた不快感を覚えたのはこの女の目が全く笑っていなかったからだった。


「今回の江茉の件は旦那様からわたくしが預かっております」


どこか弾んだような声色とその言葉に嫌な予感を感じて無意識に拳へ力が入った。


「桐原を軽んじることのないように躾けよと仰せでした。帰るまでにきちんと今までの分を思い出してくださいませ」


するりと、とよの手が自身の袖に伸びる。言葉の意味を理解しようとしながらその手を目で追っていると、とよが袖口から見覚えのある竹べらが姿を現した。
反射的に椅子から立ち上がりとよと物理的に距離を取る「何のつもり」溢した私の言葉にとよは深く笑う。


「旦那様の言いつけ通りに、わたくしは以前の江茉様へお戻り頂くお手伝いを任されております」


竹べらを指でつっと撫でたとよに無礼者、と喉の奥で吐き出す。とよが嘘をついていないことは、その竹べらが何よりの証拠で。見間違える訳もない、祖父が私を打つ時に使うそれは所々赤黒く汚れている。
だとしても、果たしてこの女私が素直に言うことを聞くとでも思っているのだろうか。だとしたら大層めでたい頭をしている。


「私に触ろうものなら何としてでもお前から私は逃げるよ」


以前のとよならどうだったか分からないが、今現在のこの女を撒くのは容易いだろう。
部屋の隅に置いた薬箱を視線をずらすことなく確認し、頭の中で外までの順路を描く。例え師団の人に捕まったとしてもここからどうにか逃げ出せなくても、桐原に帰るまでに逃げ出せればいい。そうすれば全ての責任はとよのものである。


「それは困りますねぇ」


私の言葉に芝居じみてそうとよが呟く。
戯言のような言い方に少々イラついて、目を細め咎めて見せればとよが小さく笑った。やはり、目だけは笑っていない。


「江茉様が桐原家を出られた後、旦那様が下した決断をご存知でしょうか」


それは、まるで悪魔のような囁きだった。


「あなた様が懐いていらしたあの庭師」


言葉を含むようにそこでわざと言い淀むとよに悪寒がした。
庭師と言えば私が小さいころから屋敷にいる男で、祖父と同じ年代の人間だ。しかし祖父とは違い朗らかでお日様のような彼は、私が屋敷を出るのを助けてくれた恩人でもある。


「勘次郎に、何をした」
「もういませんよ、そんな男」
「っ」


小さいころから、それこそ私が生まれる前から勘次郎は桐原に勤めていたはずだ。とよよりも長く。なのに何故。いや、違う、わかっていたはずだ。


「江茉様はお分かりだったはずです」


この結果をあなた様が分からないはずありません、そう言い直した女に私は顔を伏せた。
図星だ。別れ際にうまくやると言われた手前考えないでいたけど、明るみになった時どんな仕打ちを受けるかは私がよくわかっていたはずなのだ。


「江茉様が選んだことではありませんか」


歪んだ私の顔を覗き込むように顔を傾けて女はそう続けた。そして、「それから」と言葉を繋ぐ


「さすがに旦那様は贔屓から手を引きはしませんでしたけど、それはこれからの江茉様次第です」


含みを持たせたその言葉に私はぱっと顔を上げた。
贔屓、その一言で全てを理解できるほど桐原家は簡単じゃない。でも勘次郎の話が出た後の贔屓と言われれば、もう一つしか意味を持っていなかった。


「(……藍治)」


私の幼馴染である。織物問屋の息子で桐原が贔屓にしており、融資もしている。工場を持っておりそこそこ大きな規模であるから潰すなどということは出来ないだろうと思いたいが、祖父が何をするかは私が一番想像できないのだ。
つまり、私が下手な真似をすればとよは祖父へ報告し藍治の家に何かしらを起こすというのだろう。今が無事であるという事に安堵しつつ勘次郎のことを悔やむ。
そしてこれがただの脅しでないという事を理解して深く大きなため息をつくと、私が理解したことを理解したとよが深く笑って竹べらを撫でながらすっと立ち上がった。



「さあ江茉様、おみ足を出されませ」



その目はやはり、笑ってなどいなかった。