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第36話


旭川についてどのくらいが経っただろう、とよが旭川に来て何日経ったのだろう。
どちらもよく分からなくなっているのは、久方ぶりに足を打たれたせいで発熱し寝込んでいたせいもある。
日付を確認するのも億劫で私はただ部屋にこもっていた。
日常的に打たれていたあの頃と違って、痛みを忘れたわけではないけれど久しぶりの感覚にどうしても憂鬱を覚えずにはいられない。
髪を編むのも面倒で、私は緩くまとめた髪を菊の簪で留めて寝台の上をごろりと転がる。
父と連絡を取っているのか祖父と連絡を取っているのか、何をしているのか不明だがとよが来てからすぐに東京へ帰るわけでもなく、こうして部屋で暇を持て余していた。
薬箱は父からもらい受けたもので、父は祖父から譲られている。だからこの箱が捨てられるなどということはないが、今薬箱を弄ってとよがこれに手を出さないという保証はなかった。箱だけではない、中身の薬や器具は私が何年もかけて集め知識を矛に整えてきたものだ。何よりも大切で私の誇りの塊である。
それにとよが触れようものなら私はとよを許さないが、藍治のことを盾に出されてしまえば下手なことはしないほうが良いだろうと考えずともわかる。

そうして何をするでもなく時間の流れにただ乗っていれば、ふと扉が叩かれた。
次いで私を呼ぶ女の声が向こうから聞こえる。


「準備が整いましたので、帰宅の身支度をなさってくださいませ」


返事を返すまでもなくとよがそう扉越しに私に宛てる。その言葉の内容に怪訝に思い体を起こした。寝台から足を投げ出して床にそっとつける。
体重をかければズキズキと痛みを増す足になぜか頭痛すら感じて。それを拭うように私は扉へ歩み寄った。
ガチャリ、ドアを開けてそこに立つ老婆を見やる。


「随分急だけどどうしたの?」


昨日までそんな素振りも何もなく、突然帰る準備ができたから帰るぞと言われれば当然の疑問だったと思うのだ。
そんな私の質問にとよは答えず、私の顔を見て目をぱちくりとさせた。なんだ一体…、思ったのも束の間


「あら、江茉様。素敵な簪をお召しですね」


そう言ってするりと伸びてきた手が私の髪を上げている簪に向かっていると気が付いて、反射的にその手を振り払った。
私を打ち、私を脅して縛るのは致し方ないとしても、私の思い出にまで手を出されるつもりはない。それを容認する訳がない。
私が叩き落した手を特に気にするでもなく自身の頬に寄せてとよは嬉しそうに笑う。こけた頬が一層目立ちまるで童謡に出てくる山姥のようで、元の彼女を知っていればその変化の有様に未だ慣れずぞっとして私は一歩とよから距離を取った。


「旦那様はきっと大層喜ばれるでしょう。あなた様がそうしてご自身から華やかなものを身に着けるなんて…。わたくしは大変は嬉しゅうございます」


そう言ったとよに、ああなるほどねと理解する。
私が今まで身にしていた簪は目立った装飾もなく一見質素なもので、私が選ぶ服も祖父母が好む絢爛なものとは程遠い。
だからこの赤い菊の簪も普段であれば私が選ぶようなものではなく、しかし見事に作り上げられた菊は見栄を好む祖父にとって気に入るものとなるだろう。
誰かに指示されるでもなく、私自らがこうして身に着けていることをとよは本心から感動しているようだった。


「江茉様は御髪もお肌も薄くいらっしゃいますから、このくらい立派で鮮やかな方が映えてとてもお美しいです」


満足そうにそう言うとよに酷い言われっぷりだと感じながら私はもう一歩下がった。
自分の趣味と相反するもので着飾らされる方の身になってほしいものだ。それこそ私は東京では着せ替え人形のように祖母に身なりを整えられ縁談話を進められていたのだから今更この人たちの価値観と擦りあうなどとは思わないけど。


「これならきっと殿方もお喜びになります」


歪みそうな表情を隠していれば、ふっと投げられた言葉に思わず「は?」と声が漏れた。
意味が理解できず促すようにとよを見れば、とよは目を細めにっこりと笑んだ。


「旦那様が縁談を持ってきてくださったのですよ。日取りが整ったのでお屋敷ではなく直接待ち合わせに近い宿に向かいます」


お喜びくださいませ、先方は江茉様のお写真を見て気に入ってくださっているそうです。製薬会社の次男坊で、桐原家へ婿入りすることを快く了承しているとか。


「これで旦那様も江茉様の粗相は水に流してくださいます。あとは良き妻として夫を支え母として子を授かっていただければ桐原も安泰でございます」


つらつらと述べるとよに私はわなわなと体が震えているのが分かった。
恍惚の表情のとよが、なぜ上機嫌でいたのか。それが分かってしまい途端に猛烈な吐き気に襲われて口を抑える。
いつかは、と覚悟していたことではあるが冗談じゃない。
このまま東京の屋敷に帰るのではなく直接先方に会うとなれば、私の自由はもうないに等しい。
けど、それらを口にするほど私は愚かではなかった。盾に出されてしまった幼馴染の手前、私の意志でこれを反故にすればどうなるか分かっている。
願わくば相手が実際に見た私に不快感でも持って白紙にしてくれればいいのだが、私が理由となれば祖父は私を許しはしないだろう。
八方塞がりだ、もうどうすることもできない。
いつか来ると思っていた日がこんな形で訪れるとは思っていなかった。


「さあ、帰りましょう江茉様」


にこにこと笑むとよに返す気力も何もなく、私は自分の荷物をまとめ始めた。




* * *



じんじんと痛む足すら腹立たしいほどこの状況が理不尽だと思った。あの家に生まれたことを後悔はせずとも、性別がどうして女として生まれ落ちたのだろうか。
そんなこと考えたくもないし、悔やみたくもないのに思わずには居られない。
薬箱を背負ってとよに促されるまま部屋を出る。見送りにだろうか、瀧元さんが私ととよの後ろをそっと歩んでいた。
馬車は外に、という瀧元さんにとよが礼を伝えていた。何でもないやり取りが耳に入ってくるのを聞き流して何日もお世話になっていたこの館を出る。
久しぶりの太陽な気がして、私を照らす日差しに目を細め空を見上げる。
一つ深呼吸をして視線を前に戻せばずっと先の開けたところに馬車が止まっているのが分かった。
自由に歩けるのもこれが最後なのかと思うと、両足の痛みはまるで足枷のように思えて小さく笑いがこみ上げる。

そう諦めを受け入れていた時だった。

建物の物陰からグイっと何かに引っ張られる。自分ではない何かの強い力に驚きつつズキリと痛んだ足に思い切り顔を歪める事となった。


「江茉様!!」
「お嬢さん!」


2人が叫ぶように私を呼ぶのが分かって、ようやく私を引っ張ったのが誰か他の人間であると理解した。
銃剣を私の首にかまえて「動くな」と低く唸ったその声に私は目を張ることとなる。


「(まさか、なんで)」


ここは旭川だ。この行為がどんなに危険でどんなに愚かであるか、わからないはずがない。
脅すかのように私へ向かって鈍く光る銃剣に瀧元さんが「貴様…」と言葉を漏らす。「おやめください、その方だけは…!」髪を振り乱す勢いでとよがそう言いあわあわとこちらへ足を進めようとした。


「動くな、と言ったはずだ」
「っ」


それを見逃さず男が構えた銃剣を私の喉元へ力を込め、私は苦しさで息を詰まらせることとなった。
青ざめたとよが頭を抱え「おやめください、おやめください」と何度も繰り返す。


「ここから逃げるのに力を貸してくれれば傷つけやしない」


追ってくれば…わかるな?脅すように低い声でそう紡がれた言葉に瀧元さんが短く「絶対に傷つけないと誓え」と唸る。その台詞に男は鼻でふっと笑い「さてね」と茶化すかのように返す。


「それはお前たち次第だ」


そう言ったと同時、私を拘束していた手が腕に回りそのまま勢いよく走りだす。引っ張られるように踏み出した足に痛みが足から腰へ、腰から胸へ、そして頭に回り短い悲鳴を思わず上げた。けれど男は止まらず走り続ける。
強制的に引かれる事で自分の意思とは関係なく私の足が前へ前へと進み出る。けれど遠慮の無い強さと速さに忘れることを許さないと言わんばかりに足が痛みを訴えるのだ。


「っ、」
「しっかりしろ、俺の足を引っ張るな」


もつれそうになる足を踏みとどませ、その分の力に痛みがまた背骨を伝わるように駆け上がる。
走りたいのに上手く機能しない私は、きっと以前の私よりもたついていただろう。
それを思ってか既視を感じる台詞を彼は無遠慮に吐き出すので私は思わず笑いそうになる。それを飲み込むように努めて私は彼を見やった。


「ごめ、」


口から出るはずの謝罪はこちらをチラリと見た彼と目が合った事によって引っ込んでいった。
いや、正しくは目が合った彼がどこか驚いたように目を張ったのを見たからかもしれない。
どうしたのか、と謝罪の代わりに喉元まで出かかった言葉が再び彼によって塞がれる。


「尾形さ…」


その名を呼ぼうとした直前、より一層強く腕を引かれる。突然のこともあり痛みも相まってそのままぐらりと揺られれば、引っ張った張本人が私の体を受け止める。
文字通り胸に抱かれるように導かれ、驚きでバッと顔を上げると同時、尾形さんは問答無用で私の体を抱え上げた。
裏腿に回された手と薬箱と背中の間に差し込まれた手に支えられて、子どもを抱き上げるかのようなこれは、またもやいつぞやの光景であった。


「な、にを!」
「舌を噛みたくなければ口を閉じておけ」


突然の出来事に驚いて抗議の声を上げようとすれば聞く耳を持たない尾形さんによってぴしゃりと閉じられる。
どこにそんな力があるのか、人を1人抱えているように思えない彼の私を抱える腕の強さと、気のせいでなければ先程より早まっている足に目を白黒とさせるしかない。
大人しく口を閉じて荷物のように抱えられた私はその姿勢のせいで景色が反転し彼の背後を見ることとなる。


「吐くなよ?」
「な!は、吐きませんよ!!」


ぐんぐんと遠くなる景色に少し酔いそうだなと思っていれば察したのか揶揄うように尾形さんがそう口にして、見透かされたような気分となった私は恥ずかしさを誤魔化すように半ば叫ぶかのようにそう返したのだった。