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第30話


体を押しつぶすような圧力を感じて飛び起きるようにして目が覚めた。真っ暗なあたりに今が夜の時分なのだと頭で理解しながらも、飛び起きたはずの身が全く動くことが出来なかったことに私は一瞬で混乱した。
小窓から部屋に差し込む明かりは月も出ていないのだろうか、暗くてちっとも頼りになりやしない。


「うん……?」


下腹部にかかる圧と、縫い付けられるかのように抑えられた腕にどうやら誰かにのしかかられている様だと理解すると途端に放たれる臭いに気がつく。
酒と、焚かれただろう香の匂い。
混ざり合って降ってくる独特の匂いに鼻をつまみたくても押さえ込まれてて自由がきかない。
ゆっくりと動いた影に私は確かめる様に目を細める。暗くて誰かがいるとしか分からなかったけど、異臭に隠れるお日様の匂いに私の頭は段々と落ち着きを取り戻していた。


「…何してるの?」


女の人を買いに行ったはずだろう、朝帰りだとばかり思っていた。答えない影は、返事をしないどころか動きを止めて静かになってしまった。
私が起きたと気が付かなかったのだろうか。のしかかられて呑気に寝ていられるほど図太くはないのだけど。
今度は確かにしっかりと呼びかける様に「尾形さん」と彼の名前を口にする。


「起きたか」
「そりゃあ起きますよ。で、何してるの?」


とぼけるような物言いに彼を見上げながらそう言い返す。
少しだけ月が出たのだろうか、それとも私の目が暗闇に慣れてきたのだろうか。なんとなく尾形さんの姿が見え始めてきた。


「ねぇ、ちょっとどいてよ」


尾形さんは夜目がきくのだろうか。見下ろされているような気がして居心地が悪く、しかも何も言わない彼に痺れを切らして言葉を紡ぐ。
重いよと返した私にようやく返ってきたのは、鼻で息を吐き出すような短い呼吸だった。それが小さく笑われたような気がして少しだけ苛つきを覚えた。
抵抗を見せようと腕を振り払おうとしてみるも、ビクともしない。それどころかするすると腕を引かれて頭の腕で両手を組むような形になってしまった。


「…ちょっと、」


何をするのだと上げようとした抗議は彼の行動によって止められる。
するりと、撫でられた頬。おそらく私の腕を束ねたことで自由になった片腕で撫でられたのだろう。
ひたりと添えられた手のひらが頬にじんわりとその熱を教えてくる。酒が入っているからだろうか、体温が高い気がする。それとも……


「やめて」


落ちてくる酒に混ざる女の匂い。女を買い酒を飲み、おそらく買った女と睦まじくしていただろうその手が、どこか色を含んで私の頬を撫でるのだ。


「(…汚い)」


そう理解して頭に浮かんだ感想はそれだった。
男の人は必要なものなのだから仕方がないし、お金を払って事を済ませたのだろうから私がとやかく言うつもりはないし好きにすれば良いと思う。
けど余韻を引きずったまま残り香を持ってその足で私のもとに来るとは予想などするわけがなかった。
女の匂いを纏わせて私の上にのしかかるとは一体どういう神経をしているんだ。


「触らないで」


嫌悪をあらわにした私に尾形さんがどんな表情をしたかは分からない。
でも私の頬から遠のいた手に、おそらく言いたい事は伝わったんだと思った。…のに、


「…妬くくらいなら初めから煽るんじゃねぇよ」
「はぁ!?」


思ってもいなかった彼のその台詞に私は驚きと苛つきを含んで喉から声を張り上げる。
自意識過剰だ、自惚れないでほしい。私は別に尾形さんが女の人と何をしたって関係ないしそこに何も思いはしない。ただ、その空気を持ったまま香りを引き連れて無神経に来るなと言いたいのだ。


「いたっ!?」


罵るつもりで開いた口は、首に走った鋭い痛みに遮られた。
一瞬、匂いがふわりと近付いておそらく尾形さんが私の首元に顔を寄せたのだろう。触れた髭の擽ったさと強い匂いに理解するより前に痛みが襲う。
何をするんだとついで開こうとした口は次にはひらりと私の上から遠のいた彼によって自然と噤むこととなった。無意識に痛みが走った首を抑える。じんじんとした熱が残るそこに何をされたのか薄々勘付いて体を起こして彼を睨みつけた。


「か、噛んだ…」


何故噛まれたのか分からない。
困惑を込めて睨みつけていれば、ようやく入った月明かりに照らされて尾形さんの表情が僅かに浮き上がる。
部屋の出入り口の前でゆらりと揺れて彼はどこか不敵な笑みを浮かべていた。







夜明けの前に起こった出来事がまるで幻かの様に我関せずという顔をした尾形さんに手癖の悪い犬にでも噛まれた事にしようと思った。
朝にはすっかり匂いなど消し去って、二日酔いの様子すらない彼はいつも通りの尾形さんだった。
恐水病でもあるまいし、噛むとは何事だと腹立たしさを覚えながらも掘り返すのは野暮な気がして荒立ちそうな自身を深く深呼吸をして静めることにした。


「お嬢、どうしたそれ」


なのにやはり目立つのだろうか、私の左首を指差して牛山さんがそう口にする。
着替えを済ませ、宿を後にしてどこか食事処にでも入るかと話していた時、ふと気が付いたように彼は顔を覗き込んできた。
昨日別れた時よりも肌ツヤがいいように見える。どことなく機嫌も良さそうな牛山さんを見上げる。上背があるだけあって隣に立って見上げるとなると少々首が痛かった。


「躾のなってない犬に噛まれまして」
「はぁ…犬…?」


大丈夫かい?と聞かれて言葉を返す事なく頷く。
血が多少滲む程度だったので、軽く消毒をしただけだったが包帯でも巻いた方が良かっただろうか、ガーゼを貼るだけでもするべきだっただろうか。でも覆った方が目立つだろうしなぁ…


「嫁入り前なんだ、それくらいで済んでよかったな」


この辺は賑やかだが、野犬も見かけるし気をつけるんだぞ。と本気で心配してくれている様子の牛山さんに少しだけ後ろめたく感じる。


「まあ…何かあった時には撒き餌に毒でも混ぜるよ」
「……冗談に聞こえねぇな」
「冗談じゃないからね」


若干引き気味の牛山さんに強くそう言い返して私は先を歩いている尾形さんをチラリと見た。
私と牛山さんの事など気にかけた様子なく、食事処に入っていったところだ。


「あいつ目を離すとすぐ居なくなるな」


私の視線の先に気が付いたように牛山さんがふとそう口にした。口ぶりからして尾形さんの事なのだろう、確かめるように彼を見上げればやはり牛山さんは今し方姿を消していった男の方角を見ていた。


「病院にいた時もね、何回か抜け出して射撃場に向かうものだから縄でベッドに縛りつけようかと何度も思ったよ」


正確に言うなら何回か腹を殴りつけはした。鍛えられている体にはあまり効かないようで私の拳の方が痛かった気がする。
病院を抜け出してまだ大して日も経っていないのにやけに懐かしく感じるのは、あまりに毎日が濃いからだろうか。
東京に居た頃の自分より北海道に来た私の方が私らしくて好きだ。父の元で医療を手伝い学んだ日々は何物にも変えられない掛け替えのない毎日だったと思う。
じゃあ、病院を出た今の自分はどうかと考えると答えに悩む。
屋根のないところで寝たり目の前で捌かれる鳥を食したり、かなり原始的な生活を送ってきて医学漬けだった日々とは離れてしまった気がするけど、この生活が嫌いではないのが本音だ。
病院にいた時は医学に溺れることができたから幸せだった。でも、あそこは息が詰まった。
幸せとは言えないけど、空気が美味しいと思える今がどこか尊く感じるのはきっと気のせいではない。


「お嬢は名のある家の出なんだってな」


不意をつくように隣の牛山さんが呟くようにそう言葉を吐いた。
すっと歩みを止める彼に習って私も自然と足を止める。先に入ってしまった尾形さんが店から迎えに出てくる様子はなく、それを確認してからか牛山さんは「じぃさんが言ってたぜ」と続ける。
私の祖父と土方さんが知り合いだったと聞かされたのは先日の事だ。薬箱に見覚えがあると言ったのだからおそらく出会った当初に勘付いていたのだろう。それを確かめたりするつもりはないけど、おそらく間違っていないはずだ。


「訳ありの連中の集まりだからな、とやかく言うつもりはないが…帰るべき場所があるなら深入りするのは良くないんじゃないか」


思ってもいなかったその言葉に私はゆっくりと視線を落とした。整備されて整った地面に転がる小石を何の意味もなく見つめて、これは帰れと言われているのだろうかと考える。
そもそも私は鶴見さんを信じることが出来なくて行動を起こした。そして追われている尾形さんを死なせない為に場を切り抜けたのだ。無事に鶴見さんを撒けたのであれば私は日常を取り戻したっていい。
けど、そうしなかったのは。
ただ吐き出しただけの言葉を掬い上げて、一緒に逃げてくれると言ってくれたからだ。だから連れて行ってくれと頼んだ。
帰る場所、帰らねばいけない場所は確かにある。私は結局あの家から逃げ切ることはできないのだから。だからこれは現実逃避なのだ。
この先の自分の人生が家によって決められた道を歩まねばいけないというならば、少しだけ寄り道を選んだ逃避なのだ。


「刺青の事だって聞いていないんだろ?」
「刺青?」


小石を見つめながら強く心に思って顔を上げると、私が口を開くより早くに牛山さんが私にそう尋ねた。
何だろう、それ。とおそらく表情に出ていたのだろう、顔を上げた私を見るなりまずいと思ったのか牛山さんは自身の口を手で塞ぐ。「いや、何でもない」そうやって誤魔化して、それから少し考えるように視線を宙に投げる彼に怪訝な表情で見上げた。


「…様子を見るに尾形と恋人同士って訳でもないよな?」
「はぁ…?冗談でもやめてよね」


溢れた本音に牛山さんが押し黙る。どこか言いにくそうにモゴモゴと口を動かして、それからふーっと溜息を吐いた。


「いいかお嬢、男ってのは貪欲な狼なんだ。無闇に信用してはダメなんだぞ」


それは色情魔と聞いていた男が吐くにはあまりにも紳士的な発言だったように思える。
牛山さんが、私を心配するような素振りは当初から何度か見られた。
無条件に人を信頼するなんてことは私だって出来ないけど、人の好意を無下にして何も感じないわけもない。
牛山さん自身のことはどちらに含まれているのだろうか、そんな場違いだろう疑問を持ちながらも私は彼に曖昧に笑みを向けたのだった。