第24話
「ちょっと、離してよ!」
無遠慮に掴まれた腕が痛い。私を引っ張る彼に非難してみせてもうんともすんとも言わず、ずんずんと道を進む。そんな尾形さんに私は何度目かの言葉を投げた。 合流したあの場で「少し外すぜ」と尾形さんは老人にいうと「あまり長居はしないぞ」という返事に応える事なく突然私の腕を掴み上げたのだ。それからぐいぐいと力任せに引っ張るものだから私は引き摺られる寸前だった。 何も言ってくれないくせに、何を強要しようとしているのか何が気に入らないのか私は霊能者でもないし神通力を使えるわけでもないから分からない。そもそも分からなくても当然なのに尾形さんはそんな素振りも察してくれないから理不尽だ。 引きずられるように連れてこられたのは、荷物を置いたあの場所だった。 扉を開けて放り込むように中に入れられて漸く私の手は解放される。勢い良く突き飛ばされるように放られて少しよろめいた。 赤く手形がついた腕をさすりながら一体何なんだと彼に文句を言おうと背後を振り返れば、後ろ手に扉を閉めた尾形さんが驚く程冷ややかな目で私を見ていた。
「どういうつもりだ」
一瞬怯んだ私に尾形さんは先手を打つかのように口火を切る。言葉の意味が分からなくて自分の顔がしかめっ面になるのが分かった。 その台詞は私が吐きたい物なのに、何故彼に詰問されるような真似を受けるのだろうか。 答えない私に目を細めて彼はこちらに歩みを進めた。やけにゆっくりとした動作に見えてただそれを眺めていると尾形さんは害した様子もなく感情の読めない表情で言葉を続ける。
「隠れていろって言ったはずだ。それをノコノコと出てきて奴等に囲まれてどうするつもりだったんだ」
身勝手な行動をするな、言われた通りにしろ。
「……は、」
何言ってるんだこの人。 あまりに衝撃的で言葉を失う。沸々と湧き上がる思いを吐き出す言葉が見つからなくてただ尾形さんを見つめていれば、その左腕に巻きつけた包帯が赤く滲んでいるのに気が付いた。そういえば治療がまだだった。 その赤を見て湧き上がる思いが苛々だと明確に理解する。ただこの苛々を正しく言語化するのが私には難しくて、置いた荷物を手繰り寄せた。 少しでも頭を冷静にしたかったのだけど、尾形さんは気に入らなかったようだ。 沈黙を許さないと言わんばかりに空いた距離を数歩で詰められて再び手を取られる。
「おい」
投げられた声に横暴だ、と心の中で呟いた。 自分は何も言わない癖に私が黙ることは良しとしないらしい。
「私は心配することすら許されないの?」
苛々を抑えたつもりで吐き出した言葉は、自分でも分かるくらいに抑揚のないものだった。一本調子で紡いだ私の言葉を聞いて尾形さんの手が緩まった。 そのままやんわりと解いて何となく部屋の中を見渡す。意識が尾形さんに向いたままだと感情に任せて暴言が出そうだったからだ。 執務用のデスクと予備に置かれた椅子、振り子の置き時計はネジを巻くのを忘れたのか重りが下がりきって振り子は停止していた。立派な時計だけに勿体ない。 ただ置物になっている役割を果たしていない時計をぼんやりと眺めてそれから尾形さんを見上げた。
「何も話してくれないくせに言うことには従えって、随分な独裁者じゃありませんか?」
そもそも私は尾形さんが番屋に火を付けることすら知らなかったのだ。突然燃え上がる番屋を見て飛び込まなかった私をむしろ賢明だと言って欲しい。 私の言葉に顔色ひとつ変えず此方を見る彼に、なんて言えば伝わるのだろうかと考える。そう言えば彼には言葉が足りないと以前言われた事があるけど、それは尾形さんこそ当てはまるのではないだろうか。
「隠し事をするな全部話せ、とは言わないよ。でもさ、少しくらい説明してくれてもいいと思うんだよね。私は尾形さんが撃たれれば心配するし、貴方が居るはずの建物が燃えたりしたら狼狽えたりするんだよ。」
尾形さんの目を見てはっきりとそう伝えると、彼が私から目をそらして床に視線を落とした。何を考えているのかは変わらず分からないけど、トゲトゲしていた空気が和らいだような気がして今度は私が尾形さんの手を取る。抵抗する様子がないので外套の中に隠れた腕を出して巻いた包帯を解く。 改めて撃ち抜かれた箇所を見て安堵の息をつく。こんな簡素な応急処置でも大事に至らず良かった。撃たれた所が運が良かったんだろう、数センチのズレで動脈を掠ったかもしれない。 このままちゃんと処置をしようと、されるがままの尾形さんの手をゆっくりと引けばまるで親を追う雛のように歩みを進めてくれたので、そのまま「ここに座って」と伝えて椅子に座らせ私は薬箱を下ろす。 だんまりを決め込むつもりなのか、私が口を閉ざすと訪れる沈黙は部屋に耳鳴りがしそうなくらいの静寂をもたらした。
「(天邪鬼め)」
咎めるくらいなら、隠し事をするなとは言わないせめて説明をしろと言った。その直後の沈黙ならば、無言の拒絶なのだろうか。 何も言わない尾形さんに溜息を我慢して「外套脱いで」と言いながら薬箱を漁る。無言のままもそもそと外套を脱ぐ彼を視界の隅で確認して、私は新しい包帯と消毒液とガーゼを取り出す。 そうやって薬箱に触れながらただただ虚しさを感じてしまった。まるで借りて来た猫のように歩み寄ってくれる姿勢も見られない彼は、私のことをただの他人だとでも思っているのだろうか。実際間違いじゃないし否定は出来ない部分だけど、私からすれば彼は他人でありつつ、けど完全な無関係だとは言えないと思っている。 だって彼は私のものなのだ。私が拾って私が面倒を見た。事実死にかけていた彼を救ったのは私だ。なのに…、
「ねえ、私はそんなに信用できない?」
虚しさで泣いてしまいそうだった。絶対泣いてやらないけど。 薬箱に視線を向けながら吐き出した言葉は沈黙を破るのに十分だった。尾形さんがどんな表情をしているのか分からなかったけど、分からなかったからこそこの沈黙を解くことが出来たのだと思う。 無条件で絶対的な信頼を寄越せとは言わない。そんなの無理だから。でも、これではあんまりだ。少なくとも私は尾形さんという人を信じてここに居るというのに。
「一緒に逃げてくれるって言ったのは貴方なのに。」
その言葉をどんな気持ちで吐いたのか今更ながら疑問を持ってしまうのは、本心を見せてくれない彼にただ虚しいと思ったからだ。 まるで幼い子どもが拗ねるような私の言葉にたっぷりの沈黙を置いて尾形さんがようやく反応をした。 深い深い溜息。「…はぁ、」とついたそれは何処か呆れているような空気を生んで思わず彼を睨みつけるように視線をあげた。そして面食らう。 髪をかき上げながら見下ろすように視線を寄越す彼は心なしかその口元に笑みを浮かべていて、さっきよりずっと柔らかい雰囲気を纏っていた。優しい笑みとは少し違う、子を愛でる親の視線とも違う。例え難い彼のその表情は何故か私には擽ったくて目を合わせ続ける事がむず痒くパッと絡んでいた視線を外す。 何かを訴えられた気がしたけど表情から読み取れるほど私は機微ではない。
「…なん、ですか」
視線で黙らせられるのも癪だった。かろうじて口から出た言葉は片言としてとても硬いものだった。言いたいことがあるなら言えばいいのにという文句とむず痒い気持ちが表れたのだろうけど、それに尾形さんは「ははっ」と愉快そうに笑うから、また面白くない。 「なあ、江茉」かけられた声とほぼ同時に彼にゆるりと手を引かれる。先程とは打って変わってその手つきは驚くほど柔らかくて少しびっくりして体が跳ねた。それをくすりと鼻で笑う彼がどこか憎たらしくてなあに、と返事の代わりに逸らした視線をまた彼に向ける。そんな私に害した様子もなく尾形さんは引いた手をゆらゆらと無意味にも揺らしながら口を開く。
「俺が死んだら悲しいか」 「あ、たり前でしょ、なに言ってるの」
予想外の問いかけに思わず口ごもりつつそう返す。 やっと言葉を吐き出したと思ったらなんて事を聞くんだろう。
「私は尾形さんが殺されるのも殺すのも嫌だよ」
それは尾形さんが私のだからとか、そんな理由からではない気がした。医者だからという綺麗事を言うつもりもない。私は私が思っている以上に医療人だから怪我には興奮するしズタズタな姿を見れば恍惚としてしまう。それは自覚がある。けどそれは医療に従事している人間の正義感などではなく、ただ医学への興味と好奇心が先行しているだけなのだとよく分かっている。
けど、そういうのじゃなくて。
「人殺しの手伝いは出来ない。そう言ったな」 「…うん。だから約束してくれたんでしょ?」
今回の件で尾形さんとした約束は誓約もない只の口約束で、彼が守ってくれるとは期待していなかった。でも約束を結ぶ事に意味があると思った。 手伝う代わりになるべく人は殺さない。殺さなくても済む場面で無闇に殺しはしない。そういう約束を持ちかけた私に彼は鼻で笑いながら善処する、と一言返してくれたのだ。 緩く掴まれた手に僅かに力が込められて不思議に彼を見る。少し考えたように間を置いて尾形さんは「例えば」と言葉を紡ぐ。
「俺が殺されそうになったとして、お前の手に銃があったら引き金を引くか?」
予想の斜め上を行く質問に一瞬思考が停止する。 尾形さんが殺されそうな場面。さっきの様な光景を目の当たりにしたら想像するのは容易だった。あれは本当に当たりどころが良かった。 言葉を失った私に、話の内容が理解出来ていないと思ったのかするすると手のひらを握ってその手を前に掲げる。座っている尾形さんの胸より僅かに高く私のお腹あたりに出された私の手と彼の手を何となく見つめる。
「お前が引けば俺が助かるとしたら、お前はそいつを殺すか?」
先程よりも直球に紡がれたその問いかけに私は今度こそ息を飲む。 私の行動で尾形さんは助かるけど、もう一人の誰かが死んでしまう。万に一つの場面な気もした。でも可能性が無いわけでもない。実際彼は第七師団から追われていて銃撃戦まで繰り広げている。あの北鎮部隊が相手ならばそんな場面も訪れるかもしれない。 けど、言われたところで実感がわかない。私が尾形さんを救うために誰かを手にかけるような情景が浮かばない。 それが答えな様な気がして黙り込む。死んでほしくない、殺してもほしくない。そう尾形さんに言った言葉が途端に綺麗事であると思った。
「俺は出来るぞ」
誰かがお前を殺そうとしたら躊躇いなくそいつを殺せる。 そう続けた尾形さんに落としていた視線を上げると無表情の彼と目が合った。
「…なんで、断言できるの」
私は想像ですら口ごもってしまうというのに、何故そんな簡単に言い切ることができるのだろうか。その質問に彼はどこか馬鹿にしたように鼻で笑う。まるで嘲笑のようだ。
「俺はお前の物なんだろ?」 「…そんな、」
そんな理由で…?
「信用云々の安っぽい言葉にどれほど価値があるのか知らんが、それじゃ足りないか?」
問いかけられた言葉にとても重みを感じた。 尾形さんによって支えられている私の手は、私自身に負荷はかかっていないはずなのに何故か重だるくて自分のものではないような気すらした。 喉から声が漏れるのを口が拒否しているように噤んでしまって、私はその代わりにゆるゆると首を左右に振るう。
「(足りなくないよ、十分だ)」
けど……。
「納得したなら急ぐぞ、そろそろ爺さんが煩そうだ」 「…うん」
解かれた手をぼんやり見つめて、私は急かされるように尾形さんの腕に消毒液を塗りたくる作業に入った。
「(行動では示してくれるけど、言葉はくれないってことか)」
ねぇ尾形さん、結局何も話してくれていないって気付いてる?
何かあった時は助けてくれる、殺しも厭わないと暗に言ってくれているのにこの込み上がる虚しさは何なのだろう。 ちらりと視界に入った赤菊を見て私はひとつ深呼吸をした。
第2章 了
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