第19話
野宿をしながら進む事数日。 言い換えると私が寒さに負けて尾形さんの外套に潜り込む様になって数日。次第に慣れて初日の様な反応をしなくなった私に彼はとてもつまらなそうにした。 身を寄せ合うと言うのは言い得ている言葉だ、人肌万歳。 進み続けて到着した町に尾形さんと足を踏み入れる。とりあえず私は銭湯に行きたい。道中、水場を見つけては濡らした手拭いで身を清めてはいたけど、この寒さだ限界があった。温かいお湯に全身をつけて浸りたい。それから……
「(あれ…)」
ぐらり、足元から力が抜けて思わず膝をつく。微かな違和感に気が付いたのか前を歩いていた尾形さんが私を振り返った。 彼に大丈夫と言おうとして思わず口を手で塞ぐ。言葉ではなく別の物を吐き出してしまいそうだった。
「(まずい……)」
先日から度々吐き気に襲われ騙し騙しここまで来た。それが祟ってしまったのだろうか、町を見た途端に安堵して崩れるなんて情けない。 すっと、私の目の前にしゃがみ込んだ尾形さんが躊躇うことなく私の額に手を伸ばす。ひやりとした彼の掌に心地良くて目を細めれば尾形さんは眉を寄せた。
「……熱いな」
その言葉と行動に、何がと聞かずともよく分かった。 ごめんね、と言いたくても口を覆った手を退けられず目を伏せる。
「歩けそうか?」
尾形さんの手が遠のく代わりに尋ねられた言葉に首を横に振る。今立てば間違いなく吐くだろう、往来でそれは避けたい。そもそも立てる自信もない。 不調を認めてしまえば、吐き気だけでなく目眩まで感じて頭がぐらぐらとした。目が回りそうな光景を見たくなくて視界を閉せば頭が重い事に気が付いてしまう。これは、まずい。
「叫ぶなよ?」
いよいよ吐いてしまうかも、と思った時ふと聞こえた声に反応して目を開ける。叫ぶな、とは何なのか理解するより前に体が浮いた。 「っ…!?」手で口を押さえているからだけでなく、驚きで声も出ない。開いた視界がいつもより高い目線にある事に混乱しながら視線をずらせば飄々とした尾形さんが見える。小脇に抱えるかの様に持ち上げられ、「肩を掴め」と短く言われ慌てて口から手を離して尾形さんの肩を外套ごとしがみ付く。 裏腿に回された手と薬箱と背中の間に差し込まれた手に支えられて、まるで子どもを抱えて歩く様な図を彼は完成させた。 抱えられている事にさらに頭は混乱して、でも言葉を紡ぐことは上手くできず前方を見つめる尾形さんと顔を合わせない様にただ後方を見ていた。
「お前が重いのか薬箱が重いのか、どちらにせよ少し重量減らした方がいいな」 「(失礼すぎやしないか)」
病人扱いしてくれるのかしてくれないのかよく分からないが、混乱もあったお陰で気が逸れて吐き気が少し治る。言葉自体は聞き捨てならないけど、今は言い返す気になれない。 そんな私に張り合いがないと思ったのか、特にその後何か言葉を発すること無く尾形さんは町を闊歩した。
・ ・ ・
どうやってここまで来たのか正直覚えていない。気がつくと私は見覚えのない天井の染みを見つめていた。 ふかふかの温かなお布団に久々の寝心地の良さを感じる。
「起きたか」
ふと聞こえた声に寝たまま首を捻って声の元を探る。軍服から着物に身を変えた尾形さんが両手に何か持っていて、塞がれた手を感じさせないくらい足で器用に襖を閉めていた。
「……行儀悪い…」 「元気そうじゃねぇか」
尾形さんが側にしゃがみ込むので、私も体を起こす。上がった視線に彼が持っていたものが土鍋であると気付いた。直に持たない様にだろう、木で出来た囲いに乗った土鍋からふんわりと香る匂いに嗅覚が刺激される。 土鍋を見つめる私の視線に気が付いたのか、尾形さんがにまりと笑いながら髪をかきあげた。どこか得意げな表情だ。
「女将に言って粥を作ってもらった、とりあえずこれだけでも腹に入れろ」
女将、という言葉に此処が宿か何かであることを察する。尾形さんの格好からもおそらく間違いないだろう。まずい、記憶が飛んでいる。 尾形さんの言葉に反応出来ないでいると、彼は少し首を傾げて私の額に手を伸ばした。相変わらずひんやりしていて気持ち良い。
「多少は楽になったか?」 「ああ…うん…吐き気は割と…」
体は重くだるいし、まだ完全には吐き気は治らない。それにぐらぐらする頭におそらく熱が高いだろう事を私は私の様子に勘付いていた。 私の返事に尾形さんは手を引っ込めると、にっこりの人の良さそうな笑みを乗せた。その様子に嫌な予感が走る。
「まあ、あれだけ盛大に吐けばそうだろうな」 「吐い……え?」
思わず聞き返す。 今尾形さんは私が吐いたと、そう言った…?
「…その顔は覚えてないって言いたげだな」 「覚えてないっていうか…」 「覚えているのか?」 「いや、覚えてないんですけど…」 「ほぉ…」
笑顔で威圧されたら何も言えないじゃないか。マシになった吐き気がまた主張しだしそうで勘弁してほしい。 兎に角尾形さんに迷惑をかけたのだろうなと言うことは彼の様子から良く分かる。 居た堪れない気持ちで視線を逃せば尾形さんが鼻で笑って「まあいい」と口にする。どうやら見逃してくれるようだ。
「この町に顔見知りは居るか?」
土鍋や蓋を開けて器に中身を装ってくれる尾形さんをまじまじと見つめる。なんだか珍しいものを見ている気がする。 そうしていれば彼にそう尋ねられて反応が少し遅れる。
「居ないよ。この町は初めてだし、正直此処が何処かも分からない」 「そうか、なら後で医者でも連れてくる」
その言葉に意図を理解する。 尾形さんも私も追われる身だ。だから顔を知られている人物に偶然でも会ってしまうのはまずい。知り合いがいるならそこから情報が漏れて私達は捕まってしまうかもしれない。 その可能性を確認したかったのだろう。けど、医者は要らないな。
「連れてこなくていいよ?」
来るだけ無駄だと伝えると、きょとりと尾形さんの表情が変わる。何故?と言いたそうな顔に私は少し苦笑いになってしまった。
「診てもらっても薬を出されるくらいだし…」
ちらり、自分の薬箱に視線をやる。そもそも薬なら持ってるし、私が煎じる薬はそこらの町医者なんかに負けないと自信がある。幼い頃、医学書を読み漁り祖父や父の真似をして薬を煎じた。その効果を自分で試し続けた結果、私の体は内服系の薬が効かなくなってしまった。 続きを濁した私に、じっと視線が向けられているのに気が付いて少し慌てて私は尾形さんに笑みを向けた。
「熱を下げればとりあえず大丈夫」
そう言った私に彼は追及する事をしなかった。私から視線を土鍋に移して「そうか」と短く返される。 そして、装った器をすっと手渡されて流れのままに受け取ると、尾形さんが立ち上がった。
「食べたら寝てろ、俺は少し町の様子を見てくる」
師団が追ってきていないか、迫っていないかの探りなのだろうか。此処までくる道中でも別段追っ手の危機は無かったように思うけど彼は随分警戒しているようだ。 でも、そのくらいが良いのかもしれない。私では気配も分からないし勘も働かないから尾形さんの用心深さは私と足したら丁度良いのかもしれない。
「(…すっかり足手纏いだなぁ)」
部屋を出て行った背中を見送って、彼の行動に申し訳なくなる。 私が居なければこんな所で足止め食らう事もなかっただろう。目指す先もないこの逃走劇はいつか終わりが来る事を私は知っている。 既に父の耳には私が消えたと言うことが届いているだろう。もしかしたら父が祖父に連絡を取っているかもしれない。いや、それが必然なのだ。 桐原の血を絶やさない為には私が要る。それをあの祖父が捨て置くわけもない。だからこの旅で私の行き着く先は決まっているけど、尾形さんは違う。 軍から逃げて身を隠せばいい、その先にあるのは自由だ。
「(食べて寝よう……)」
考え始めれば思考は良くない方に落ちていく。これではダメだ。 生まれも育ちも生き方も何もかもが違うのだ、決定的な差を感じて埋めようのない溝を嘆いた所で時間だけが過ぎる。完全な無駄だ。 頭に降ってくる考えを取り払って口に運んだお粥は、私好みの塩味の控えめな味付けだった。
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