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第17話


引かれた手を離してはいけないと思った。せっかく掴んだこの手を離してしまえばもう二度と触れることは出来ないと思った。
でも逃げてしまえば完全に尾形さんは脱走兵だ。私が取り持ったとしても庇える範疇を超えてしまう。


「待って、尾形さ」
「振り向くな、走れ!」


切れ切れの息で、無遠慮に手を引く彼にどうか制止をと思ってかけた声は、後ろを伺おうとした私に被せるようにして遮られる。
私と彼とじゃ体力も体を操る技術も何もかもが違う。懸命に走っているつもりだけど、尾形さんにとっては遅いものなのか強く引かれる手の力が弱くなることはなかった。
縺れる足元が限界を迎えて雪に足をとられ転びそうに体の感覚を失う。ぐらりと傾いた私の体を許さなかったのは他でもない尾形さんだった。倒れこみそうになった瞬間、絶妙な力加減で手を引かれる。


「しっかりしろ、俺の足を引っ張るな」
「そんな、…」


随分な言われように反論したくても乱れた息じゃ十分な文句も口から出て来なかった。
酷い人だと異論を唱える言葉がぐるぐると喉に留まる。けれど、吐き出された言葉とは裏腹に私を導くその手が不器用ながらも何処か優しく力を込められたのに気が付いて言いたかった文句は飲み込むことにした。
文句を言いながらも手を離さず引いてくれる彼が、嬉しかったのかもしれない。












「此処まで来れば大丈夫だろ」


尾形さんがそう口にして漸く速度を緩めた頃、私の頭は酸素不足でぐちゃぐちゃだった。緩めた足が止まり尾形さんは私の手を離す。
彼がたいして息を乱していないのが何故か悔しいが、突然肺に送り込まれた大量の酸素に私は噎せこんでしまいそれどころではなかった。


「……貧弱め」


言いながら髪をかきあげた彼を睨み見る。尾形さんは気にした様子なく、ほらと飯盒の蓋に水を入れて差し出してくれた。彼なりに気を遣ってくれているのかもしれないとその行動に思い直して素直に受け取る。
ぐっと喉に流し込んだ水が冷たいことに気が付く。冷えて冷静になった頭と幾分か整った息に漸く周りを見渡す余裕が出来て、すぐそばに沢があることも今更ながら気が付いた。なるほど、差し出されたのはこの水か。


「ありがとう」


お礼と共に蓋を尾形さんに返す、と先程まで気にならなかった彼の変化が目に付いた。軍服を着た彼を見るのはこれで二度目だ。一度目は言わずともがな初めて尾形さんを拾った時で、あの時私は彼の軍服に躊躇いなく鋏を入れた。
だからというわけではないけど、それ以降尾形さんはずっと着物だった。だから久々に見た彼のその姿に当たり前ながら軍人なのだと再認識する。
けど、それ以上に目を奪われる。


「(なんだその髪型)」


両側が刈り上げられて中央はそのままという、先日まで長く伸びていたはずの彼の頭が先進的になっていた。
私の視線に気が付いた尾形さんがこちらを向いた。なんだ?と聞きたそうな視線に首を横に振れば彼は詳しく聞くことをせず、沢に沿って歩み出すので私は慌てた。


「どこに行くの尾形さん!」


彼の外套を思わず引けば無表情の彼から視線を受ける。


「鶴見中尉の追っ手を巻かねばならん。あの中尉殿がこれくらいで追跡を諦めるとは思えない。此処にいては見つかる」


淡々とそう述べる彼に外套を握った手に力がこもった。違う尾形さん、違う。逃げるために私は貴方を追った訳じゃない。それでは尾形さんは捕まり次第殺されてしまう、本末転倒なのだ。


「今逃げたら尾形さんは謀反の罪に問われるよ。私と一緒に病院に帰ろう?今なら庇ってあげられる」


尾形さんに銃を向けた鶴見さんはもう信用出来ないから私は私を利用するしかない。私の立場では上手く立ち回ることは出来ないけれど、父に上手く言えばなんとかなるはずだ。父は軍医であり兵士ではないが、軍属の立場として将校の肩書きを持つ。階級や肩書きを重視する軍隊では父の立場は強いはずだった。
そう思って彼に言った言葉は、外套を掴んでいた手を振り落とすという行動で拒絶された。


「…唆されたか」
「え…」
「何故俺を追ってきた?」


それを聞かれるとは思わなかった。むしろ、私が彼に聞きたいことが山ほどあるというのに。
何故病院を抜け出した、何故私に相談もなかった、何故師団に帰らず脱走した、何故銃撃をしていた、何故、何故。
私の気持ちを汲めとは言わない。だって他人の感情を全て把握できる人間なんていないのだ。けど、私の行動の意味をほんの少しでも理解して欲しかった。


「あんな一方的な別れを受け入れろって言うの…!?」


吐き出した私に彼は目を丸くして閉口した。
それ以外に変わらない表情に少し苛ついて舌を打つ。
私にとって尾形さんを拾ってからの日々は新鮮で、不謹慎だけど楽しかった。家柄を見る事なく接してくれて他の人の様に距離を取る事もなく、私を故意に罵る事もしない。そんな人父以外に居なかったから、尾形さんの側は心地良かったのだ。
警戒心丸出しだった彼が私の手から飲食をして懐いてくれた姿だって、拾い上げた野良猫を手懐けたようで悪くなかった。
勿論尾形さんは軍人だから、いずれ復帰し病院を去る事は分かっていた。私だってそれを目標に彼を治療したのだから。けど、違う。それは尾形さんが帰る場所が師団だったからだし、父があの病院にいる限り私も師団に何かしら関わるだろうと思っていた。脱走だなんて想像もしていなかった。


「…簪はどうした」


雪が周りの音を吸い込んでしまったかのような沈黙は尾形さんによって破られる。
簪という言葉で、それが赤い菊のあれを指しているのだと分かる。そしてあれはやはり尾形さんからのだったのか、とも思った。


「…持ってるよ」
「どこでもいい、挿しておけ」


この雰囲気でお礼でも求められるのかと思って不貞腐れたような口調になったけど、尾形さんは全く気にする事なく私にそう返した。
そもそも私は簪を普段使わない。使うときは三つ編みを上にあげたいと思う時で主に手術に入る時だ。手早く纏められるので簪を使用するが、まずあの簪は私には派手なのだ。


「あれは印だ」


言葉を返さない私に尾形さんはそう続けた。
意味がよく分からず思わず眉がよる私に気付いたらしい彼がニヤリと笑みを浮かべた。


「印って…何の」
「何だと思う?」
「質問を質問で返すのはずるいよ」


聞き返された事に少し苛ついて、そう吐けば「ははっ」と笑い声が耳につく。
動く事もせず顔を歪めた私に尾形さんは薄い笑みを浮かべたまま距離を詰めてきた。「行くぞ」と手を取られ緩く引かれる。
逃げる理由も、簪の印という言葉も何も納得出来ず引かれる腕に従う事がどうしても出来ない。でもこの手を何故か振り払えないから悔しくて泣きたい気分だった。


「別れだと言ったな」
「…簪と一緒に消えろって意味じゃないの」
「…ははぁ」


何だよその間抜けな声はふざけんな。
肯定とも否定とも取れない尾形さんの反応は何を考えているのかが一切分からない。
三島さんに言われたあの言葉は、辻褄もあって私も納得してしまったものだ。だって事実尾形さんは私の前から消えたのだから。


「お前は現代に生まれて正解だな、古人なら歌の意味を理解出来ず途方に暮れていただろう」


人を小馬鹿にしたようにそう言う尾形さんに耐えきれず、掴まれていない方の手で彼の背をばしりと叩いた。そんな私に短く笑うものだからまた悔しい。


「別れじゃないなら、なんて意味なのさ」
「さてね」


人を馬鹿にするくせに正解は教えないなんて、あんまりじゃないだろうか。そう思って抗議しようとした声を彼の言葉が遮った。


「あの時逃げたいと言ったな」
「え……」
「お前が彼処から離れた時、再び帰りたいか聞いたらお前は全部捨てて逃げたいと言った」


それはお蕎麦を食べに行った道での会話。射撃場の方角を見つめる尾形さんに私は聞いて、そして彼も私に聞いた。確かにあの時私は逃げたいと答えた。
帰らねばいけない、逃げ場などないと分かっている。桐原という家に生まれた以上、私はあの家の為に生きて死ぬ事が求められているからだ。先が決められている未来に私の意思など欠片もなくて、全て捨てられたらどんなに楽だろうと思った。
その時の会話も深く語った訳ではないから戯言として処理していたとばかり思っていた。


「一緒に逃げてやるよ」


旅は道連れって言うからな、と続けた尾形さんに面食らう。あの戯れの会話を彼は覚えていてくれたらしい。
けど、ここで逃げるという選択をしたら、尾形さんは脱走兵として裁かれ私は祖父に桐原の家で折檻されるだろう。それは私も尾形さんも真に望んではいないはずだ。


「でも、尾形さん…」
「そもそも俺はもう鶴見中尉の元へは帰れない」


尚も遮ってそう言い切る彼に思わず閉口する。
帰れない、とはどういう事なのか戸惑う私に尾形さんは続ける。


「既に鶴見中尉の部下の頭を撃ち抜いている。俺は立派な裏切り者って訳だ」
「撃ち抜いてる…って…」


言葉を無くせば彼がニヤリと笑む。
想像は出来るかもしれない。先程躊躇いなく追っ手に発泡したのだ、尾形さんは私が思っている以上に非情な軍人なのかもしれない。


「お前が引き返して戻りたいって言うなら一人で好きにすればいい。だが、逃げたいと言うなら手伝ってやる」
「……なに、それ」


突き放すようで、どこか尾形さんは確信したようにそう言う。私がどうしたいかなんて分かっているという風だ。なのに口調はずっと優しくて戸惑ってしまう。


「俺はお前のなんだろ?」
「……」


それは私が彼に何度も言ったものだ。それを彼の口から今、吐き出されるなんて想像もしていなかった。
尾形さんを病院に連れ戻すことは出来なくなった。既に裏切り者となってしまったのが事実なら戻れば彼は捕まってしまう。私は今戻れば尾形さんと二度と会うことは出来ないだろう。あの病院で父の元、彼に出会う前の日常に戻る。…もし、逃げたとしたら、それが祖父の耳に入れば見つかり次第東京に戻されて桐原の家に入り医学に携わることはもう出来なくなるだろう。
考え込む私に「どうしたい?」と尾形さんによって促される。その声が酷く優しく聞こえて、揺らいでしまう。ずるい、尾形さんはずるい。


「……連れてって」


逃げようが逃げまいが私の将来は決まっている。今来るか、後に来るかの未来は結果的に同じものだ。ならば少しの誘惑に浸りたい。
紡いだ言葉に尾形さんは確かに笑った。




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