×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

第16話


吐き気がする。気持ちが悪い。
胃には何も入っていないのに、胃袋をひっくり返したい気分だ。そんな事出来るはずもなく迫り上がる何かを飲み込んで、私は空気を割るかの様に響く乾いた音を辿る。
雪解けが始まっているとしても、中途半端に溶けたこの道はとても進みにくいだろうに、騎手に忠実なまま道を行く馬に私は「ごめんね」と声をかけた。
近付き過ぎれば気付かれるし、離れ過ぎれば見失ってしまう。付かず離れずを保ちながら師団の後を追いかける。
こうなったのは数刻前に遡る。



鶴見さんに微笑んで見せた私は、彼の目にどう映ったのか正しくは分からない。ただ、分かったのは私の反応に肯定の意を汲んだようで、この場に滞在していてほしいと告げた。
詳細を聞くべきか悩んだけれど、それをしなかったのは鶴見さんに不信感を持たれては困るからだった。この人を出し抜けるとは思わない。けど、僅かでも信頼の欠片を生んだならそれを利用するしかない。一か八かではあった、でもやるしかなかった。
鶴見さんに感じた嫌悪感。我に返ったのは間違いなく彼が発した尾形さんを私にくれると言う台詞だった。
尾形さんは元より私のものだ。けどその発言を直属の上司がよく思う訳はないとちゃんと分かっている。それに鶴見さん自身が私に言ったのだ、優秀な部下を失くすのは惜しい、と。
尾形さんを助けてくれるのか聞いた時、鶴見さんは笑みを浮かべはしたものの、答えなかった。それが答えだとばかり思ったが私は鶴見さんのその笑みに流されたに過ぎない。だってそうだ。優秀で失いたくないと交渉をしてきたにも関わらず鶴見さんは私に言った。
尾形百之助を差し上げます、と。
その言葉は考えれば矛盾だらけだ。手放したくないと口にしたくせに差し上げると言う言葉は私をたらし込む口車。私にどう言えば従うか考えながら化かすために吐いた虚飾そのものだ。
この人を出し抜けるとは思わない。

一度目は私から。彼を見つけ拾った。
なら二度目も私から。彼を連れ戻すのは私でありたい。

それには鶴見さんの目を掻い潜らないと駄目なんだ。

そうして私は鶴見さんの言葉に従い設けられた部屋に身を寄せた。ただし息を潜め向こうの出方を見つめていた私は出掛けた師団の追跡をするように、軍の馬を拝借したのだ。
木の間を駆け抜けるように走ると、空気を割るような乾いた音が響いた。それは師団が向かった先だった。
急げ、急げと身を乗り出せば私を意を汲んだ馬が加速をする。本当にこの子は賢い。
視線の先にある人影が馬から降りて更に先に進むのを確認する。目的の場所に着いたからなのか、馬だと先に行きにくいからなのか、あるいは目立つことを恐れたのか。答えが何にせよ後を追いかけてきた私からしたら同じようにするしか選択肢はない。見つかってはいけないからだ。
馬を止めて地に足をつける。この先はどこなのだろう…と、行き先を見定めていた私の背中を押すように圧力を感じて思わず背後を振り返る。
私が背負った薬箱にすりすりと頬擦りをする馬がいた。随分人懐っこい子だ。褒めろと言っているのだろうかと馬に手を伸ばせば、今度は手にすりすりと身を押し付けて来て思わず笑む。


「良い子だね、ありがとう」


あまり接しては情が移ってしまう。
移動の手段に馬を利用はしたが、先に連れて行く気は私にはなかった。鶴見さん率いる兵隊が途中まで馬で来たくせに、その先を徒歩で移動しているのだ。意味なくそんな事はしないだろう。
馬をよしよし、と撫でて私は深呼吸をした。
この子は軍の馬だ。ここにいれば私でなくても帰り道に師団に見つけてもらえるだろう、悪いようにされる事はないはず。

馬に「ここで待っててね」と声をかけ、先行く兵隊達の後を追った。





辺りに響く乾いた音の正体が何か理解するのに少し時間がかかった。
音の先に居る人達が構えている鉄砲が火を吹いているのを私は初めて見たのだ。武器としての存在は知っている。鉛の塊を重力に逆らって爆発的に飛ばすなんて先人は何を考えたんだろうと狂気をも感じる。
そして私は彼らが銃身の先を向けるのが何か、それに気が付いて血の気がさあっと引いた。
何となくの予想はしていたが、まさか。


「あのくそ狸……っ!」


盛大な嘘を吐くとは何という暴挙だ。
失くすのは惜しいだの、情けをだの、差し上げるだの、どの口が言うんだ。と先に居る鶴見さんに怒りを感じた。そして何より鶴見さんの綺麗事を間に受けた自分が恥ずかしかった。
師団が向かった先、向けられた銃弾の先に尾形さんがいた。
それを理解したと同時、あるいは理解するより僅かに早く私は走り出していた。
撃ちながら進む師団を木の陰から抵抗し撃ち返す尾形さんを確認出来た時、「お嬢さん!?」と誰かが私を叫ぶように呼んだ。けど、止まるわけにはいかなかった。
雪で走りにくい足元も乱れる息も気にならないくらい、ただ、今行かないと尾形さんが殺されてしまうと頭の中で思っていた。
多勢に無勢。この人数の中、躊躇いもなく仲間であったはずの尾形さんに発砲するのだ。有利なのはどちらか争い事に疎い私でもよく分かる。


「尾形さん…!!」


木に隠れながら撃ち合いをする尾形さんに聞こえるように私は叫んだ。
思っていた以上に叫ぶと言うのは喉を負傷させるらしい。大きく吸い込んだ冷たい空気が喉を裂くように感じて、でも気にも止めずに音に乗せて吐き出したせいでピリッとした痛みを喉に感じ、そしてげほげほと軽く噎せる。
叫んだ私の声が届いたのか、尾形さんと目が合った様な気がしたけど、彼は銃弾から身を隠す様に木の陰に引っ込んでしまった。気付いてもらえたなら、と思って私は構う事なく彼に向かって走り抜ける。


「発砲止めーー!」


撃つな!と声を荒げる鶴見さんの言葉が後方から聞こえて、やはりなと私は確信を持つ。
私を騙して尾形さんを殺そうと銃撃戦となった。けど、鶴見さんは私に死なれては困るのだ。私を利用したいというのもあるだろうが、それ以前に私は桐原の娘だ。厄介は避けたいはずだし、この場で私が師団に撃たれようものならばその責任は鶴見さんにある。
尾形さんに向かって走れば銃撃は軽くなるだろうと予想した。

一か八かで飛び出しては見たけれど、正解だったようだ。


「いかん!江茉を行かせるな!」


そして次いで叫ばれた鶴見さんの言葉に、私は背後を振り向いた。
軍服を着用した顔も知らない男達が私を捉えようと手を伸ばしていた。
捕まってはまずい。捕まる前に尾形さんの元に行かねば、鶴見さんに交渉も出来なくなってしまう。そうしたら尾形さんは殺されてしまう。そう思うのに慣れない雪の中を走り続けるのは私には至難であった。
伸ばされた手を振り払うように正面を向きなおす。
見つめた先に木から出て来た尾形さんが銃を構えていた。構えたその先が私にあったのに、不思議と怖くはない。
尾形さんが躊躇う様子もなく発砲をする光景を、理解するより早く背後で「うぐっ」と唸るような声が聞こえて、走りながら背後の様子を伺う。
手や足から血を流す男達が雪の上に転げた。尾形さんが男達を撃ち抜いたのだと理解したのは、前を向いた私に向かって彼が手を伸ばしていたからだった。
言葉どおりの足止めを他でもない尾形さんがしてくれたのだ。
差し出された手をこんなに嬉しいと感じたのは初めてだった。


「来い!江茉!」


紡がれたその言葉に私はただ飛び込んだ。