第15話
「お待ちしていました、桐原さん」
馬車から降りようとする私に、己の手をすっと差し出してきた鶴見さんは紳士を装う狸だ。 一瞥してその手を無視し馬車から飛び降りる。薬箱がカタリと揺れて少し慌てると鶴見さんの手が伸びて私を支えた。
「…ありがとうございます」 「これくらいの事、喜んでいつでも支えて差し上げます」
にこにこと笑みを浮かべる鶴見さんに思わず顔を歪める。この人面倒くさい。 射抜かれる視線に気付いてふと顔を向けると、鶴見さんのその向こうに何人もの男達が立っていた。 規律を守るかのように列をなして控える男達の視線を受けて、その目に染まる猜疑に気付く。私は思っていた以上に歓迎されていない様だ。
「さて、今回貴女をお呼びした理由ですが」
どうやらこの場で話をする気らしい。去って行った馬車を見送って視線を鶴見さんに戻す。その向こうに待機している男達の視線を一身に受けるのは中々心地が悪かった。
「あの時の返事をお聞かせ願いたい」 「……え?」 「おや、尾形百之助の事でも問い詰められると思いましたかな?」
図星に思わず閉口する。わざわざ今、馬車で迎えなんて寄越して返事を聞かせろなんて誰が想像出来るだろう。頃合い的にも尾形さんの事について尋問されると思って当然じゃないだろうか。 不快な笑みを浮かべる鶴見さんにしてやられた気がして気分が少し悪い。 あの時の返事と言えば思い当たるのは一つだけだった。 けど、考えるまでもなく鶴見さんの誘いに対して返答は決まっている。それはあの日から揺るぎなく決めていた事だ。
「桐原江茉」
開いた私の口から言葉が漏れるのを遮る様に鶴見さんが私の名を呼んだ。
「私と共に来い」
取り繕う事をやめた鶴見さんに空気がピリッと引き締まる気がしてその背後の男達に視線をやる。各々の表情に何も読み取ることは出来なかった。 あの日、固まってしまって思うように動かなかった体も原因が鶴見さんに対する恐怖だと思うと不思議と受け入れる事が出来た。原因を知れると言うのは安定に繋がる。知っているというのはここまで精神を落ち着けてくれるらしいと、恐れを教えてくれたあの男に私はまた感謝する。
「お断りします」
はっきりと口から出た言葉に僅かに男達がざわつく。 あれから、何故この人が私に声をかけたのか考えてみた。 医師が欲しいならまず軍医の父に声をかけるべきだ。父なら立場もある以上、鶴見さんを贔屓にしたところで怪しまれる事もないし異動も叶うはずだった。腕も確かで人望も厚い父に声を掛けなかったのには引っかかりを覚える。 ならば町医者はどうだろう、この辺りの医者がどのくらいの医療人か知らないけど、陸軍の中尉に声を掛けられるとなれば懇意にしようと思うのではないだろうか。実際鶴見さんが声を掛けたのかは知らないが、こうやって私に再び誘いをするというなら答えは否だと思った。変な執着も見えて私は自分の価値を考えたのだ。 そして、見つけた。
「鶴見さんが本当に欲しいのは私じゃないよね」
それは確信していた事だ。 私の言葉に鶴見さんは僅かに目を細めた。その動作に肯定を見た気がして私は小さく笑う。目は口ほどに物を言うとは言い得ている。
「貴方が欲しいのは桐原の名だよね?」
代々医者の家系として続く私の家は地元では名の通った名家だ。父はどうだか知らないが祖父は著名人とも親しく顔が広い。 桐原を主治医にと希望する者も多く祖父はそれが誇らしいと鼻高々に語っていた。
腕の良い医師など沢山いるだろう、私よりずっと従順な人だって探せばいるはずだ。それでも尚私に拘るのは私にしかない価値を鶴見さんは見たからだ。それが何かなんて思い当たるのは一つしかない。
断言をした私に鶴見さんは表情を消し、それからすぐに笑みを向けてきた。 その変わりようにゾクリと寒気がして自分の腕を摩る。この人が怖い、自覚すればこんなに簡単にそう思える。
「そうだ、貴様の血が欲しい」
「勿論その腕を買っての事もある。だが私が最も価値を見たのはその血だ」そう続けた鶴見さんに私はどこか虚しさを感じた。分かっていた事なのに予想していただけと違い面と向かって言われると少し悲しい。
「桐原という名家に生まれながら女だったからのという理由だけで蔑ろにされるのはあんまりだと思わんか?」
性別を違えただけで弟君とは随分区別されたのでは?実の弟を無くし母に捨てられ、それでも桐原の家に尽くした貴様を偶像に仕立てるとは酷な事をされたものだ。医師としての腕は確かなのに次期の当主として認められる事もなく後継を生むための道具と見られたのはさぞ辛かっただろう。
そう続けた鶴見さんの声は今までと比べ物にならないほど、その口調は優しく耳に馴染むような声色だった。鶴見さんの事を怖いと思うのに、その言葉に耳を傾けてしまうのは身に覚えがある事だったからなのか。 強くそう思った事は無かったが、まるで見てきたかのように語る鶴見さんに私の脳裏には祖父母が浮かんでしまう。
「私と共に来い、私なら貴様に相応しい立場を与えてやれる。桐原江茉、その血は誉れだ」
何時ぞやのように鶴見さんは私に手を差し出し、そしてそう言い切った。 その手とその言葉を受けてぼんやりと考える、
「(血は誉れ…か)」
生まれ方は選べない。私が女として生まれた事、私が長子として生まれた事、私が医学の家系に生まれた事、生まれた先が桐原家だった事。血は誉れだとしても生まれ方を間違えた悲劇だとするならば、私はもう偶像にすらなれない。それはもうただの虚像だ。私は私を否定して、自分を哀れみたい訳じゃない。 繋がれてきた血が絶対だとしても、培われたものは私の意思あってのはずだった。
「……継がれるべきは血じゃないと思うな」
私がそう言ってしまうのもどうかと思うけど、でも確かに強く思うのだ。 確かに血は色濃く残ると思う、だって私はあそこに生まれなければ医学の道を進まなかったかもしれない。 大義を掲げている訳じゃないし、綺麗事を言うつもりもない。事実私が医学に携わるのは自分の興味がそこにあるからだと言える。でも、人を救うその行為に血なんて関係ない。 言い返した私の声は自分でも驚くほど小さくて、呟くようにか細いものだった。そんな私に嫌な顔をすることなく鶴見さんはじいっと私を見下ろすと、やがて満足そうに笑う。
「ならば誘い方を変えるとしよう」
そう前提を置くので、少し面食らう。そういうのは本人に言わないものではないのだろうか。 戸惑う私に気付いている筈なのに、鶴見さんは構うことなくこう続けた。
「尾形上等兵は今や謀反を企てた脱走兵だ。此奴は引っ捕らえ次第尋問し我々が裁く。…つまり私刑だ」 「待って、尾形さんが謀反って何?」
私は軍属ではない。尾形さんが除隊とされず、罪人とされてしまう軍の決まり事が私には分からなかった。 聞き返した私に鶴見さんはチラリと自身の背後を見て、再び私に視線を戻すと声を潜めた。他の者に聞かれたくないと言いたげに口元に手を添える彼に思わず一歩距離を詰める。
「我々軍人は国に忠誠を誓い、誇り高き日の丸を背負っておるのです。それを脱走など愚かな行為は、宮様から賜った御心を踏み躙る悪逆極まりないこと」 「そんな……」 「何を企んでいるのか彼奴を捕まえないことには分かりませんが、それほどの大罪なのです」
桐原さんはご存知でしょうか、
「かの新撰組では脱走はどんな理由があったとしても、漏れ無く切腹だそうですよ」 「っ…」
鶴見さんのその台詞に思わず言葉に詰まった。彼はそんな私を見てとても優しくにっこりと微笑んだ。
「尾形百之助は如何に裁かれますかな」
表面上では人の良さそうな微笑みを浮かべ恐ろしく優しい口調で述べている。今までの不気味な笑みが嘘のように、こんな風に笑えるのかと感心するくらいだ。けど、その口から紡がれる言葉は紛れもなく巧みに私を拐かす。
「……脅しですか」
尋ねた私に鶴見さんは笑みを深くする。その様子は私が彼に良く感じていた腹の底が知れない狸の姿だった。
「脅しなんてとんでもない。ただ、私としても優秀な部下を失くすのは惜しい。貴女に求めているのは、ほんの僅かな情けです」
その言葉と共に鶴見さんは私との距離を詰めて、さも自然な流れで私の手を掬い取る。 壊れ物扱うかのようにふんわりと私の右手を彼の両手が包み優しく頬擦りをされた。 ぞわぞわと肌が粟立つのに、振り払う事も出来ないのは私が鶴見さんの言葉に耳を傾けていたからだろう。
「貴女にお力添え頂きたい」 「……代わりに尾形さんを見逃してくれるの?」
鶴見さんに私がそう返すと、彼はふわっと笑った。私の手を頬から離し、けど両手に包まれたまま今度は甲を撫でられて背筋がぞくりとする。 でも、悪くないかもしれないと思った。鶴見さんが何をしたいのかは分からないけど、私なんかが出来る事なんてとても限られている。それでも事足りると思って声をかけてきた鶴見さんが、本当に満足するなら私は彼の元にいても良いかもしれない。それで尾形さんが助かるというなら安いくらいだ。 そう思いながら彼を見上げた私を、紛れもなく鶴見さん自身が現実に引き戻した。
「尾形百之助を貴女に差し上げます」
その言葉にガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。例えるならば虫が足元からわさわさと這い上がるような嫌悪感。右手を撫でつけられる事を何故今まで振り払う事なく許したのか。 鶴見さんのその台詞を聞く前までぼんやりとしていた自分を恥じる。同時にこの人が恐ろしい。
危うく忘れて流されかけていた。 言葉巧みに人を操るこの人は狸だ。
それを悟られてはいけない。我に返った事を気付かれてはいけない。この人を出し抜けるとは思えないけど、たとえ一瞬だとしても私はこの人に心酔の姿を見せなければいけない。大丈夫、取り繕うことは私だって得意だ。 目を僅かに細め、口角を意識して笑みを浮かべる。小首を傾げて、甘える様に努めた私は穏やかに鶴見さんを見上げた。
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