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第14話


限界だった。これ以上を堪えるのは無理だった。
不愉快で不快で嫌悪して忌避を感じて。似ている様で微妙に違う様々な負の感情を体が叫んだ。
私の体は私が思っていた以上に正直で、体の悲鳴を私は飲み込む事なく言葉通り吐き出した。


「うっそぉ…まじで」


私の口から溢れた吐瀉物に男が慌てて離れる。信じられないと言いたげな男にその言葉は私が言いたいと強く思いながら口から溢れるのは音ではなく胃物だった。


「うえぇ…」


しばらく吐き出して口の中に広がる酸っぱさに顔を思いきり顰める。


「へぇー…そっかそっか…ふうーん?」


私が吐き出す姿を距離を取って眺めていた男は徐ろに何か納得した様にそう声をあげた。今度は何だよと心の中で悪態を吐きながらドロドロになった着物と袴に気持ち悪さを覚えて体を起こす。
声の先の男を見れば何が面白いのかニヤニヤとした笑みを浮かべた男と目が合った。


「まさかとは思うけど、あんた生娘?」
「……」


私は返事をせず、口元を袖で拭った。口をゆすぎたい、水も飲みたい、何より体を清めて服を着替えたい。
何も言ってはいないのに、男は何故か勝手に納得して噴出するように笑った。


「まじかぁー!クソ尾形ぁー!」
「(…この人も頭おかしい)」


此処には居ない尾形さんに向かって声を上げる男に私はそう思った。鶴見さんと違って脳みそが吹き飛んでるわけでもないだろうに何処か問題があるとしか思えない。けど、興味は持たなかった。
どこか脳みその思考回路に異常があるとしてもこの男に感じた嫌悪は男に近寄る事も体は拒絶した。こいつが死んだら好きに解剖でもさせてもらおう。

そう思った時、コンコンと扉が叩かれ返事を待たずしてそっと開かれる。


「失礼します、鶴見中尉殿と連絡が取れ……お嬢さん!?」


入って来たのは三島さんだった。言葉を途中で切り上げ私に慌てて駆け寄ってくる彼は、こうなった原因の男と随分違って紳士な様だ。
吐瀉物によってドロドロになった私に構う事なく背に手を当てて「大丈夫ですかお嬢さん、一体何が…!」と声をかけてくれる。私と男を交互に見る三島さんに元凶は呑気に口笛など吹いている始末だ。


「大丈夫だよ、三島さん。ちょっと具合が悪かっただけ…でも吐いたら楽になったから」


お前のせいだぞこの野郎、と我関せずな男に言ってやりたかったがそれを飲み込んで、取り繕う様に別の言葉を口にする。何より吐瀉物まみれの姿をいつまでも晒しているのが嫌だった。
そう思って三島さんに言葉を返しながら襦袢を隠す様に着物の合わせを寄せる。胸元を直して袴の紐を適当に結ぶも怪訝な表情をする三島さんから逃れる事が出来なさそうだった。


「僕が介抱しておくから、三島はお湯でも貰ってきてやって?」


着替えたいでしょ?と男が会話に割って入ってきた。白々しい、と男を睨みつけてみるも、にんまりとした笑みで見落とされて舌打ちを我慢する。


「ですが…」
「私も体を拭いて着替えたいから、そうしてくれると助かるな」


そんな様子に気付いてかどうか、三島さんが口籠るので私は催促するようにお湯を要求した。桶ならば看護婦に言えば貸してくれるだろうと続ければ三島さんは困ったような表情をしつつも「分かりました、そうしましょう」と頷いてくれた。
三島さんが部屋を出て行くと、男は椅子に腰掛けてにまにまと笑みを寄越してきた。この男と部屋に残されるのも嫌だったが、三島さんがお湯をもらって戻ってくる時間を考えると下手なことは出来ないだろうと踏んだ。それに冷静に考えれば不貞を働き立場が悪くなるのはこの男の方だ。


「着替えるの手伝ってあげようか?」


だから、にっこりと笑みを作ってそう言った男に、私は至極冷静であった。


「脱がされるのは別に構わないけど、一切庇ってあげないからね」


ありのままを報告するよ、と言えば男の表情が変わった。笑顔を引っ込め苦々しい顔になるその様を見て私は鼻で笑う。すれば益々男は不細工になった。


「可愛くないな〜…さっきまであんなに怯えていたのに」


口をすぼめてそう呟く男に私は はたと停止する。


「(怯え……?)」


男が言ったその言葉が何故だか引っかかっていた。
不快感や嫌悪感、速くなった鼓動と緊張が走り硬直した体。体を支配した負の感情は私の頭より体が懸命に教えていてくれた。なんだ、そういうことか


「(あれが恐怖というのか)」


実感すれば妙に納得できる。この男を私は怖いと感じ体が拒絶したのだ。そして間違いなく私は先日の鶴見さんに対しても恐怖を感じていた。
そうかこれが、ああなんだ…。今まで怖いという事が真にどんなものか分かっていなかったようで、あれが恐怖と反芻すれば落ち着いてしまって思わず、ふふっと笑いが溢れた。その様子に「なにさ」と怪訝に男が言葉を投げてくるので、私は笑いを堪えながら男を見た。


「ありがとう」
「は、」
「私は貴方が怖かったんだね」


人の感情なんて不可思議で、正確に例えるのなんて難しいと思う。けれど、あの時の私はちゃんとこの男が怖いと感じていたのだと知ると、さっきの無礼も許せる気がした。
素晴らしい、恐怖というものは外傷なしに体を縛り付けることも可能とするなんて。この男に出会わなければ自覚することもなかったかもしれない。


「ねぇキミ、頭おかしいんじゃないの?」


歪めた顔で男がそう言う。失礼な、貴方ほどじゃないよと思うも何故か一転して気分が良かったから言い返すのはやめておいた。




三島さんが戻って来て桶に入ったお湯を受け取る。手ぬぐいも持って来てくれたらしい彼は細かい気遣いが出来る人だ。
男をぐいぐいと引いて部屋の外に待機してくれた三島さんに感謝して新しい着物と袴を準備する。
湯気が揺れるお湯に浸けた手ぬぐいがじんわりと指先から温めてくれた。


「それでどちらに?」


服を着替えて汚れたシーツらを片付ける。部屋の中を換気して空気を入れ替え、外にいる二人を招き入れようとすれば逆に「出かけますよ」と三島さんに言われた。そばに三島さんしかおらず、あの男の姿がない。どこか行ったのかと僅かに疑問だったけど聞くほど興味もなかったので言葉を飲み込む。
怪訝に思いつつ外に出るならばと薬箱を背負い部屋を出る。彼に先導される様に歩み進めば外に馬車があった。
その馬車に乗り込んで、隣に座った三島さんに聞いてみれば「鶴見中尉の元です」と短く返される。
まあそうか、尾形さんの行方を知っているかもと思われている以上彼の直属の上官に尋問されるのは頷ける。
けど何度聞かれたって私は知らないと言うしかないのに、どうやって信じて貰えばいいんだろう。
私に残されたのは赤い菊の簪と、謎かけのような歌だけだ。

そこでふと三島さんに視線を投げる。
ぴしりと伸びた背筋、軽く引かれた顎、真っ直ぐ前を見据える横顔を眺めて「ねえ三島さん」と声をかけた。


「はい?」


前を見つめていた三島さんが此方に視線を移す。くりっとした大きめの瞳と目が合う。
三島さんだけはあんな事があっても態度を変えないでくれた。あの時取り囲まれた際に助けてはくれなかったけど、不信感も持たず怪訝を目に浮かべる事なく接してくれるのは奇異だと思った。


「泡沫を追うって、どんな意味だと思う?」
「泡沫を、追う……?」


言葉を繰り返し首を傾ける彼に私は頷いた。少し考えるように視線をズラして三島さんは短く唸る。


「泡沫は泡という意味ですが…すぐ消えてしまうから、消えやすいもの、儚いもの、と意味を持たせる事がありますね」
「消えやすい…」
「それを追うというのは……一緒に消えるという意味でしょうか?」


自信なさそうに続けた三島さんに彼の言葉を心の中で繰り返す。
一緒に消える……だとしたら、簪と一緒に消えろという意味なのだろうか。立つ鳥という言葉を飛び立つと言い換えて繋げれば言葉としては辻褄が合う。


「(まさか、別れの言葉だったの?)」


簪は置き土産としたのだろうか、もう二度と会うことはないと歌に意味を込めたのだろうか。それも尾形さんの行動には筋が通る。でも、納得出来ない。


「(そんな…一方的な……)」


私はこんな別れなんて認めない。


「文学か何かですか?」


黙り込んだ私に三島さんがそう聞いてきて、浮かんでいた考えを振り払う。


「さあ…私医学以外は疎いから…」


小さい頃に叩き込まれた淑女としての嗜みも長く続ける事は出来なかったし、興味もなかった。ドイツ語に関しては医学書を読むのに必要だったから自然と入ってはきたけど、それ以外で為になったものはない気がする。祖母は酷く残念がっていたっけな。

馬車の中、揺られながら言葉の意味を考える。何度考えてもあの言葉の別れ以外の意味を浮かべる事が出来なくて、情報を遮りたくなり目をそっと閉じる。頭で考え込むのをやめたかったのに、それだけは止めるのが無理そうだった。




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