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第11話


そう言えば先日尾形さんに取られた簪を返してもらっていないなと気付く。
簪で髪を上にまとめ上げたかったが、無いものは仕方ない。が、あの簪は元々母のものだ。特に飾りも付いていない一本挿は柄に刻印が刻まれているだけの質素なものだった。特に思い入れがある訳ではないし、別に他で代用出来はするが尾形さんが簪をどうしたのかが気になった。


「先生、指示を」


看護婦のその声に思考が引き戻される。
真っ赤に染まった手元と、鼻を刺激する鉄の匂い。色鮮やかな赤と腐りを感じさせない匂いが、目の前に横たわる男の状態を表していた。
看護婦の呼びかけに経過時間を確認した父が静かに首を横に振る。それを見て私は心肺蘇生の手を止めた。


「よく頑張った」


父のその声は私達を労わるものではなく、横たわる男にかけられていた。すでに聞こえてはいないだろうに、肩をぽんぽんと撫でる様にする仕草は父なりの弔いなのかもしれない。
横たわる男は、先日ヒグマに襲われて運ばれてきた人だった。
長い時間の手術を耐えぬいて、一度は目も覚まして会話を交わすほど驚異の回復を見せた様に思えた。
けれどそれきりだった。あの後すぐに高熱を出して嘔吐を続け最後は吐血していた。
男は随分苦しんだ様に思う。懸命に抗いもがいていたようにも思う。それでも事切れる時は呆気ないものだった。


「江茉、あとは好きにしろ」


動かなくなった男を前に父は興味が失せた様だった。目もくれず私にそう言い捨て父は部屋を出て行く。
看護婦がわたわたと顔を見合わせ、一人は父の後を追った。もう一人はどうするべきか決め兼ねているのか狼狽えたように「チク先生?」と声をかけてくる。


「(…好きにしろ、か)」


この男は身内がいない。目を覚ました時に尋ねたところ、独り身であると本人が言っていた。つまり好き勝手にした所で男の身内が引き取りに来ることはない。


「(何故貴方は死んだのか、貴方自身はもう分かり得ないし、知りたいと言う家族もいないんだよね)」


けど、私は知りたい。最善を尽くしたはずのあの処置で一体何が間違いだったのか。

血塗れの手袋を外して、綺麗な手袋と取り替える。
その様子を見て看護婦が生唾を飲んだ音が聞こえて私は少し笑った。そんなに身構えなくてもこれから行うのは仁義に重きを置いた行為だ。


「チク先生、ご遺族はいらっしゃらないですし…」


私の行動を止めようとした看護婦に私は視線を送る。手間をかけたくないのだろうか、別に手伝って欲しいとは言っていないので先程の看護婦同様に出て行っても構わないのにな。


「貴女は知りたくないの?」


何処で何を間違えたのか。


「最善を尽くしても救えないものはあります」


私の問いに彼女はそう答えた。
答えになっていない答えを受けて私は溜息を隠すことなく吐き出す。


「それが最善だと決めるのは誰?」


こうなっては結果論でしか語れない。あの過程を振り返るならば、私も最善をただただ尽くしたと思うし父が間違った事をしたとは思わない。
その最善で骨身を削り、それでも救えないのならば調べ上げるしかない。何故と疑問を持ったなら解決させるしかない。
そもそも現時点で最善を尽くしたと言い切るのはただの言い訳だと思うのだ。だってまだ何がダメだったのか何も分かっていない。


「…それは」


口籠る看護婦へにこりと笑みを投げてから、私は視線を男に落とす。
胸郭を開く様に鎖骨に沿いながら正中線に刃物を入れる。よく切れる様に手入れがされたそれはスッと刃を男に沈めさせた。


「教えてくれるのはこの人だけだ」


それこそ結果論でしかないけど。















「しまった、ぬか袋を忘れた…」


時間を忘れて没頭していた自分の体が悲鳴を上げていたのに気が付いたのは、好きにしろと言ったはずの父が「そろそろやめたらどうだ」と声をかけてきたからだった。
いつの間に戻ってきたのかと驚いていれば、二食抜いた私にまたかと呆れてやってきたのだと言う。
二食分と聞いてそんなに時間が経ってしまったのかとまた驚く。キリも良くそろそろ終える所だった私は父に急かされる様に後片付けを行い、ぎしぎしと唸る関節を労ろうと銭湯へと出掛けた。
のだが、病院の門を抜け銭湯への道を歩く途中で桶の中にぬか袋が無いことに気が付いた。どうやら忘れてきてしまったらしい。
手ぬぐいで代用するのも良いだろうけど、折角のお風呂だ、ゆっくり時間をかけて体を癒したいのが本音。
面倒だけど取りに行くかと踵を返し来た道を戻ることにした。


「あらまあ、じゃあ貴女ずっとチク先生の所にいらしたの?」


院内の廊下を歩き自分の部屋に戻る途中だった。ふと聞こえたその声に足が止まる。看護婦が二人、ゆっくりと歩きながら会話をしていた。こちらに背を向けている彼女達は背後に誰かが居ると気付いていない様だった。

自分の話題であることはその言葉を聞けば分かったし、内容が良いものではないと言うことは聞かずとも分かってしまう。それは此処に来てから見に染みて分かっている。私は彼女達に良く思われていない。
聞かない方が良いだろうと思うのに、反射的に止まってしまった足は再び動く事を静かに拒否していた。


「ええ…でもあそこまでとは思わなくて…」


私に気付いていない看護婦が尚も会話を続ける。
口振りからしてこの声はおそらく解剖に立ち会った看護婦のものだろう。


「駄目よ、チク先生は奇異な方なんですから。桐原先生が甘いものですからチク先生はお好きに振舞っておいでですけど、傲慢に付き合うことは無いわ」


隠すことなく吐かれた棘を私は彼女達の背後でただ受け止めた。ああまで言われてしまうのは納得いかないけど、彼女の言うように私が傲慢な態度をしているならば改めなければいけない。
けどおそらく彼女達は私が何をしようと納得はしないだろう。桐原の名を盾に父の軍医である立場を利用する私はきっとどうあっても彼女達の目に傲慢に映るように思える。


「…そうね、それにチク先生のあの姿は…」


解剖に立ち会った看護婦が何か言いかけて口籠った。看護婦がなあに、と促す声を聞いて私は漸く足を動かした。
ぬか袋はやはり諦めて手拭いで体を洗えばいい。多少気にはなるけどこの場に居続けるよりはマシだ。
そう思って踵を返したのだが、突如目の前に現れた壁に出鼻を挫かれる。見慣れた軍服に身を包んだ男が私のすぐ背後に立って居たらしい。


「すみません、尾形上等兵の部屋はどちらでしょうか」


見覚えのない顔は、その台詞で尾形さんの知り合いだと教えてくれた。
けど私は考えるより早く振り返っていた。先程まで見つめていた背中が此方を向いてバツが悪そうな顔をしている。看護婦二人に男の声が届いてしまったらしい。早々に退散しなかった私が悪いのだけど、顔を青くさせる看護婦の表情には何処か笑ってしまいそうだった。


「(チクの意味もちゃんと伝わってるし陰口も分かってたのにな…)」


聞かれていた事に顔色を悪くさせてるんだろうなと思って私は少し笑みを作り軽い会釈をした。
それから男に向き直る。
背嚢を背負い軍装備をキッチリとした男だった。この病院でここまで武装した軍人も珍しい。
大体が怪我人やその見舞いで来るので武装らしい武装をあまり見ないのだ。あの鶴見さんも軍服ではあるけどとても身軽にして来ていると思う。


「尾形さんのお見舞いですか」
「はい、随分良くなられたと聞いたので支給品の補給に伺いました」


なるほど、それでこの大荷物か。
すっと看護婦達の向こうを指差して私は男に笑みを作って見せた。


「この廊下の突き当たりを右へ。階段が左手にあるので二階に上がって左側の廊下を進んで三つ目の部屋へどうぞ」
「どうも」


会釈をする男に私も返す。男は看護婦二人に目もくれず案内した道順を迷う事なく進んで行った。
そんな男を見送って看護婦が居心地悪そうに「あの、チク先生…」と声をかけてきた。
今更取り繕っても遅いのだけど、声をかけてもこちらに一歩も歩み寄らない所を見ると、それが恐らく彼女達の本音だ。
人の行動が一番心情を写し出すものだと目の前の光景を他人事に飲み下す。


「(なんて声をかけるのが正解なんだろう)」


私には到底分かり得なかった。

そもそも何で私が彼女達に気を遣って声をかけてやらないといけないんだ。お互いきっと分かり合う事が出来ないのだから気にするだけ無駄だと私自身思うのに、どうして顔色を悪くさせる彼女達を無下に出来ないんだろう。

ただ私はかけてやる言葉が分からなかったので、出来るだけ笑みを作って二人に向けて見せた。
それが正解だったかは分からない。










頭から被った水が一気に思考を鮮明にさせた。


「(っていうか私間違ってないしな)」


彼女達が私を嫌おうと、今回私は行動を間違えたとは思えない。
あのままじゃ折角死んだあの人が、しっかりとした原因も不明なままで処理されるのが納得出来なかった。ちゃんとした死因を見つける事がせめてもの手向けだと思う。
そもそも医学は誰かの犠牲の上に成り立っているのだから。

広い浴槽に身を沈める。少し熱いくらいのお湯に包まれて感嘆の声が自然と漏れる。
温かくて気持ち良い。ガチガチになった体が芯から解されるような感覚に目を瞑れば、もう先程の出来事は割とどうでも良くなってしまった。

だって私は間違っていないのだから。