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第10話


口の中の糸を全部抜き取る。ガチガチに固定していたために全部を取り除くのは中々大変だったけど、私の大変さ云々よりも口を開けっぱなしにしないといけない尾形さんを思うと手短に終わらせてあげたかった。
じっと、絡みつく様な視線を感じながら手元に集中して最後の糸を抜き取る。手袋ごと脱ぎ捨てて終わったよ、と彼に声をかければ尾形さんは口を閉じてもごもごと口内を探っているようだった。
今まで口の中に巣を這うように存在していた糸が消えたのだ、本来の感覚を噛みしめているのかもしれない。
そんな彼の顔に手を伸ばす。尾形さんは目を丸くするが大人しく受け入れて私をじっと待っているようだった。伸ばした手を顎関節の元へ滑らせ触れる。
されるがままの尾形さんに、最初の頃と随分変わったなと他人事に思った。


「可動域見たいから、口開けて。出来れば限界まで」


言うが早いかぱかりと口を開く彼は、おそらく言われたまま限界まで開けてくれたのだろう。
私からしたらおおよそ想像通りの開きだが、本人からしたら予想外だったのだろう。眉が顰められる表情に私は「大丈夫だよ」と声をかけた。


「ちゃんと顎まわりの筋肉ほぐしてたから、まだ良い方。あれやってなかったら固定外してもそんなに変わらなかったからね」


痛いのによく頑張ったねーと続ければ不愉快だったらしい、伸ばしていた手をばしんと叩き落とされた。
叩かれた手を撫でながら、治療履歴を更新して病床日誌を閉じる。
外の様子を見れば太陽は真上に差し掛かる頃だった。


「お昼、外に食べに行こうか」


この病院から割と近くに食堂がいくつかある。せっかく咀嚼が出来るようになったのだから味気ない食事はもう取りたくないだろう。
私もそのつもりで彼と自分の昼は準備をしていなかった。


「…どこか決まってるのか」
「(お、乗ってきた)」


やっぱりちゃんと噛んで食べたかったんだろうな。
そんな風に思ってしまうのは彼が私の言葉を聞いた途端にベッドから立ち上がって端に引っ掛けていた羽織を着物の上から着込み外出の準備を始めたからだった。
そんな早い行動を中々見たことが無かったので思わず彼の様子を眺めていれば、備え付けの鏡の前で髭の手入れを終えた尾形さんが私を振り返る。
伸びた髪を面倒そうにかき上げて椅子に座ったままの私をじとりと見てきた。


「行かねえのか」
「ああ、行く行く。ごめん」


尾形さんの言葉にはっとして私も椅子から立ち上がる。そもそも出掛けるつもりだったので、必要な物は持ってきていた。
側に置いていた羽織に袖を通して整える。早く早くと、言葉には出てこそいないが今に外へ飛び出しそうな尾形さんに私は少し笑ってしまった。


「…なんだよ」
「何でもない」


怪訝に聞いてくる彼にはぐらかす様にして、私は彼の視線から逃げる様に部屋を出た。
すれ違う看護婦が、お出かけですかと声をかけてくる。お昼ご飯食べてくるよと答えれば余所行きの私と尾形さんを見て看護婦はにっこりと笑い「行ってらっしゃいませ、ごゆっくり」と続ける。微かな棘を感じつつ、何故昼ごはんまで監視されねばならんのだと心の中で愚痴る。
別れた看護婦に小さな溜息をつけば尾形さんに気付かれたのか三つ編みをくいっと引かれた。


「何を食べるんだ?」
「(…やっぱり尾形さん食いしん坊じゃないのかな)」


重苦しい雰囲気を気にされるのも嫌だけど食欲を前に気遣いらしいものは消え失せた様子には流石に笑ってしまう。
引いた三つ編みを手で弄ぶ様な彼にどこか心が軽くなるのを感じた。


「…お蕎麦、お好きですか?」
「最近食べてはないな」
「美味しいお蕎麦屋さんがあるんですよ」


それに蕎麦は硬い固形物と違い顎への負担は軽いはずだ。蕎麦に含まれる栄養価も高いし、腹持ちも良い。蕎麦湯までしっかり頂けばぽかぽかと温まるだろう。
病院の門を通り抜けながら尾形さんへの説明で口を動かす。吐いた息が白く煙の様に散って行く様を見てまだまだ寒いと実感する。
歩きながらふと隣の尾形さんを見上げれば、彼は脇道に逸れる方向を眺めていた。表情という表情を出してはいなかったが、その方向、先日の行動に心当たりがあった。

あの向こうは射撃場だ。

度々病院を抜け出しては射撃場へ足を運ぶ尾形さんに、父が射撃場への出入りを禁止した。勿論それは尾形さん本人に言っても効果がないのでここら辺の射撃場責任者に直々に交渉したらしい。
父は顔が広い。評判も良く町を歩けば皆から声をかけられる。そんな父の言葉に否を出す人はいなかった。
だからその日から尾形さんは射撃場に足を踏み入れる事が出来なくなってしまったのだ。
酷な事をしたかもしれないが、やって当然の行いに私は罪悪感を欠片も感じてはいない。こうまでしなければ彼は今頃腕に負担をかけていただろうから。


「…尾形さんは軍に帰りたい?」


視線を前に戻し何食わぬ顔で歩みを続ける彼に、何となく聞いてみた。
私は軍人ではないし、軍属でもない。そもそも女であるからして軍医になる事すら出来ない。だからこそ軍がどんなものかは知らないし、説明された所で理解も出来ないだろう。
尾形さんは軍人だ。それも精鋭部隊として名高い第七師団というものに属している。精鋭部隊と言われても私にはいまいち理解が出来ないけれど、師団が築き上げてきたものがそう呼ばせるのだとは分かる。そしてそれは町行く人が軍服を着た者に敬服する姿を見てしまえば尚のこと。
築き上げてきたものが何かも良くは分からないけど、軍人の功績といえば何となく予想がつく。


「お前はどうなんだ」
「私?」
「もし桐原があの病院から離れたとして、あそこに帰りたいと思うのか?」
「…離れたら……考えたことなかったな」


今まで父の居る場所が私の居場所だと思っていた。それを疑いもしていない。だって私は桐原家の名前にぶら下がって居るのだから。そしてそれは地元か、或いは父は元でないと出来ない行為だ。

だからこそ私が帰る場所はあそこなのだろう。


「自分の院を開く気はないのか」
「…それも考えたことなかったな」


そもそも開くだけ無駄なのだ。私は桐原という家に生まれた。代々続く医学の家系で次に継がせては世継ぎをこさえ、また継がせる。そんな家系だ。
今、実家の当主は祖父である。だからこそ父は北の地で軍医をするなど好き勝手やっているが、いずれは父も桐原を祖父から継ぐ事が生まれながらに決まっていた。
そしてそれは父の子どもである私も例外ではない。ただ、私の場合は父や祖父とは違い当主になる事ができない。優秀な婿を取り世継ぎを生む。出来れば男児が望ましい。そして世継ぎに医学を叩き込みまた次に繋げさせる。
子どもを産む機能が備わっているというなら、試したいと思うけど世継ぎ云々を考えてしまうと吐き気がした。

私は何をしたって無駄なのだ。
院を開いた所で畳まねばならない。病院を抜け出した所でいつか実家には帰らなければならない。
私はただ、医学という神秘に溺れたいだけなのにそれすら許されてはいない。


「飼い殺されてる気分だ…」
「は?」


ぽそり、呟いた言葉に尾形さんが反応して声に出ていた事に気付いて首を横に振った。


「帰りたいとかじゃなくて、帰らないといけないんだと思う」


あの病院に。

父の監視の元にいれば今は好き勝手が許される。もしこれで父の元から離れてしまえば東京に連れ戻されるかもしれないし、そうなっては破談になった婚約話が私を置き去りにして進んでしまうだろう。それにもしかしたらこの瞬間も実家では見合い相手を探しているやもしれないのだ。
そんなの考えただけで吐き気がする。


「…出来るなら、全部捨てて逃げたい。かな」


続けた私に尾形さんの視線が突き刺さる。それを誤魔化すように到着した店の暖簾をくぐった。


「あら桐原先生の、いらっしゃい」
「こんにちは女将さん」
「あらあらあら今日は殿方とご一緒なの?お嬢様も隅に置けません事」


出迎えてくれた女将さんがふふふと笑う。そんな女将さんに私もふふふと笑い返す。
此処でも私は桐原先生の娘さんなのだ。医師としてではなく父の娘として見られているからこそ正しい説明をするだけ無駄なのだと理解していた。
通された先に尾形さんと向かい合って座る。「よく来るのか」と店内をぐるりと見渡した彼に聞かれて「うん」と手短に答える。


「ここのお蕎麦好きでさ、本当に美味しいから」
「一人でか」
「……私が看護婦と談笑しながら食事をする様にでも見える?」


尾形さんも流石に病院内での看護婦が私に対する扱いには気付いているはずだ。あれを見て仲良しこよしの姿を想像出来るなら尾形さんの頭はポンコツである。
が、私の言葉に「ははっ」と笑いを返した所わざと言ったらしく憎たらしいなと思った。

少しして頼んだ蕎麦が二人分運ばれて来る。湯気が踊る様に揺れる蕎麦を前に両手を合わせて「頂きます」と口にすれば尾形さんは私の仕草を見て真似をする様に両手を合わせた。頂きますとは言わなかったけど。

いつか、尾形さんは師団に戻る日が来るしいずれは此処から居なくなる。
私もいつか此処から居なくなって東京に戻る日がやって来る。
当たり前に待ち構える未来を見据えて、僅かでもこんな時間が続けばいいのになと、そう思った。



title:水葬