アレックスの両手を包んでいた彼の手が、突然、スッと離れていった。
温もりの消えた手の甲には、予想外の喪失感が残り、彼女の胸の奥がザワリと音を立てて揺れた。
視線の先にある緑茶の湯面のように、ゆっくりと渦を巻いて揺れる心。
湯呑み茶碗から手を離したアレックスは、失われた温もりを補うかのように、お茶で温まった右手で、左手の甲を擦った。


「ねぇ、アレックス。私は、またいつ死ぬか分からない身だ。聖闘士という立場柄、死を恐れてはいないけれど、だからといって、何かを諦める気もない。だから、次に死ぬ時は後悔しないように、私はキミを諦めない。例えキミが逃げようと、地の果てまで追い駆けて攫おうと思う。」
「でも、貴方は……。」


彼はこの一ヶ月の間、アレックスの前に姿を現さなかった。
あの再会がなかったかのように少しの音沙汰もなくて、彼女は彼との約束も、彼と過ごした夜の記憶も、心の中で薄れ掛けていた。
一ヶ月も放っておく事が平気で出来る人が、今更何を言うのかと、そんな気持ちにもなる。


「仕方ない。任務だったんだよ。少々、厄介な任務でね。随分と時間が掛かってしまった。その間、私がどれ程に焦れていたか。その焦りのために、逆に任務に支障をきたしそうで、また酷く焦る。その繰り返しの日々だった。」
「任務……、そんなに長い期間の任務もあるのね。」
「そうさ。一ヶ月より長く掛かる事だってある。もしかしたら、その任務で命を落としていたかもしれない。」
「っ?!」


息を飲み、目を見開くアレックスの前で、彼は優雅な笑みを浮かべて先を続けた。
彼にとっては当然の事を話している、何ら珍しい事ではない出来事を。
アレックスは、擦っていた手の甲をギュッと強く握った。


「そういう世界で生きているんだ、私達、聖闘士は。今日死ぬか分からない。明日死ぬか分からない。それでもキミを縛りたい、私の元に。いや、だからこそ縛りたいんだ。もう一度得た短いこの命を、今度こそ後悔なく生きるためにね。」
「縛りたいと思うのは勝手だけれど、縛られた私はどうなるの? 縛られた事に後悔するかもしれないのよ。」
「キミは後悔なんてしない。分かっているのだろう、そんな事は。」
「そう……。そう、ね……。」


今はもう、何を言っても無駄だ。
彼に対してではなく、アレックス自身の心に対して。
もう何もかもすっかり彼に言い包められてしまった。
旅行会社の仕事を辞める事も、彼と共にギリシャに住む事も、聖域の書庫で歴史の裏側を記した資料に埋もれて過ごす事も、もしそれで彼の命が早くに尽き一人残される事になったとしても、自分は後悔しないと理解してしまった、納得してしまった。
この短い食事の時間に、彼の沢山の言葉で理解させられ、彼の強い想いで納得させられた。
いや、この時間だけではないのかもしれない。
再会してから過ごした時間、離れていた一ヶ月の間も含めて、その全ての時間が、アレックスに『アフロディーテと共に生きる』という運命を理解させ、納得させたのだ。


「……分かったわ。」
「アレックス?」
「貴方の思うようにして頂戴。そう言っているのよ、ロディ。」


みるみる内に見開かれていく彼の瞳。
キラキラと満ちて零れ落ちそうな喜びが、その目に溢れているのが、真っ直ぐにアレックスへと伝わる。


「本気かい? キミは今持っている全てを捨てて、私と聖域に来ると、本気で言っているのか?」
「だって、拒否したところで、貴方が私を攫うのでしょう? 無駄な抵抗をして傷を負うよりも、全てを受け入れて快く前に進む方が良いわ。」
「あぁ、アレックス……。」


バタリと響いたのは、椅子が倒れる音。
アレックスが息を飲むよりも早く、彼はテーブルのコチラ側へと飛んできて、彼女を強く抱き締めていた。
それは、常に優雅な彼が唯一、取り乱した瞬間だった。





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