二階の窓から見下ろす通りには、仕事帰りの人達が絶え間なく行き交っていた。
そのまま真っ直ぐ自宅へと帰るのか。
それとも、自分達のように、これから何処かで食事をするのか。
そして、その後は、夜の闇に溶けて、隣を歩く相手と互いの身体をも溶け合わせるのか……。
一度、追い払った筈の彼の裸体が再び脳裏に浮かび、アレックスはゾクリとした感触に襲われた刹那、頭をブンブンと振って、幻影を追い払おうとした。


「お待たせいたしました。懐石弁当で御座います。」
「あぁ、美味しそうだ。」
「とても豪華ね。彩りも綺麗。」
「キミは箸が使えるのかな、アレックス?」
「当然よ。貴方はどうなの、ロディ?」
「私は何でも出来るよ。何でも、ね。」


雅やかに微笑む完璧主義の男。
憎らしくも、魅惑的な人。
その言葉に嘘はない、彼は本当に何でも出来てしまうのだ。


アレックスは、まずお吸い物を口に運んだ。
仄かに広がる出汁の風味、この微かでいて深い味わいが日本食の醍醐味だと分かるようになるまで、一年は掛かったか。
だが、それすらも彼は既に体得していて、外国人には分かり難い旨味も、普通に感じているようだった。
一口、汁を口に含んで目を閉じた仕草から、それがハッキリと読み取れる。


「……何、アレックス?」
「えっ?」
「私の顔をジッと見ているから、何かあるのかと思って。」
「それは……。貴方が日本食の繊細な味わいを理解出来るだなんて思っていなかったから、ちょっと驚いただけよ。」


素直に思った事を伝えると、彼はクスリと笑った。
パッと染まるアレックスの頬。
彼の前に居ると、ついつい彼と自分を比べてしまうアレックス。
そして、自分はどうしようもなく子供なのだと思わずにいられなかった。


職場での彼女は、冷静で仕事が出来て、他の若い女子社員達のようにハシャぐような事はしない、落ち着いた女性だと思われていた。
同年代の日本人の女の子と比べ、フランス人のアレックスは、外見的にも圧倒的に大人びている。
洗練された大人の女性、典型的なキャリアウーマンと言って過言ではないのに、不思議と彼の前では少女のようになってしまう。
いや、少女になるよう仕向けられているのかもしれない。
こう見えて、実は恋愛に奥手で、駆け引きなど知らない、初心で純真な女なのだという事を、彼だけは知っているから。


「仕事柄、色んな場所で、色んな食事をしなきゃならないからね。行った先、訪れた土地、人も様々なら、料理も様々。自然と味覚も発達するさ。」
「そんなに色々?」
「時にはジャングルで数日って事もあるし、稀に虫だって食べるよ。それが御馳走で、貴重な栄養源だという地域もあるからね。と、これは余計な話題だったかな。そんなに嫌な顔をしないでくれるかい、アレックス。」


あからさまに不快な、苦虫を噛み潰したような表情をしたアレックスに対して、彼は苦笑いを浮かべるしかなかった。
まぁ、当然だろう。
見た目も鮮やかな和食を前に、虫を食べるなんて話、女性が喜ぶ訳がない。
成り行きとはいえ、そんな話をしてしまった事を僅かながらに後悔しつつ、アフロディーテは言葉を続けた。


「お陰で味覚は鍛えられた。ほら、生魚だって平気だ。」
「お刺身も大丈夫なの?」
「あぁ、大丈夫だよ。悪友に料理好きがいてね。魚のカルパッチョに嵌ったとか言って、酒の肴にサーモンやら鯛やら、生の魚ばかり出された事もあったものさ。」


彼の脳裏に浮かぶのは、ニヤリ笑いを浮かべた悪友と、その手に乗った大皿だ。
たっぷりの野菜と新鮮な生魚、そこにオリジナルアレンジのイタリアンドレッシングを惜しみなく振り掛けた絶品カルパッチョ。
お陰で耐性が付き、今では和食の刺身も美味しく食べられるようになったのだから、蟹の存在も悪いばかりじゃないな。
そんな事を思っていたと知られれば、間違いなく怒り狂うだろう悪友の姿を脳内から追い遣り、彼は微笑みながら鮪のお刺身を口の中へと放り込んだ。





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