12




「カナフ、次の壁外調査だが」
「ああ、……何回目になるんだ?」
「次が57回目だ」
「57!随分進んだな。で、何か問題でも?」

エルヴィンの団長室で、ソファでくつろぐカナフは紅茶を片手に、書面に目を落としているエルヴィンに視線を向ける。
いつもよりも固い顔をしているなと思いながら、カナフはどこか覚悟の滲むエルヴィンの表情を目に留める。

「君には計画を話しておこうと思う」

重苦しい言い方のエルヴィンに、カナフはだらけたようすから目に力を込める。
そして考えるように視線を逸らし、ソーサーにカップを置いた。

「その計画は全員に伝えるのか?」
「いや、信用できる者だけだ」
「なるほど」
「……聞きたくないのか?」

カナフの様子から、エルヴィンは計画を知ることを危惧しているのかと推測してそう尋ねた。

「いや、そういうわけじゃない。ただ、新兵達全員に知らせない、ということなら俺も知らない方がいいと思っただけだ」
「ああ、フェアじゃないって事か」
「俺だって新兵なのに、ズルはなしだろ?」
「奇跡の男は言う事が違う」
「奇跡の男!」

カナフは声を出して笑い、エルヴィンは笑うカナフを綻んだ顔で眺める。
慈しむような柔らかい表情に、カナフの表情も緩んで肘掛に身を乗り出すようにエルヴィンに向き直った。

「どの班に配置するかはともかく、カナフには知って置いてもらいたい」
「分かった。聞くよ」

それからカナフはエルヴィンから57回壁外調査の目的を聞いた。
エレンを餌に諜報員をおびき出し捕獲する。
要約してしまえばたった1行で終わる計画に、今度は一体何人が死ぬか、いや、何人が生き残るかと考える。死んだ人数を数えるより生き残った数を数えた方が圧倒的に早いだろう。そんな薄暗いことを考え、誰も死ななければいいと思いながらそんな結果はありはしないと骨身に染みて分かっているカナフは、エレンを餌にする事に難色を示したものの目を伏せて計画の全容を了承した。

「俺の配置は任せるけど、できたらリヴァイとエレンの近くがいいもんだが」
「いや、君は留守番だ」

エルヴィンの、お使いを頼む時のようなさり気ない言葉にカナフは理解が追いつかずに口を閉ざす。

「は?」
「聞こえなかったか?君は留守番だ、カナフ」
「なんで!」

声を荒げるとエルヴィンはス、とカナフの頭に巻かれている包帯を指さした。
何を示したのか理解したカナフは苦虫を噛み潰したような顔をしてエルヴィンから顔を背ける。もう動けるくらいに回復してなお、頭の包帯を取ってくれない医者のせいで未だに何もさせてもらえていない今を考えれば、壁外調査に同行できない事くらいすぐに理解できた。

「くっそ、さっさと治れば……」
「いや、治っていても君は留守番だ」
「……意味分かんねぇんだけど」

やや不機嫌になりながら呟かれた言葉に、エルヴィンはイイ笑顔でカナフを見る。その笑みを向けられてもカナフは意味がよく分からず、顔を顰めてエルヴィンを見た。


「……良くない事なのは分かってる。しかし、……もう二度と、君を失いたくない」


エルヴィンはイイ笑顔から苦しげに顔を歪めるのに、それでも笑みを浮かべたままカナフを見つめる。
隠し切れない切なさ苦しさがその表情一つで伝わったカナフは、顔を顰めて俯いた。
自分の死でエルヴィンをどれだけ傷つけたのだろう。
そう思ってしまう程、今のエルヴィンの言動は重くカナフに圧し掛かった。

「……でもこんなんじゃ、何のために調査兵団に入ったのか、」
「分かってくれ。それに、壁外調査時に本部を開けておくわけにもいかないだろう。留守番だって立派な任務だ」
「物は言い様だな」
「なんとでも言え」

カナフはエルヴィンの言いたいことは理解できた。しかし、カナフの望みは、リヴァイを守る事、ただそれだけだった。
足手まといになるのかもしれない。しかし、もしも。自分が盾になるだけでリヴァイが助かる未来があるのだとしたら。
エルヴィンの気持ちも、心遣いも、理解できるが。
自分の望みの為に他人を踏みにじってばかりだなと、苦笑する。


「悪い、けどな。頷けねぇや。俺、は、俺は、な、……やっぱりリヴァイの傍で戦ってたい。それだけで、いいんだ」


寄り添える相手が欲しいと思った事も本心だし、それを目の前のエルヴィンに、軽くでも期待したことも事実だった。
しかし、こういう、時。
カナフは思い知っていた。
天秤は常にリヴァイに傾くのだと。
痛々しい沈黙だった。苦しい事ばかりだった。自分が色々動くたびに誰かを傷つけてる。
エレンもリヴァイもエルヴィンも。
やがて重苦しい沈黙を破って、エルヴィンは小さくため息を吐き、立ち上がりデスクに向かい歩を進めた。

「……君の配置は、私の傍だ。恐らくそこが一番危険で、一番安全だろう」
「……悪い。ありがとう」






団長の執務室から出てすぐ、カナフはエルヴィンに会いに来たであろうリヴァイと遭遇した。
あれから気まずい感じになるわけでもなく、擦れ違っても笑顔で会釈するくらいにはなっていて、しかしその変化は殊の外リヴァイを苦しめていた。触れる距離にいるのに近づけない壁を、その笑顔から感じてしまうのだ。
通り過ぎて2歩。リヴァイは足を止めた。

「……また今日も通い妻か、カナフ」
「ええ、まあそうですね」

リヴァイの嫌味にも反応しない。
近づきたい。近づけない。触りたい。できない。
手を、伸ばしさえ、すれば。
でも。

「そんなに、……エルヴィンがいいか」
「……」
「俺よりも、……」

カナフに背を向けたままリヴァイは俯いた。気持ちの整理なんてできるはずもなかった。今カナフが生きていることに感謝すべきで、それだけでいいと思うべきで、そしてエレンを大切にすべきだった。何度だって自分に言い聞かせるのに、何度だって失敗して。
姿を見れば決意も覚悟も全て簡単に決壊する。
理由なんて一言で片がつくくらい、簡単な言葉だった。

「俺は、……」

ぽつり、と。
呟いたカナフにリヴァイは肩越しに視線を向ける。
寒くも無いのに体は冷え切っていて指先の感覚がないと思いながらリヴァイは、怪我のせいなのか蒼い顔をしているカナフを見つめる。抱き締めたいという思いを堪えながら。

「……二人が俺の事なんて気にしなくていいように、エルヴィンに協力してもらっただけだ」
「付き合ってんじゃねぇのか」
「フリ、だけだ」

カナフの、この世の終わりとでも言うような表情を目に留めながら、ふうと息を吐いた。
どうせこれも、『言いたくなかった』とでも思っているんだろう、と。
その言葉を聞いてリヴァイは、嬉しい、と。
感じてしまった胸の奥、温まるのを舌打ちして押し隠した。

「フン……エルヴィンはそんな事思ってねぇぞ」
「ええ?」
「エルヴィンはお前に惚れてんだ。……俺と、お前が、付き合ってた頃からな」
「……、え?」

照れ隠しの憎まれ口だと、リヴァイは自分で気付いていたが、嬉しいと認めてしまえば自分が今誰の事を一番に想っているのか思い知らされるような気がしてそんな態度しか取れなかった。
近付くことのないカナフはただ離れていくようで、追いかけたいのにそのたびに自分が今誰と一緒にいるのか気付かされる。
カナフは、リヴァイの言葉に瞠目して動きを止める。
可哀そうになるくらい動揺していた。

「……気を付けろ。本当にフリだけで、済めばいいがな」
「あ、……ちょ、」

「入るぞ、エルヴィン」

リヴァイはそれだけ言うとさっさと踵を返して団長の執務室に入って行った。
カナフの静止も聞かず、ぱたんと閉められた扉に拒絶されたようにも感じてしまって、いつもは自分がリヴァイに似たような気持ちを味わわせているんだとその身に感じていた。
届くのに、届かない。
そう思って、いや、とカナフは思った。

届くのに、届けない、だ。

扉の前まで歩を進めて扉に手を添わせる。冷たい。
自分がこの壁の内側にいるのか、それともリヴァイを壁の内側に閉じ込めたのか、カナフは分からなくなっていた。

強くなれば何だって耐える事が出来ると思っていた。
リヴァイと、そしてエレンが幸せになれば報われるんだと思っていた。
自分の気持ち一つ満足にコントロールできなかった。
会いたい。触れたい。守りたい。
そんな、事が、何一つ。

二人の幸せは自分の幸せではなかったのだと、カナフはこの時初めて気付いたのだった。



***



第57回壁外調査を翌日に控え、城の中は驚くほど暗鬱としていた。
それも当然だろうとカナフは思う。明日死ぬかもしれない。明日、無為に死ぬかもしれない。そう思いながら笑える人物はそう多くはない。カナフだって、リヴァイだって、笑い飛ばせるほど強くはなかった。だからお互い寄り添って温もりを分け合って奮い立ち、目の前の愛しい人を守ろうと生き残る覚悟を決めたのだった。
カナフは悲痛な覚悟はさほどしなくて良かった。しかし、それは逆にカナフを不安にさせ、恐怖させた。
エルヴィンから聞いた計画と配置ではリヴァイを守れない、その事がきつかった。しかし足手まといになるかもしれないと思うと、そのせいで守るはずが逆に守られ、リヴァイが死ぬとしたら。悔やんでも悔やみきれない。頭では理解できていた。でも。

「なんだ、浮かない顔だな」

エルヴィンの言葉に、見てもいなかった紅茶の水面に落としていた視線を上げる。
カナフは、分かってるくせにと苦笑して恨みがまし気にエルヴィンを見やった。

「最前線じゃないなんて初めてだ」
「そうだな、では上手くできるようにおまじないでもしてやろうか」
「おまじない?」

エルヴィンは悪戯に笑って立ち上がり、カナフの座るソファまでやって来た。
何をするのかときょとりと見上げるカナフに、エルヴィンは面白い遊びを想いつたときのようにきらきらした顔で笑みを浮かべて、ぐ、とカナフに屈んで身を寄せた。その滅多に見せない様子に何故か危機を感じて思わずカナフは持っていたカップをソーサーに戻して近づかれた分ジリ、とソファの上で後退りする。

「……な、なんだよ」

エルヴィンは何も言わなかった。何も言わずに笑みを深め、どこか立ち入れない雰囲気さえ纏いながらカナフの顎を持ち上げカナフが驚いている間にエルヴィンは唇を重ねた。
驚いて何の反応も出来なかったカナフだったが、これがキスだと頭が理解すると、弾かれたようにエルヴィンを押し返す。
エルヴィンは抵抗もなく口を離したが、カナフとエルヴィンの口の間に僅かに隙間ができた程度の、ようやく二人の焦点が合う程度の距離しか開けなかった。

「何、してんだよ」
「付き合うというのは、こういう事だと思っていたが?」
「ちょ、エルッ、んん!」

エルヴィンはカナフの肩を押してソファに押し倒しながら唇を重ねる。
エルヴィンの体重を支えきれずにそのまま転がされ、二度三度、一気に深くなったキスに言葉は飲み込まれ、押し返そうとする手も取られソファに縫い付けられ抵抗を封じこまれた。

どうして。
そう思うと同時にカナフはリヴァイの言葉を天啓のように思い出していた。

『エルヴィンはお前に惚れてんだ。……俺と、お前が、付き合ってた頃からな』
『気を付けろ。本当にフリだけで、済めばいいがな』


フリじゃ、なかったのか、お前は。


時折向けられるエルヴィンからの優しい視線にむず痒さを感じる事は何度かあったが、カナフはそれを生き返った者へ向けるそれだと思っていた。直接触れ合いたいという、カナフがリヴァイに向けるような熱のこもったそれだとは思っていなかった。合わせた唇の隙間から漏れる熱い吐息に反して、カナフの心は悲しみに溢れていく。
自分はまた、エルヴィンを苦しめるようなことをしていたのか。
それを思えばカナフは抵抗することが出来なかった。自分と同じだと思ったのもその原因かもしれない。カナフはリヴァイと付き合う事ができない。エルヴィンもまた、リヴァイしかみていないカナフを手に入れる事ができない。どこまでも悲しい一方通行だった。
カナフは望んで一方通行になったが、エルヴィンは。


「……もう抵抗しないのか」


エルヴィンの硬質な声にカナフは悲しげに顔を歪めたまま小さく首を横に振る。
今にも泣き出しそうな顔にさすがにエルヴィンの良心が咎めていた。

「なあ、俺、どんくらいお前の事傷つけてた?」
「、」
「生まれ変わってからも、リヴァイの事忘れらんねぇ俺で、苦しめてたのか?」
「……」

エルヴィンはカナフの予想外の言葉に目を見張る。拒絶か、断罪か、怒りか。そういったものをぶつけられると思っていたのだ。その覚悟があってリヴァイはカナフに触れていた。まさかこんな、包み込むような思わず自分の非を認めてしまうような事を言われて、エルヴィンはそうとは見えなくてもテンパっていた。

「どう、したら」
「え……?」
「どうしたらお前は、俺と一緒にいてくれるんだ……」

重力に負けたように折り重なり、カナフの胸元に額を押し付けるエルヴィンはまるで祈っているようにさえ見え、発せられた言葉と相まってカナフに懇願しているようだった。
カナフは思わず、抱きしめたいと思っていたが、エルヴィンに腕を押さえつけられたままでそれは適わず、痛切な叫びにも似た呟きに胸を引き絞られ目から涙が溢れていた。


「いつ俺の事を見てくれるんだ、いつになったら、お前は俺を……」


カナフはこの先、自分とは違う誰かと番って生きていくんだろうか。自分やリヴァイと見上げたような月よりもきれいな月を眺めたりすんだろうか。考えただけで本当に嫌だった。しかし、エルヴィンにはカナフが誰を選ぶかなんてどうしようもないことだった。
額越しに遠く感じるカナフの脈動を感じて、確かに生きていることに安堵して、同時にこの温もりは一生自分のものにならないのだと思ってしまう自分がひたすらに疎ましかった。自分のものになれ、と。命令するようにカナフに告げられればどれほどいいか。あれほど希った温もりに触れながら、触れていれば触れているほど離れ難くなるから、終わりにしようとエルヴィンは立ち上がる。
カナフに背を向けて一歩離れると、エルヴィンの後ろから衣擦れの音がして、カナフも倒された上体を起こしたのだとその音で知れた。

「死ぬかも、しれない壁外調査の前だからかな。少し弱気になっていたようだ、忘れていい」

カナフにはエルヴィンの気持ちに応えるだけの余裕はなかった。受け止める事はできたが、その気持ちを同じくらいの気持ちでもって返すことは今後きっとできないだろうと思う。でも、エルヴィンの気持ちを断ってしまえば、この場所の空気すら失ってしまうのだとカナフは分かっていた。以前と同じように接してはくれるだろうしかし、全く同じようにはならない。どこか歪で、ぎこちない空気になるのだろうということは火を見るより明らかだった。エルヴィンと普通に話せなくなったら、自分はこれから先、誰と話せばいい。エルヴィンだけだった。エレン相手だとリヴァイの事を思い出してしまうだろうし、エレンもリヴァイの話をするだろう。リヴァイと気兼ねなく話すことは出来ない。他の同期相手でも気が抜けない。リヴァイ班とは尚更だった。カナフが何も気にせず、自分として会話できる相手は、エルヴィンしかいなかったのだ。それまで失いたくないとカナフは我が儘な事を考え、そしてそれはエルヴィンの気持ちを全く無視しているという事だった。
酷い男だ、とカナフは心中で嗤う。

「無かった事になんて、できるかよ……俺の事忘れずにいてくれたお前の言葉を忘れるなんて、そんな事できるわけねぇだろ」
「いいんだ、忘れてくれ。気まずくなって君が遠くなるよりずっとマシだ」
「できねぇよ……」

カナフはソファから立ち上がり、エルヴィンを背中から抱きしめた。
自分でも矛盾しているなと自身を罵る。リヴァイには忘れろとか言っておきながら随分都合がいい。カナフは自身の身勝手なところが、相手の事を考えきれない自分がどうしようもなく嫌いだった。こんなに自分が嫌いなのにどうしてみんな俺を好きになるんだろう。こんなに酷い男なのに。どうしてこんなにも周囲を傷つけて、苦しめてしまうのだろう。周囲の幸せだけを願って、幸せになるように動いてなおこんな状況で、悲しい事ばかりで。

「俺の気持ちに、応えてくれる気がないのにお前はそんな真似をするんだな」
「俺が苦しめたんだろ。俺が慰めて何が悪いんだよ」
「……相変わらず勝手だな。リヴァイが嘆いていた気持ちがよく分かったよ」

僅かに柔らかくなった空気にカナフは少しだけほっとして、それでも腕の力は緩めずにぺとりと背中に頬を摺り寄せる。エルヴィンは自分の前に回されたカナフの手をそっと触れた。

「ごめん……エルヴィン、ごめん。傷つけてたなんて知らなかった。お前が俺の事、その……そうだったなんて、知らなかった。苦しかっただろ、ごめんな」

カナフの今にも泣きそうな掠れた声を背中越しに聞いて、エルヴィンも泣きそうになっていた。
傷ついて苦しんでいる人に寄り添おうとする、最初に好きになった部分が今はとても疎ましいと思った。そんなのいらない。同情はいらない。そう思うのに、カナフのその柔らかな、まるで天上の恵みのように降り注ぐ木漏れ日のような優しさに温められてしまった事もまた事実で。ささくれ立った心がなだらかになってゆく。カナフは存在がまるで魔法のようで、愛しかった。

「リヴァイの事、好きだよ。今だって大好きだ。けど、諦めようと思ってた。俺も誰か寄り添える相手が、欲しいって、思ってた。けど、お前に告白されても、やっぱりリヴァイの事大好きだって思って、けどお前の事失いたくも無くて、なんつーか、どうしたらいいか分かんねぇ。今は」

カナフはどう伝えたらいいのか分からず、取りあえず自分の感じたこと全てを伝える事にした。

「でも、さ、ここでお前の言葉に頷いたら、お前の事利用してる事になるだろ。そんなのあんまりじゃねぇか」
「俺はそれでも構わない。すぐに大切な相手を忘れる事の難しさは俺もよく知っている。最初は利用だっていい。カナフが傍にいてくれさえすれば」

思いがけない甘い誘惑に、カナフは思わず腕の力を強めた。
揺らがない、はずがなかった。どれだけリヴァイ事を思い続けていても、たった一人の寒さに耐えるのにも限界がある。まして好きな相手が傍にいて、別の誰かと一緒にいるのを見続けなければいけないのなら尚更。
今自分の腕から伝わってくるこの温もりが、この先も自分から離れていかないのだとしたら。そう考えた端から甘い毒のようなものがじわりと広がるのをカナフは感じていた。でも。
自分の思考にカナフはいっそ泣きたくなった。
抱き締めている腕の回し具合が違う。見上げなければ顔が見えない。そもそも。
リヴァイはこんな甘いことは言わない。
全てを比べてしまう。大好きなあいつと。未だ心奪われているあいつと。
リヴァイとのひとつひとつの違いに心が悲鳴を上げる。違うんだ。
このままエルヴィンの甘い言葉に寄りかかって一緒になって果たして本当に、エルヴィンを幸せにできるのか、自分も幸せになれるのかと思ってしまう。自分の中に誰が居座っているのかは、カナフは自身が一番よく分かっていた。

「……、」

分かっていたのに、
カナフは断りの文句が出てこなかった。
それは、エルヴィンをこれ以上傷つけたくないという優しさではなく。

言葉を、気持ちを探している間に、何も言わないカナフに痺れを切らしたのかエルヴィンはカナフの腕をそっと外してカナフと向き合った。困惑の色濃い表情をしている、と思ったがともすれば泣き出しそうにも見える。笑っていてほしいのに困らせてばかりだと、エルヴィンは心中で自嘲する。

「返事は、今じゃなくていい」
「……、」
「どうしたらいいのか分からない、んだろう?」
「……、」

違うんだ。
カナフはそう思った。
どうしたらいいのか分からない、に対するものではなく、自分の求めるものが、人物が目の前のエルヴィンではないという事に、カナフは気付いて、そして思い知らされていた。今まで何度も感じたことのある感覚ではあったが、今回の事は決定打となってカナフの中に落ちてきた。
自分が求めているのはエルヴィンじゃなくてリヴァイなんだと。
そして恐らくこれは、この先どれほど時間をかけても覆る事のない事実で、真理だとさえ思っていた。
そんな状態で返事を引き延ばしても双方が辛いだけだろうと意を決して、細く息を吸ってエルヴィンを見上げる。その眼差しを見て、エルヴィンは刹那目を伏せ、そして目を逸らした。カナフの視線ひとつで、エルヴィンは察し、同時に泣きたいのか笑いたいのか分からなくなった。久しぶりにした告白のせいで昂ぶってはいたが、不思議と落ち着いていた。長い付き合いというのも厄介なものだ、と心中で呟きながら。

「エル、」
「返事は、調査から帰ってから聞こう」
「え、」

カナフの両肩に置いていた手を離し、遠ざかるようにデスクに向かい、椅子に座ってデスクに肘を乗せて祈るように顔の前で指を組む。カナフは状況について行けないのか瞠目してエルヴィンを見つめていた。

「……俺の事を気遣っているのか?今返事を、」
「いや、違うんだ。俺の為にそうしてくれ、頼む」
「?」

頼むとまで言われて、本当にカナフには良く分からなかった。どういうことなのだろう、とその表情が物語っている。

「返事の是非がどうであれ、何かあってもカナフからの返事を聞くために生き残ろうと、思えそうだからね」
「……わかった。じゃあ、その約束の為に俺も生き残らないとな」
「是非そうしてくれ」

エルヴィンのやや後ろ向きな台詞に、カナフは仕方ないなと眉根を寄せて微笑した。返事を先延ばしにしたわけではないという事は二人とも分かっていた。これで関係が終わりなわけでもないのに、最後までいつも通りでいてくれようとしていると思うと嬉しかった。エルヴィンの為か、カナフの為かはエルヴィン本人にしか分からないが、エルヴィンの態度にカナフは救われる思いだった。


俺、お前の事好きになれたら良かったのにな。


カナフはそう思いながら、同時にそれはエルヴィンに対して失礼だと目を閉じる。
自分の事を本当に気にかけてくれる人に後ろ足で泥をひっかけなければならないというのも辛いものだった。できるなら今日の事は無かった事にして、明日からいつも通り軽口を叩き合う関係でいられたらいいのにと思う。どれだけ願っても時間は戻ってくれやしない。絶対に実現不可能な事だからカナフは口を閉じる。そんな事を相手に求めていては覚悟を決めて想いを告げたエルヴィンが救われない。
報いては、あげられないのだからせめて。



***



エルヴィンの号令と共に幕を開けた、第57回壁外調査。
最前を駆けるエルヴィンのすぐ後ろにカナフは追従していた。時折、見えもしないのに背後を確認してリヴァイやエレンが見えないかと視線を巡らせる。
作戦の概要をカナフはエルヴィンから聞いていた。
都合よく流れた進路で目的である巨大樹の森に入り込み、陣を張る。
他にも何人も周囲に展開していて、それらを木の上から眺めるように視線を向ける。小さな話声が聞こえる範囲にはエルヴィンとカナフの二人しかいなかった。


「落ち着かないな、緊張でもしているのか」


手元を忙しなく動かしながらエルヴィンはカナフに水を向ける。
エルヴィンのセリフに、そういえば落ち着きなかったなと自分の状態を知らされて、まるで新兵のようだと苦笑した。

「いや、悪かった。いつもと勝手が違うからついな」
「君はこういう細工や工作は苦手だからな」
「それも悪くねぇけどな。最前線でぶっとばしてた方がずっといい」
「……実力も信じすぎると痛い目に合うという事を君本人から教わった」

ストレートな嫌味であり遠まわしな苦情でもあるそれに顔を顰めて、膝をついているエルヴィンを膝で軽く小突く。

「だからって、俺は前線じゃなきゃ活きねぇぞ」
「この作戦のキモじゃないか。伝令で文句が出るならまだ分かるが、メインに据えて文句が出るとは……団長というのも大変な職務だな」
「分かった!悪かった!」

カナフがヤケクソに謝罪するとエルヴィンは悪戯に笑ってカナフを見上げた。
変わらない笑顔に、励ます対象だと思っていたエルヴィンが拍子抜けするほどいつも通りで、エルヴィンに救われた心地がしてカナフも笑みを浮かべる。生死をかける戦場で軽口を叩けるという事に素直に感謝した。

「ていうかそもそも文句言ってねぇだろ、チクショウ」
「緊張、解れた顔してる」

立ち上がり優しい笑みで見下ろすエルヴィンは、ちょん、とカナフの頬を指先で突いた。
やられた、という表情を上らせてカナフは、こいつには敵わねぇな、と笑みを深めた。

「だんちょーのお心遣い、痛み入りますよ」
「それはよかった」

二人は顔を見合わせて笑みを深めた。大きな作戦の只中でありながら和やかな空気が流れる。その僅かな穏やかな空間に、今だけだと自身に言い聞かせながら享受したカナフは、先ほどとは違うリラックスした様子で周囲を見渡し、そしてネックレスの無くなった何もない胸元をぎゅ、と握りしめる。
できるだけ多くの兵士が無事でありますようにと願いを込めながら。



***



「おー、ぼーなすたいむー」
「ふざけてるのか!」
「ふざけてませーん」

捕獲に成功した女型の巨人が突如奇声を発し、それに誘発されたのか巨人が多数襲来した。
そんな逼迫した状況下で、エルヴィンはカナフに対して重いため息をついて頭を抱えた。これはカナフの癖のようなもので、戦闘のスイッチが入るとカナフはこうして間延びした話し方をして、目は獣のようにギラついて獲物しか見なくなる。
他の兵士のように不安や恐怖に駆られるよりはマシかもしれないが、と思いながらエルヴィンは次々と他の兵士に指示を出していく。

「迎え撃て!!」

好き勝手動くのだろうと思っていたが、他の兵士が動き出してなお、カナフは動かなかった。
それを怪訝に思っていると、巨人は向かっていった兵士には目もくれず走り抜ける。向かっていった先には、女型の巨人と、そしてリヴァイがいた。
リヴァイが目先の2体を驚異的な、しかしリヴァイにとっては普通のスピードで屠るその間に、リヴァイとほぼ同時に飛び出したカナフは足元を走る小さな巨人を倒し、女型の巨人のすぐそばの木にアンカーを射出して周囲を見渡す。
夥しい量の巨人だった。その量を見てカナフは即座にリヴァイの位置を確認する。

「全員戦闘開始!!女型の巨人を死守せよ!!」

エルヴィンの指示に一斉に巨人に向かっていく兵士達だったが、健闘むなしく女型の巨人は巨人によって貪りつくされる結果となった。
巨人の残骸だけが残る、気色の悪い現場で。カナフはその様子をじっと見下ろしながら、周囲の気配を探る様子を見せていた。恐怖や不安をまるで感じさせず、まるで見えない敵でも探すかのように周囲に視線を走らせ、リヴァイの位置を確認している。

「総員撤退!!」

やがてエルヴィンの号令とともに兵士が帰還する。
リヴァイはエルヴィンの命令でガスと刃を補充するためややその場に留まっていた。カナフはリヴァイを守るようにその場で変わらず周囲に視線を巡らせている。間延びしていた先ほどよりも獰猛さが抜けて人間らしさが戻っている。

「カナフ」
「はい」

エルヴィンが声を掛けるが、カナフはエルヴィンを見ずに周囲を警戒したまま声を発した。

「帰還する、来い」
「いえ、リヴァイ兵長がまだです」
「行け、もう終わる」
「だめです」
「リヴァイなら補給中でも巨人に襲われたって平気だって!」

ハンジが痺れを切らしたようにカナフに声を掛けるが、カナフは変わらず周囲を獣のように警戒していた。

「巨人なら、な」
「え?」

ぼそりと呟かれたセリフにハンジは聞き返すがカナフは繰り返すことはしなかった。
リヴァイは、下から遥か上の枝にぶら下がっているカナフを見上げると、それには気付いたのかリヴァイに視線を向ける。

「終わった。俺は行くぞカナフ」
「分か、りました。 俺も行きます」
「君は俺と一緒だ、カナフ」
「危険すぎます、兵長を一人で行かせるわけにはいきません」

平行線な様子の言い合いにリヴァイはため息をついてカナフに向き直った。
前日の一件は忘れる事にしたのか、無かった事にしたのか、リヴァイはカナフがよく分からなかった。自分の事はどうあってもエレンとくっつけて、そしてカナフ自身はリヴァイやエレンを守る、それさえ叶えばそれでいいと思っているようなその様子にリヴァイは辟易とした。
本当に身勝手な野郎だ。

「お前はエルヴィンと行け」
「しかし、」
「命令だ、怪我人」
「、……」

カナフは苦しげに顔を顰めて当初の勢いを削がれていた。
カナフは嫌な予感がしていた。今まで幾度となく壁外調査で死線を潜り抜けてきたのに、何か、嫌な予感がしてカナフはリヴァイを一人にしたくなかったし、リヴァイと合流するであろうエレンも一人にしたくなかった。エルヴィンの作戦ではエレンは餌だった。ということは、敵はエレンを狙っている。人類最強のリヴァイではなく、調査兵団長のエルヴィンではなく、巨人の子供を。
それなのに。

「お前は団長を守れ」
「、」
「できるな、カナフ?」

きつく握りしめた手のひらが爪で裂ける音がする。
分かりやすく遠ざけるリヴァイのセリフに納得なんてできるはずもなかったのに、自ら課した『新兵』という枷が今は邪魔をする。
命令を聞くか。でも。
勝手に動くか。しかし。
何を信じる。何を捨てる。何を守る。
そんなことがカナフの頭の中を巡るが、カナフは呼吸ひとつ分で伏せていた顔を上げ無理やり笑みを浮かべた。

「了解です」
「……おい、」
「時間がない、早く行くぞカナフ!」
「はい」

リヴァイから視線を逸らして背を向けるカナフのあっさりした引き際に不安を感じはしたが、さすがに病み上がりで無理はしないだろうと思い直し、リヴァイは班員と合流すべく駆け出した。

大人しくしてるって?
命を簡単に掛け金にする、あいつが、カナフが、本当に。

そう考えたら、ゾク、と。
何かが背中を這い上がったが気付かない振りをした。カナフは、一人にするんじゃなくエルヴィンに任せた。カナフもエルヴィンの目がある前で危険な事はしないはずだった。
そうやってリヴァイがカナフの事を頭の隅に何とか理屈付けて追いやり、班員を追う。
アンカーを巻き取る度に胸元で揺れる、返しそびれたカナフのネックレスがやけに重たかった。



***



「おい戻れ!戻れカナフ!」
「団長!団長、カナフが逸れて森の中に!」

ぐら、と一瞬眩暈を覚えて首を後屈させたエルヴィンは、頭を片手で覆いながら、顔を顰めて正面を見据える。
お前はそういうやつだよな、と重苦しい溜息を無意識につきながら、エルヴィンは声を張り上げる。

「構うな!前進するぞ!」
「ええ!?は、はい!」
「ちょ、エルヴィン!? カナフ置いてくの!?」

ハンジの珍しく焦った様子にエルヴィンは力なく笑って見せた。
哀しいのと怖いのと嫉妬と切なさで心臓が壊れそうだと思いながらエルヴィンは、それでもたった一人の為に他の兵士たちを犠牲にするわけにいかないと後ろは振り向かなかった。エルヴィンの団長としての判断は正しかった。一人の為に何人もの兵士を無駄死にさせるわけにはいかない。しかし。いつかの壁外調査で自分達の目の前で、巨人に喰われたカナフの姿がふと過ぎって胃液が込み上げそうになる。失うかもしれない。今度こそ、本当に。
それにエルヴィンは、カナフがこうするだろうという事をどこかで分かっていた。
敵わない。
エルヴィンは目を閉じて、すぐに正面を見据える。

「……カナフがそうしたいと選んだ事だ」
「い、いやそうだけど!いいの!?エルヴィンはそれでいいの!?」

良くないに決まっている。
エルヴィンだってカナフがそうしたように想い人を心の底から追いかけたかった。誰にも渡したくなかったし、自分だけを見ていてほしいと何度も願っていた。けどそんな願いが叶わない事なんて、分かりきっていた事だった。今にして思えば、最初から。
負けたなと理性は主張して、戻ってくれと感情が絶叫する。失いたくないと願ったのは、自分の傍にいてくれるカナフであり、そしてカナフ自身の命だった。
どちらかを、捨てなければならない。他でもない自分で言った事だった。
自分の傍にいてくれるカナフか、カナフ自身の命だったら断然カナフ自身の命を選ぶ。生きているというだけでどれほど幸福な事かはエルヴィンはカナフ本人から教わっていた。そこにいて、くれるだけでいいんだ。
心の底からそう思えない事を自覚していながら、それ以上の事を望んでしまいそうになりながらエルヴィンは自身にそう言い聞かせる。
諦めの笑みを浮かべてエルヴィンは前方を見据えて手綱を握り締める。

「カナフなら大丈夫だろう。リヴァイとすぐ合流するだろうから、その方が生存率は上がる。私たちは私たちの事を心配すべきだ」

ハンジは口を閉じたが何かを言いたそうにしていた事は間違いなかった。
心を裂いてくれた事に申し訳ないとは思う。しかし、自分も傷心の身で他者を気遣える余裕はなかった。カナフの様にはできない。自分が傷だらけでいても他者を包み込もうとするその懐の深さは、真似しようとしてもできる事ではなかった。


失恋とは、身を裂かれるような心地がするのものなのだな。


そう思いながらエルヴィンは、振り向かずに突っ走って行ったカナフの背中を思い出す。
調査兵団のシンボルである左右で色の違う両翼。いつだったか、リヴァイとカナフの二人を指してそう呼ばれているのを耳にしたことがあった。
調査兵団の、両翼。
まるで本当に翼がついているかのように自由に飛び回るカナフの背を思い浮かべて、そしてリヴァイを思い浮かべる。
押さえつけるなんて、拘束なんて、できるはずもなかったんだ。







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2015/11/08 gauge.


SK

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