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新兵は休暇を与えられていた。
実際には休暇ではなく、掃除などの雑事に費やされる予定にはなっていたが、訓練がないというだけで休暇のように気分がだらける者も少なくなかった。分隊長も兵長も、団長さえも城内にはいなかったのでそうなってしまうのも仕方がない。カナフは裏庭の掃除を割り当てられていたが、他の訓練兵仲間も城内外問わず各所の掃除をしている頃だったが、エレンだけはここにはいなかった。
エルヴィンから聞いた話では、今日はエレンの巨人に関する実験があるそうだ。エレンも大変だなと思い、何かあれば駆けつけたいと思うのだが、合わせる顔がないと力なく首を振る。亡霊が目立ち過ぎたのだと歯噛みしながら。


「おい、大変だ!エレンが暴れてる!」


ジャンが息を切らせながらカナフへ事の次第を伝えた。振動や咆哮などが聞こえるのは巨人の実験だからと思っていたカナフだったが、ジャンの血相を見て持っていたほうきを放り出して駆け出した。去り際に「お前たちは離れていろ」と声を掛けるのを忘れずに、カナフは胸がざわつくのを感じていた。

駆けつけると、15M級の巨人になったエレンが、足の腱を切られ身動きを封じられているところだった。
暴れるように腕を振るい、リヴァイの接近を阻止しながら咆哮を上げる。その姿はまさに人々から恐れられる巨人そのものだった。知らなければエレンだと誰が気付けただろう。


「エレン!」

「近づくな!」


不用意に近づこうとしたカナフを制したのはリヴァイだった。
その声にハッと足を止めて見上げると険しい顔をしたリヴァイが眼差し鋭くカナフを見つめていた。
実験に参加していなかったカナフは丸腰で、何も持ってはいなかったのだ。そんな状態で何ができる、とリヴァイの視線は物語っていた。

「カナフ」
「……ミカサ、アルミン……エレンはどうしたんだ」
「分からない」
「それが……4度目の巨人化で、意識が伴わずに暴走してるみたいんなんだ。3度目の時も少しおかしかったんだけど、4度目でついに。制止しても呼びかけても、叫んでも何の反応も無くて、今リヴァイ兵長が止めようとしてくれているんだけど暴れて手におえないんだ。下手に攻撃もできないし、ハンジ分隊長の薬を飲んだせいか、体が異様に発熱してて、簡単に近づけなくなって、もうどうしたらいいのか……」

嫌な緊張感が包んでいる。エレンから発せられる異常な熱気と、どうしようもない状況に。
小さな音なんて聞こえない状況にも関わらず、誰かの息を呑み込む音が聞こえた気がしていた。


「もう、殺すしか……」


全員がそう思っていて口に出せなかった事を、グンタが口にした。
その判断は悲しいかな正しかった。目の前の巨人は人を食おうとはしないとはいえ、今牙をむいていることに変わりはない。

「引きずりだせねぇのか」
「無理です!格闘術も駆使されたんじゃ、近づくのも容易じゃありません!」
「殺すしか……!」
「そんな!!」

先輩兵士たちの言葉に、アルミンは声を上げ、ミカサは静かに殺気をまき散らした。
ミカサの頭をぽんぽん撫でて落ち着かせてから、カナフは数歩前に出て地上に降り立ち様子を伺っていたリヴァイに声を掛ける。

「意識に訴えかけてみましょう。殺すのは、それからでいい」
「それでお前が死んだらどうする」
「その時はその時です。離れててください」
「おい、なんの装備もなしで行かせられるか。下がってろ」
「下がりません」
「おい!戻れ!」

リヴァイの静止を振り切ってカナフは、地面に膝をついて立ち上がる事の出来ないエレンの膝から飛び乗って肩に立つ。
エレンの髪を掴んで体制を整えた。

「エレン!おい、しっかりしろ!」
「ガアアアア!!!」

人間が近づいた事に激高したかのようにエレンは咆哮した。
それと同時に熱量も爆発的に上がり、カナフの皮膚をじりじりと焼く。息を吸う度に熱気が喉を焼くほどの熱が通り咳き込んだ。目もまともにあけていられない。

「お前!巨人を駆逐するんだろ!このままじゃお前が駆逐されるぞ!」
「ガアア!オアア!」
「外の世界見るんじゃねぇのか!アルミンと、ミカサと、……兵長と!」
「グ、ガアアア!!」
「!」

腕を振り回してカナフを振り落とそうとするも、カナフはエレンの髪を掴んで必死に耐えていた。
エレンは手のひらを広げてカナフを握りつぶそうとするが、左右の肩の上を器用に移動してその攻撃を避け、機を伺っていた。

「このままじゃカナフが、……カナフさんが危険です!止めさせましょう兵長!」
「、」

ペトラがカナフの呼び方を変えたのを瞠目して見つめる。
一体誰の事を言っているんだ。リヴァイの瞳はそう物語っていたが、ペトラに問い質す前にエルドがカナフに向かって声を張り上げた。

「カナフ!もう無理だ!諦めろ!」
「いえ、まだです!」

エレンの肩に乗ったままエルドに向かって叫ぶカナフはすぐにエレンに向き直る。
兵長と言うとほんの僅かに反応を見せたのをカナフは見逃さなかった。これを言ったらエレンは嫌がるかもしれない。ばれたくなかったと怒るかもしれない。しかし、意識に訴えかける今、これ以上の物はない気がしてカナフは恨まれることを覚悟して口を開いた。

「お前!憧れの兵長と付き合えた時めちゃくちゃ喜んでたよな!ずっと一緒にいたいって言ってたじゃねぇか!」
「グウ、グアア、」
「反応が……」

兵長、と声を出すとエレンは顕著に反応を返した。思った通りだとカナフは僅かな可能性に身を引き締める。
エレンは頭を抱えるような仕草さえ見せて、腱を着られ膝をついたままの状態なのも手伝い本当に苦しんでいるようだった。好機とばかりにカナフは髪を掴んでエレンの目の前に半分ぶら下がりながら頬に足をついて、エレンに接近する。鼻筋に置いた手のひらがジリと焦げる感触がした。


「大好きな兵長に、お前を殺させるつもりか!大好きな兵長に守られたまんまで、そんなんでいいのか!お前が兵長を守るんじゃねぇのか!そんなやつに、……そんなやつにリヴァイを任せたつもりはねぇぞエレン!」

「……!?」

「グウウ……グアアアア!!!」


地面に頭を付けるほど折れ曲がって震えながら苦しむ素振りを見せたエレンは、苦しみを振り払うように腕を振り回して天空に向かい咆哮した。
突然の暴動にカナフは避ける事さえできずにまともにエレンの腕に弾き飛ばされ、そのままの勢いで城壁に激突した。
衝撃で頭を酷く打ち付けたカナフは即座に気を失い、ずり、と重力に従ってずり落ちると、その軌跡に沿って衝撃にひび割れた城壁に血の跡がつく。
エレンは一際叫んだあと、ぷつりと糸が切れたみたいに膝をついて俯せに倒れ込み、少し間を置いてうなじから大量の煙とともにエレンが顔を出した。


「俺が、……まも、る、んだ……」


エレンはうわごとのように呟いた。半ば無意識のうちに発せられた声はあまり大きくはなかったが、その場にいた全員が耳にすることができたほど、その場は静まり返っていた。上半身だけ体を出して気絶するエレンをすぐに巨人から引きずり出したリヴァイは、エレンを抱きとめながらカナフに視線を走らせた。どれほど強く頭を打ち付けたらあんなに血が出るのかと、その衝撃を思い出して舌打ちする。当たり所が悪ければ死ぬ衝撃だ。誰もが状況にのまれてその場に縫い付けられたように動けなくなっていて、カナフを目に留めている者もいたのに動く事さえできない様子だった。リヴァイは自身が飛び出したいのをぐっと堪えて声を張り上げる。

「チッ……おい、カナフを救護室に、急げ!」
「は、はい!」
「、……あれは、」

地面に落ちた、光を浴びて輝く何かを目に留め、リヴァイは目を細めた。



***



「容体はどうだ」
「目を、覚まさないんです」
「医師が言うには、生きてるのは奇跡だと。しばらくは絶対安静って言ってました」
「そうか」

小さな部屋の、小さなベッドにカナフは横たわっていた。頭を白い分厚いガーゼが大きく覆い包帯がぐるりと巻かれていて、血で赤く滲んでいる。あれだけの出血のせいか顔は青白く、今が夜だという事を差し引いても顔色は悪かった。
頭部の皮膚の裂傷、頭蓋骨の骨折、脳震盪、咽頭と気道に軽度の火傷、顔の一部と手のひらの火傷。これがカナフの病状だった。カナフの青白い包帯とガーゼだらけの顔を見て、リヴァイはしばらくは目を覚まさないだろうと思った。そして、しばらく、で済めばいいがとも思っていた。それほどの怪我だというのは素人目に見てもよく分かる。
部屋にいた蒼い顔をしているペトラとエルドに「俺が見るから下がっていいぞ」、言いかけてリヴァイは口を閉じた。監視役としても恋人としてもエレンの方についているべきだった。エレンの事を第一に。リヴァイにそう言ったのはカナフだった。もしカナフが起きていたなら絶対そう苦言を呈しただろうと思うと、リヴァイは心中で苦笑する。

「エレンはどうですか?」
「……カナフと違って顔色も悪くねぇ。エレンはそのうち目を覚ますだろうな」
「良かった」

ほっと胸を撫で下ろすペトラとエルドに、カナフの事を頼んでリヴァイは部屋を後にした。
エレンの部屋は巨人の対策で地下室だ。ランプを手に持ち暗く湿った空気の中階段を下りる。
カナフに聞きたいことはいくつかあった。場合によっては詰問になってしまうかもしれないが、と思いながら、ポケットの中存在を主張する物から意識を引きはがす。

地下室の檻の中。
エレンの外傷はリヴァイが削ぎ落とした足の腱だけで、そこは布団で見えなくなっているので遠巻きに見ればただ眠っているだけに見える。血を流したわけでもないので顔色も普通だった。ただ、異質な顔の傷。傷、と称していいのかは分からないが。
巨人になるにはリスクがある、と考えるべきなのだろうか。全くのノーリスクだと思っていたわけではないが、それでもその力は有限なのかと思うと軽々しく実験もさせない方がいいのかもしれないな、と兵士長としてか恋人としてなのか、自身でも判断がつかない事を考えていた。




翌日、エレンは目を覚ました。
巨人化の実験に参加したことは覚えているが、その後の事は覚えていないという。自分が何度巨人化したのか、誰と何を話したのか、実験内容、そういう情報をすっかりきれいに忘れていた。ぼんやりした顔を徐々に不安と恐怖に飲み込まれていくエレンを落ち着かせながら事の次第を伝える。実験内容と、そして暴走時の状況を。
それを聞いてエレンは「みんなの前で告白したってことですか!?」と顔を青くしたり赤くしたりと忙しい様子で、リヴァイも平常時なら頬を緩めるくらいはしたかも知れない。エレンの後頭部をぽすぽす撫でで落ち着かせながら、リヴァイはエレンに尋ねようか迷っていた。

「あ、じゃあ!カナフは!? カナフはどうしたんですか!?」
「……カナフならまだ寝てる。お前よりも重症だからな、しばらくはまだ目を覚まさないだろうよ」
「そんな……!俺の、俺のせいでっ」

両手で頭を抱えて震えるエレンに、どうしていいか分からないままリヴァイはエレンを撫で続けた。思えば、ここまで素直で直情型と一緒にいたことがないな、とリヴァイはこれまでの人付き合いを思い出していた。

「お前が後悔したところでカナフが目を覚ますわけじゃねぇ。無かった事になんてならねぇし、それでカナフが喜ぶとも思えねぇ。後悔するくらいならカナフの分までしっかり食って回復する事だけ考えろ」
「う、……は、はい」
「飲めるか?」
「……ありがとうございます」

リヴァイは言いながら用意した紅茶をそっとエレンに差し出した。
暗く湿気を多く含んだ澱んだ空気が、それだけで浄化されたような気さえしながら、カップを受っとって息を吹きかける。
『火傷すんなよ』
不意に思い起こされる声。

「あ……」
「なんだ」

思い出して、そしてどうして思い出してしまったのだろうとエレンは悲しくなった。申し訳なくなったのかもしれない。
体の芯を捩じられたような気分を味わいながら、エレンはカップを両手で包み込み、その暖かさで冷え切った体を温めた。

「……、地下室で寝る事になって、みんなと別れてたった一人で、ランプもって、部屋……つーか檻の中入って。気温なんて大して変わらないのにやけに寒く感じて。……そんな時、カナフが紅茶を持って、ここにきてくれたんです。毎日、毎日。俺が寝るまで、ずっと」
「……」
「もう大丈夫だから、恥ずかしいから来んなって言うまで、1週間くらいずっと。酷い事言ったのにカナフは『はいはい』って、仕方ねぇなって感じで笑って。嬉しかったのに。そんな風にしか言えなくて」

堪らない、とリヴァイは思った。
まるで故人の思い出話じゃないか。思い出語りなんて聞いていられなくて今すぐ辞めさせたくて、リヴァイはエレンの後頭部を引き寄せてキスをした。固まったまま動かないエレンをいいことにリヴァイはエレンの唇を食み、間近でエレンの瞳を見上げながら距離を開けた。

「へ、へいちょ……」
「ふざけんな、カナフはまだ死んでねぇよ」
「そんなつもりじゃ……」
「そうか?あのまま聞いてたら、最後には『いいやつだった』とでも続きそうだったじゃねぇか」

その通りかもしれないとエレンは俯いた。
俯いたところ目に留まった、少し冷めた紅茶を口に含む。甘やかな渋みと香りが体に染みた。水面に自分が写るが鮮明ではなかったのでどんな顔をしているかまでは分からなかった。ずっと一緒にありたいと思った人と、今一緒にいてこれからも一緒にいられる。兄のように慕っていた人から大切な人をそれと気づかずに何でもないさり気なさで奪って一緒にいる。その幸せに感謝した。

「俺、カナフに言いたいこといっぱいあります」
「そうか、じゃあ目が覚めたら言ってやれ」
「はい」

このままでなんていられない。
エレンは顔を上げてここにはいないカナフの事を思っていた。




***




翌日、カナフの部屋を訪れたエレンは、ちょうど部屋から出てきたペトラやエルドとすれ違う形で部屋で二人きりになった。
交代までの間の事を頼まれながら、その実何もすることがないただの見張り役でしかなかったが、エレンは好都合だと思っていた。
柔らかい光の中、僅かに開いた窓から流れる風がカナフの髪をやんわりと撫でていく。光が透けて半透明のように光っていた。これで顔色が最悪でさえなければもっときれいであっただろうとさえ思う。
一歩、一歩と踏みしめるように近づいて、カナフのすぐそばに膝をついてベッドに両肘を乗せて身を乗り出すようにカナフを見つめた。細い呼吸を繰り返すカナフを初めて見たエレンは、時間も忘れてしばしカナフに見入っていた。
やがてごそごそとカナフの手を布団から引き出して両手で優しく握りしめる。布団の中に入っていたはずなのに驚くほど冷たかった。

「カナフ、ごめん……」

静かに眠るカナフは当然のように何も反応を返さない。手を握りしめても握り返してさえくれない。優しい体温をこの手から伝えてもくれない。全てが初めてのことで、そのどれもが悲しかった。

「謝ってんだろ……俺が謝ってんだから、俺が、初めてお前に謝ってんだからさあッ……なんか言ってくれよ……!」
「……」
「頼むから、早く起きてくれよ……」

祈るようにカナフの手を握り締め顔を伏せる。
風に揺れるカーテンと、遠巻きに聞こえる仲間たちの小さな声。
その中にカナフの声は、ない。



***



「リ、リヴァイ大丈夫?」
「ああ」

エルヴィンの執務室で集まっていたエルヴィンとハンジとリヴァイだったが、リヴァイの明らかに可笑しい様子に、さすがにハンジが声を掛ける。面白がる事さえできない。リヴァイは目にクマをつくり、顔は青白く、今にも倒れてしまいそうなほど生気さえ弱弱しかった。
エレンはもう元気なのに、と思うと芋づる式にカナフの事を思い出し、気遣わしげに頬を掻いた。

「カナフ、まだ?」
「ああ」
「まさかずっと付きっ切りで寝てないなんてことないよね?」
「……」
「リヴァイ?」
「……そんなわけねぇだろ」

うわ、と思わずハンジは声を出して天を仰ぐ。
ハンジがエルヴィンに視線を向けるとエルヴィンは顔を険しくして目を瞑る。エルヴィンは仕事にかかりきりで、夜までの仕事の合間に少しだけしかカナフに会いに行くことが出来ていなかった。本来なら誰よりも真っ先に行きたかったエルヴィンだが、調査兵団の今後をないがしろにするわけにもいかず叶わなかった。目が覚めたカナフに苦言を呈されるわけにもいかないと自信を奮い立たせていたが、リヴァイが付きっ切りと聞いてしまうといい気はしなかった。

「……リヴァイ、自分の体の事も少しは考えろ」
「問題ねえ」
「今巨人が来たら戦えるのか?普段通りに、本当に?」
「……、」

顔を顰めてリヴァイは俯いた。満足に戦える状態にないことは自身が一番よく分かっていたからだ。
しかし。
カナフを忘れられるはずがない、その事もエルヴィンは骨身に染みて分かっていた。

「リヴァイ、君はもう休め」
「ああ?」
「せめて仮眠を取れ。何が起こっても大丈夫なように体のコンディションを整えろ」
「……チッ、了解だ、エルヴィン」

ややふらつきながらリヴァイは部屋を出て行った。
せめて仮眠をと言ったのはあと数時間で本部で会議があったからだ。必要とあればリヴァイは欠席させるつもりでいたが、それをリヴァイは良しとしないだろうと思っていた。

「……、ベルネットじゃないカナフが目を覚まさないだけで、あんなになるなんてなあ。エレンと一緒になってもやっぱり、忘れる、なんてできないか」
「……そんなに簡単ではないだろうな。クライバーが現れなければ、こうはならなかったかもしれないが」
「似てる、もんなあ、彼」

ハンジの似てるという言葉にエルヴィンは目を伏せる。
事情を知っているエルヴィンは、似ているだけならここまでではなかっただろうと妙な確信を抱いていた。外側が違うだけの同じ人物なのだから、リヴァイがこうなってしまうのも仕方がなかった。
そして、やはり分かるものなのだなとエルヴィンは傷ついた表情で苦笑する。入り込む余地はあると思っていたのに、二人の絆を考えると踏み出す前に尻込みしてしまう。勝てない、と思ってしまう。
弱気になりそうな自分にエルヴィンは一度深呼吸して抑え込んだ。

「ハンジ、済まないがエレンの様子を見に行ってくれないか。医者よりも君の方が専門だろう」
「ああ、うんオッケー!任せといて!」

コツコツと遠ざかる靴音を聞く。
一人になったところで気持ちの整理がつくわけじゃないと知りながら、ハンジを適当な理由を付けて部屋から追い出した。
自嘲するように息を漏らして天を仰ぎ、両腕を交差するように眼を覆う。


「カナフ、遠いよ、君が」




***



数日経った。
何時間経っても、何日経ってもカナフは目を覚まさない。
リヴァイが憔悴していくことは周囲が気遣って止めるおかげで収まったが、回復したわけではなかった。憔悴したまま現状維持で、そしてそれは次第に周囲にも波及していた。ペトラやオルオ、エルドにグンタ。新兵達はリヴァイとの関係は浅いが、カナフの事はそれぞれ慕っていたので全体の士気も下がっている。
暗く淀んだ空気が城全体を覆っているような気さえする、息苦しさを感じるほどの冷えた空気に、以前も重苦しい空気だと思っていたのにここまでじゃなかったのかと気付かされもした。あの頃はまだ活気があった。今は見る影もない。

部屋で眠るカナフのすぐそばの椅子に腰掛けるエレンは、じっとカナフを見つめていた。
今の当番はエレンで、ここにはエレンしかいなかった。ミカサが一緒に、と言ってくれていたのを断ってエレンは一人でこの部屋にいる。一人で良かったのだ。カナフと二人でいたかった。
赤く染まったガーゼはもう取り去られ、包帯だけになり、怪我も徐々に薄くはなってはいたが、顔色は未だに戻らない。熱の弱いその頬を指先で一撫でする。寝ているはずなのに寝息さえ聞こえなくて、以前は恐怖に駆られて口元に手をかざして呼吸を確かめたり、胸元に耳を押し当てて脈拍を確かめたこともあった。
生きてる。
その事実に安堵しながら、目を覚まさない事に恐怖して。

「カナフ、さっさと起きろよ。兵長、お前に文句言えねぇから酷ぇ顔してるぞ」
「……」
「……はは、そりゃ、俺もか」
「……」

痛いほどの沈黙に包まれる。音の発生源はエレンだけだった。

「寝たまんまだから、お前の目の色とか忘れそうだよ……」

瞼にそっと指先を滑らせる。
痩せた弾力の無くなった瞼の皮膚が、指先に沿って流れたのに、眼球も動かなければ睫毛も震えない。

「お前が起きねぇからかな、みんな元気ねぇんだ」
「……」
「お前、やっぱりすげぇな。お前がいないと、俺もどう笑っていいのか分かんねぇんだもん」
「……」
「……兵長の事、抱きしめたいのにお前の顔ばっか浮かぶんだ。兵長も一瞬気まずそうな顔するし。八つ当たりだけどさ、そういうの考えたらお前の事殴りてぇって思ったよ。でも、お前が起きたら、やっぱり俺泣いちゃうかな、なあどう思う?」
「……」
「……、反応、ナシ。はは、当然か」

椅子に座ったまま、ぽすりとベットに上体を倒して俯せる。
布団は冷たかった。

「兵長、ベルネットの方忘れらんねーってよ……言わねぇけど、分かるんだ。キスだって、しようとすると一瞬だけど躊躇うんだぜ、もう、どうしようもねぇよな」
「……」
「好きなだけじゃ、上手くいかねぇんだな。俺、兵長しか見てねぇのに、全然届かねぇよ」
「……」

上体はベッドに伏せたまま、自分の手のひらをじっと見つめ、軽く結んで、開く。
その手に触れた数々の熱を思い出していた。
両親の手や幼馴染たち、同期や、カナフ、そしてリヴァイ。この手を素通りしていくだけのような不安を感じながら、ため息を零さずにはいられなかった。

「……エレンか」
「兵長」

ガチャリ、とドアが開いてリヴァイが入ってきた。
エレンは上体を起こして兵長を見るが、リヴァイの顔は変わらず悪くて僅かに顔を顰める。

「カナフは変わらずか?」
「はい」
「そうか」
「……」

席を譲ろうとエレンが椅子から立ち上がろうとすると、リヴァイはエレンの肩をそっと抑えてその場に留まらせた。
そのままでいい、という事だ。恐らく長居するつもりがないのだろう。
そのまま、誰も何も言わずに沈黙に包まれる。リヴァイが今何を考えているのか考えるだけで、エレンは胸の内が燻るようだった。
やがて、どれ程時間が経ったのか麻痺したころ、リヴァイはぽつりと口を開いた。


「カナフに聞きたいことあんのに、目覚まさないから聞くこともできねぇな」


ここ来てからずっとカナフの事考えてたんですか。エレンが思った事はそれだった。
寂しそうな響きのこもる、リヴァイの呟きを聞いたエレンは、内側から込み上げる何かに耐えられなかった。以前月の出る夜に目撃したカナフにキスをするリヴァイを思い出す。苦しいだろう。悲しいだろう。考えるだけで堪らない気持ちになった。リヴァイはたった一人耐えてきた。エレンと一緒になってからもたった一人で。エレンにぶつけることも分け与えることもしなかった。それは未だカナフに囚われている事を示している。
このまま目を覚まさないなんて、そんな馬鹿な事があるか。みんな待ってるのに。一度奇跡を起こしたならもう一度起こして目を覚ませばいい。
リヴァイはカナフに聞きたい事があると言った。聞きたいのはきっと、カナフ自身の事だろうとエレンは思っていた。カナフの事を疑っているのはリヴァイだけじゃない事をエレンは知っている。ペトラをはじめ、エルドとオルオもカナフを目で追い2人で囁いているのを聞いた事があった。リヴァイが心を奪われている人は目の前にいる。それをエレンは知っているのにリヴァイは知らないその事実がまたエレンを堪らない気持ちにさせていた。

兵長が、待ってるんだ。
俺だって言いたいこと、あるんだ。
お前が起きなきゃ何も始まらないし何も終わらないのに、いつまで寝てんだよ!

ガタンと立ち上がりながら布団を乱暴にめくり、現れた胸倉を両手で掴み、ベッドに沈めるように押し付けた。


「エレン!」
「あんた何やってんだよ!兵長守って死ぬんじゃ無かったのか!お前が目覚まさないと!…ごめんも、ありがとうも!何も伝えられないだろ!」
「エレンやめろ!」
「頼むよ目覚ませよ!兵長が待ってるだろ!兵長には!あんたじゃないと!…カナフ・ベルネットじゃないとだめなんだよ!」
「……!?」

エレンを止めようと肩を掴んでいたリヴァイは、エレンの叫びに思考を全て奪われた。
エレンは今何て言ったのだ。
ああそうか、あいつに似てるからか、だから、エレンは。
リヴァイはそう脳内で変換しながら、力の抜けてしまっていた手に再び力を籠めようと、した。


「そんなに大声出さなくても聞こえてる」


カナフが、小さく笑いながら枯れた声を発した。
その声はエレンとリヴァイの胸のひび割れた個所に染みて、元通り治るような心地を味わう。
ゆっくりと目を開けたカナフは、目の前にいた今にも泣きだしそうなエレンの頭をなまってしまった腕で撫でる。
ぽたり、とカナフの頬に雫が落ちた。

「カナフ…!!」
「なんだ、言っちゃったのかエレン……言うなって言ったのに、悪い子だな」
「お、まえが、お前が、起きないから……」
「ああ、悪かった」

エレンの涙を指先でなぞり、泣いて上気する頬を撫でる。
その手にエレンは自身の手を重ねて握りしめる。やっぱり泣いてしまった、と思いながら。
その様子を凝視しながらリヴァイは、じり、と一歩後ずさる。
靴底が床をする音に気付いたカナフはス、とリヴァイに視線を移し、微笑した。

「リ、……兵長、ご心配おかけしました」
「な、」

まだ隠そうとするカナフにエレンは咎めるように声を発した。
リヴァイはカナフを瞠目しながら見つめ、傾いだ心を呼吸ひとつ分間を置いてから一瞬で立て直す。

「カナフ、良く生きてたな。お前のおかげでエレンは無事だ」
「はい、良かった」
「お前に聞きたいことがある」
「はい」

ぐぐ、と体を起こそうとするカナフに「まだ寝てろって」と肩を押そうとするエレンを制して起き上がる。
カナフはずっと寝ていたせいかすっきりした憑き物の取れたような笑みを浮かべていた。

「これはお前のものだろう」
「それは……」

チャリ、とポケットから取り出したものをカナフに向かってぶら下げると、カナフは瞠目したのち俯いて自身の胸元を探り、何もないことに気付くと周囲に視線を走らせる。リヴァイが持っているのが自分のものなのだと気付くと、カナフは諦めたように俯いたまま笑みを刻んだ。
それを見られてしまっては、言い逃れはもう無理だと悟ったのだ。
リヴァイから贈られたこの世に一つのものだった。裏にはリヴァイが彫った刻印まである、カナフ・ベルネット以外が持つはずのないものだ。
リヴァイの落ち着きから考えるときっと随分前からバレていた。カナフはそう考えて苦笑する。言わずに知れる空気感が二人の深い関係性を示していた。

「……いつから気付いてた?」
「……確信したのはこれを拾った時だが、疑い始めたのは訓練中巨人に襲われた時、お前がわざわざ俺のところに来た時だ」
「ええ、最初じゃねぇか」
「俺が、お前に気付かないわけねぇだろ……戦い方だってまるっきり同じで、あんなんで騙せると思う方がありえねえ」
「酷ぇ」

俯いて、震える声で告げるリヴァイに、カナフは立ち上がりかけて、やめた。
今リヴァイを支えるのは自分じゃない。

「なんで黙ってた」
「……できるなら隠しておきたかった」
「……? どういう事だ」
「俺の今の名前はカナフ・クライバー。けど以前は、違う名前だった。……その時は、」
「カナフ・ベルネット」

先回りして名前を呼んだリヴァイに頷いて、カナフは再び目を伏せて言葉を発する。

「俺には大切なヤツがいたから……そいつは俺の事を覚えてなくても、俺の事を忘れていたとしても、俺だと分かってもらえなくても、傍にいたかった」
「……大切な、ヤツ、って」
「お前だよ、リヴァイ」

リヴァイの息をつめた音。
それを俯いたまま聞いたカナフは申し訳なさそうに顔を歪めた。


「……黙っててごめん。……あの時、勝手に死んで、……お前を一人にして、悪かった」


ガン、とぶつかる音がして視線を向けると、リヴァイが背後の扉によろけて背をぶつけた音だった。
足の力が抜けたのかもしれないその様子に、リヴァイの表情は驚愕した後に泣きそうに歪んで瞳にはみるみる涙が溢れていく。誰一人動かなかった。カナフはリヴァイを抱きしめたかったかもしれない。リヴァイは、カナフを抱きしめたかったかもしれない。エレンはリヴァイを支えたかったかもしれない。しかし誰一人その場から動くことが出来なかった。

「こんな、……奇跡ってあるかよ……!」
「……リヴァイ、聞いてくれ。……俺はまた、多分お前より先に死ぬ。だから、……俺の事は忘れてくれ、頼む」
「な、何を……」
「俺のせいでまた悲しませたくねぇんだ。名前は一緒だけど……顔も声も違うんだから、簡単だろ?」
「んなことできるわけねぇだろ!」

ガン、と怒りにまかせたリヴァイの拳は背後の壁に受け止められヒビが入る。
酷いことを言っている。今までとは違う、今度はちゃんと自分として、カナフは自身が酷い事を言っていると胸を軋ませた。バレてしまえば別人と思い込むのは格段に難しくなる。だからできるだけリヴァイにだけはばれたくなかったのだ。カナフの事は忘れて幸せになってほしかった。その願いはもう叶わない事を思い知りながら、リヴァイの怒りと悲しみに濡れる目を見つめた。

「最前線で戦うお前を守ることができるのは、今はまだ俺だけだ。だからきっと、今回も俺は、」
「また俺がお前に助けられるようなヘマやらかすとでも思ってんのか」
「……絶対はない。そんなことはないなんて言いきれない」
「それは、……」
「俺はお前の知ってるカナフじゃない。……俺の事は、忘れてくれ」

それ以上、誰も何も言わなかった。
傷ついた表情でカナフを見つめるリヴァイを静かに見つめるエレンは、ついに俯いて目を閉じた。
忘れられない。忘れられるはずが、なかった。
自分と一緒にいる事を選んでくれたリヴァイなのに、どんどん届かなくなる。ずっと一緒にいたかった。傍にいさせてほしかった。嫌わないで。一人にしないで。
ここにはいたくないと思うのに、見届けなければいけない気がして一歩も動けずにいるエレンは、泣かないよう努めながら二人の会話に集中した。

「俺の事は忘れて、……あなたはエレンを、大事にしてやってください。俺の大事な弟ですから」
「!」

ベルネットを捨て、クライバーに戻ったカナフはそう言って笑みを深め、エレンに視線を向ける。
なぜかギクリとしてしまいながら、エレンは瞠目してカナフを見つめた。
リヴァイを傷つけるなよと怒りを覚えるのに弟と言ってくれたそれがとても嬉しく感じてしまった。

「エレン、早く兵長をお守りできるくらい、強くなってくれよ?俺の手がいらないくらいな」
「あ、……あたり、前だろ……」

カナフのその言葉に、エレンはあの日のカナフの言葉は本心であったのだと知った。嘘を言うようなやつではなかったけど、本当にそうなのだと実感していた。エレンも、リヴァイも大切に思ってる、と、そう。
でも、じゃあ。

カナフは?


リヴァイはカナフの口からエレンの名前を聞いて、今はエレンと付き合っているのだという事にハッとした。
気まずい感覚を抱きながら恐る恐るエレンに目を向けると、エレンは泣きそうな顔のまま俯いて何かに必死に耐えている。拳はがちがちに握りしめられ、体は良く見ると小刻みに震えている。

その姿を見たら。
守ってやりたい、と。

その危うさから抱いた本心を思い出して、リヴァイはエレンに歩を進めてその腕の中に閉じ込めた。


「へ……へ、ちょ……?」
「悪い……悪かった。お前を一人にした」
「う……兵、長ぉ!」


間違えたんだろうか。どこかで、何かを間違えたんだろうか。
寄り添える相手が欲しかった。その願いがこんなにも罪深い結果を招くのなら、幸せとは、愛とはなんだ。
もう、ベルネットがいた時には戻れない。
エレンが傷つく前には戻れない。
リヴァイが泣く前には戻れない。

そしてもう、カナフの存在は消せない。


抱き合うエレンとリヴァイを優しげな眼差しで見つめるカナフは、自分が守るのは二人と、この空気なのだと覚悟を再確認した。
再確認、して。


胸の軋みを笑みで無理やり押し殺した。




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2015/10/25 gauge.


SK

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