「ほら、おいで。」



 邦枝葵はいつだって望んでいる。彼から、名前を呼ばれることを。そして、ほほ笑んでもらえることを。だが、それはかなわない。なぜなら、葵の思うひとはほかの誰よりも疎い。
 それでも、言わなきゃならない。そう強く思う日がやってきた。その日は桜の木から心臓みたいに、涙のような桜の花びらが悲しいほど散ってゆく。はらはらと舞い落ちる桜を見て、葵は毎日心を震わせている。桜みたいに落ちそうな涙の理由なんて、知るわけない。いや、ウソだ。知っていて知らないふりをし続けている。
「姐さん」
 ずぅーっと押し殺すつもりで最初はこんな気持ちを押し殺し続けてきた。けれど、途中から押し殺すことなんて、できないとわかってきた。分かっても、それでも、言えずにいる。葵はそんな思いを胸に溜めたまま、なにも言えずにいる。だから聞くのだ、寧々は諦めずに何度だって。
「姐さん」
「……え。どうかした? 寧々」
 寧々は葵を冷たいほどにまっすぐに、そして鋭く見つめている。まるで、心をも見すかすかのように。
「今日、なんの日かわかってますよね? 姐さん」
 雪は降っていない。けれどもいつ降ってもおかしくない、そんな陽気で、冷たい空気ばかりが葵の胸を朝から晩まで容赦なく締めつけてくる。その理由がなにかなんて、痛いほどに分かっている。でも、長いこと知らないふりをして、あのひとの近くには必要がなければ近寄らないようにしてきた。それは逃げなんかじゃなくて、抑えられなくなる思いが怖いから。好きだと、大好きだと叫びたい、そんな抑えられないような強い気持ちを。
 言えばいいと誰もが笑うだろう。けれど、それでもどんな思いを突き付けようとも、彼が振り向かないだろうことを、彼の後輩である蛇崎が告白して投げ飛ばされたことからも明白だった。だからこそ葵は彼へ、わかっているとは思うけれども男鹿への思いを吐き出すことができないでいる。怖いのだ。生まれて初めてする、告白というものがむげになってしまうことが。あまりに自分本位で誰もがきっと呆れてしまうかもしれないけれど、それでもこの「相手にされないだろう」という恐怖。これは、ある意味フられるよりもキツい。だからこそ、踏み出せずにいるわけだ。せめて、「嫌だ」と言われるのならば自分の魅力のなさに涙することもできるけれど、好きの意味を隙と聞きちがえられるレベルでは、この思いについて告げたこと自体が、あまりに虚しくて悲しい。葵にはそう思えて仕方がないのだった。それを、蛇崎が崎にしてしまってその後でなお、こんな分かりきったことでまごついているのもどうなのか、という話なのだけれど。そのあたりの心情も踏まえて、わざと寧々は言っているのだ。葵をけしかけるために。そう、こんな濃い、高校生活について、少しでも後悔のないように。「して悔やむ」よりも「しなくて悔やむ」ほうがあまりに、悲しくてツラいものだから。
「…わ、わかってるわよ…! 今日が、最後の登校日だ、ってことぐらい」
 石矢魔高校だってもちろん卒業式はあるけれど、いつも暴動が起こるために自由出席になっている。けれど、卒業を見て泣きたい下級生と、卒業で泣きたい上級生は胸に花を添えて現れる。だから毎年起こらなくてもいいような、くだらないバカ騒ぎが起こる。石矢魔高校の卒業式といったら、それはたいへんな騒ぎになる。全国レベルでいうと、成人式でもあったかのような騒ぎになるのだ。もちろん、これとは別に成人式でも事件は起こることもあるのだが、片田舎なので基本、それほど成人式では問題は起こらない。しかし、卒業式では毎年起こるのである。そして、きっと今年もそれは起こるのだろう。そんななか、葵は心のなかだけで決めていた。
 “私は卒業式には出ない”と。
 それは、周りへの配慮からだ。そのことについては祖父にしか言っていない。同じレディースの仲間たちにも口にしていない。そんなことをいってしまえば、みんな出ないに決まっているからだ。もちろん寧々もそのことを知らないで今のようなことを口にしているのは理解しているつもりであっても、それでも葵はバカ正直に揺らいでしまう。揺れ動くこころを隠しながら寧々に向き合う。
「だからなによ」
 こんなふうにそっけなく答えるのも、もちろんわざとだった。本当の意味で今日が最後の登校日。葵には泣きたいほどに意味のある日だ。男鹿に会える、高校生として自分が男鹿に会うことのできる最後の日。もちろん第二ボタンをもらうことはできない。彼のほうが年下だから、いくらほしくったって、それをねだることもできない。来年まで彼はその制服に袖を通すのだから。そんなことに何度も、夢のなかで葵は思いを馳せていた。誰にも言えずに。けれど、きっとそれは寧々には朧げに伝っていたのかもしれない。そう思うと葵は顔から火を噴き出しそうな気持ちで、寧々と視線が合わせられなくなっていく。情けない。
「だから、じゃないでしょ。姐さん。そんなふうに思いにフタしたって、なんの意味ももうないんすよ?!」
 寧々はいつだって、葵を見ていた。わかりすぎるほどに彼女のことを理解していた。もちろん、隠してきたほとんどの思いだって汲み取ってきたつもりだ。それでも、見ないフリと気づかないフリを続けてきた。また、寧々もそんな葵の姿を見つめることに限界を感じていたのだ。そう、いつだって葵の姿はどこか痛々しく、寧々の目には映っていたから。
 寧々の言葉はいつだって葵の背を押す。けれど、押したって今回ばかりは押し切れないでしょうと、思ってしまうほどに男鹿というやつは何もかもが、普通ではないので葵はゆるく首を横に振った。どう考えたってなんの手立てもない。好きだと言っても、付き合いたいと言っても、そんな言葉だけじゃ彼には何も伝わらない。それを深く理解してしまった以上、行動にすることがあまりに無意味で悲しいことだと葵は痛いほどによく知っていた。
「分かってるわよ、寧々」
 あまりに痛むその気持ちなど、男鹿にとっては感じるもののないそよ風のようなものだ。男鹿本人から聞いたわけでもない、ただの男鹿をにおわせる言葉だけで、こんなにもぐらりと揺れる。人の気持ちはどこまでも複雑で、自分自身であったとしてもコントロールの効かないものだ。それをなんとか回避したい、その思いは行動に表れる。すこしでも冷静になりたい気持ちは、武術を習う葵にとっては深呼吸という、あまりに初歩的で色気のないもの。
 すぅーーー、はぁーーーーー。
 こんなことが意味がない、だなどとマヌケなことは思わない。葵はよく分かっている。呼吸を整えることで、見えてくるものがあるということを。それを意味がわからず寧々は見つめているだけ。そんな寧々に向き合って、葵はいう。
「だから?」
「…っ、だから? じゃないっしょ姐さん! 男鹿だって、真心ぶっつけられて分かんないワケ、ないじゃないっすか!」
 真心の意味が、男鹿に分かるだなんて葵には泣きたいほどに伝える自信がない。両手を差し伸べるのは自分のほう。ひたすらに、手を伸ばすのは自分ばかり。好きという言葉も付き合ってほしいという言葉も、いつだって彼の胸には変換されてしか、届かない。泣けるほどに近くて、とてもとても遠い存在。真心の意味なんてわからない。そう寧々に殴りつけながら言いたい気持ちを、ぐっと抑え込んだ。こんな苦しい恋は、早く別の色に染めてしまいたい。そう思えば思うほど、男鹿は葵の視界に入ってきていて、いつだって彼を忘れられない。いってほしいのはそんなに難しい言葉なんかじゃないというのに。たまに手を伸ばしてくれる時があってもいいんじゃないかと、そんなことを思うのは高望みなのだろうか? いつだって、葵の気持ちはぐるぐるぐるぐるとムダに脳内を駆け巡るばかりで、イエスもノーも、簡単な問いの答え合わせすらできやしない。その現実に葵は押し潰されそうだ。
 ふと、ある夏の日を思い出す。差し伸べてくれる手を振り払ったことは後悔していない。けれども、今ほどその手が恋しいような、ないものねだりをしたい気持ちが膨れ上がるこの胸の内を感じたのもまた、葵にとって初めてのことだった。目を閉じると彼の姿が浮かぶ。男鹿には似ても似つかない、だが南の子連れ番長・哀場猪蔵の現代風に崩したリーゼントがなつかしいと思う。今、こんな揺らいだ気持ちのなかで彼が颯爽と、でも当たり前みたいに現れたのならどうだろうか。今の今までこんな愚かなことを思ったことなどなかったのに。葵は頭のなかで自分の気持ちを打ち消して、寧々に向き直る。
「それでも、私は今までどおりの、…このままで、いいの」
「姐さん……。そんなの、姐さんらしくないっすよ」
 寧々はどうしても一歩踏み出してほしいようで、まっすぐな視線が先のよこしまな思いを見据えているようでココロにちくちく痛い。寧々はよく葵にこんなようなことをいう。だが、寧々のなかの葵は絶対に美化されている。だが、それをどう説明しろというのか。説明できない以上、もはや寧々のなかの葵には穢れなどきっとないままだ。むろん葵が穢れている、という話ではないのだが。だが、すくなくとも寧々が思うほど葵は自分が強いなどとは思ってはいない。今までは立場上、強そうに見せる必要もあった。だが、今は違う。もはや総長でもない葵は、ただの卒業生の一人のつもりだ。いくら崇拝されたとしても。寧々がいくら不服そうな顔をしていたとしても。
 冷たいかもしれないが、葵は強引に寧々を背に教室から出た。もうこの教室ともオサラバだ。そう思うと今日という日が、あまりに眩しくて愛おしいように思えるから不思議だ。寧々を置いて帰ろうと思っていたが、やはり、教室を振り返ってその目に焼き付けることを止められなかった。思い出はいつだって楽しくてうつくしい。そして、高校の思い出はいつも男鹿があった。彼とは近所に住んでいるのだから会うこともきっとあるだろう。そんな甘い思いに首を振ってなんとか夢想を棄て、すぐに教室に背を向けて歩き出す。
 さようなら、高校生活。さようなら、男鹿。さようなら、私の、恋心。


 もうこんな、子供じみた恋なんて夢想はやめる。

 最後くらい、足掻いてみてもいいじゃない。

 そう、いつだって自分で決めてきた。葵は自分と向き合ってその答えにたどり着く。


2016/06/28 18:36:24