味のしないチョコレートと甘い唇
喫煙所の扉の前。中のやり取りが聞こえてしまった私は足を止めた。
「ごめんね、甘いもの苦手なんだ」
そう言ってあの男は、女の子に差し出されたチョコレートを受け取らなかった。そんなはずがない。彼と二人で、パフェを食べるためにカフェへ行った日は、まだ記憶に新しい。 突然扉が開き、咄嗟に死角に隠れる。女の子が飛び出してきて、走り去っていった。
「よかったのかよ」 「ん。本命からだけ欲しいからなあ」
爆処のダブルエースと称される二人の声が聞こえてくる。 チョコレート店の紙袋を持ったまま、私も踵を返した。
ふらふらと逃げるように足を進めて、自販機の横に腰を下ろした。人はいないし空が青い。ぼーっと空を見上げて、心が落ち着いたので紙袋を開ける。
数日前、このブランドのチョコレートが話題に上がった。サブレショコラの、期間限定のフレーバーを食べてみたいと言っていた。だから、それを口実にバレンタインに渡そうと思っていたのだ。 それなのに、あいつは甘いものが苦手と言った。萩原が甘味を好んでいることを知っている私は、理由を察することができる。大方、バレンタインのチョコレートを断るための体の良い文句だろう。相手の好意を受け取るつもりは無い、と。そして、彼自身が言っていたように、彼の本命からのチョコレートだけ受け取るつもりなのだろう。 これでは、私が持っていったところで困らせるだけだろう。いつもなら貰うけど今日だけはごめん、とか言われたら心が折れる気がする。 喫煙所から出ていった女の子を思い出す。確かあれは、交通課の新人の子だったと思う。特別可愛いと同僚が騒いでいたので知っている。同性の目から見ても評価が高い。溌剌としていて周囲に気配りもでき、自分磨きに余念がない。萩原の本命は少なくとも彼女では無いらしいことはわかった。
ブランドロゴの刻まれたカラフルな箱をかぱりと開けて、包みを一つ取り出しビニールの封を開ける。手に取ったのは濃いピンクのラズベリーのサブレに、ダークチョコレートのガナッシュを挟んだものだ。一口かじれば、ざくりと音が鳴った。 ざく、ざく、ざく。咀嚼する。ラズベリーの甘酸っぱさと濃厚なガナッシュのカカオの香り。舌が肥えていなくても一級品だとわかるはずなのに、心置きなく堪能することができない。 せっかくの有名ブランドのお菓子をろくに味わうこともできず、機械のように。ただ飲み込むことを目的に顎を動かし、口の中の異物を細かく噛み砕く。
「なーに食べてんの、俺にもちょうだい?」
やっとの思いで一口飲み込んだとき、自販機とは反対隣に座り込んだ影があった。
「……甘いものが苦手な人にあげるチョコレートはありませーん」 「えっちょ、なんでそれ知ってるの」
どっかから聞いた? と焦る萩原を尻目に食べかけだったものの残りを口に放り込んだ。相変わらず、いやむしろ原因が隣にいるせいで余計に味がしない。 甘いものが苦手という情報の漏れた候補に、咄嗟に先程の新人の子が候補に挙がらない。ということは、断った相手はまだ複数いるのだろう。
「それ、自分で買ったの? それとも誰かから貰った?」 「自分で食べるために買ったの」 「嘘だよね、それ」 「なんで?」 「自分で食べるなら、家で一つ一つ大事に食べるでしょ。こんなとこで食べたりしない。違う?」
図星をつかれて、次の封を開けようとしていた手が止まる。彼の言うとおり、このブランドのチョコレートを自分用に買ったならば自宅でゆっくりと食べていただろう。平民が買えないくらい値段が高いわけではないが、敷居が高いので自分へのご褒美とする人も多いだろう。
「……本命に渡せなくなったから、自分で食べてるの」 「じゃあ俺にくれてもよくない?」 「よくない、ダメ」
サブレを奪取しようとする萩原から箱を遠ざける。本命の子に貰いに行けばいいのに。
「……それならいいよ、勝手に貰うから」
少しむっとしたような表情で発せられた言葉。よもや無理やりチョコを奪われるかと箱に手で蓋をする。 しかし守るべきはチョコじゃなかったみたいだ。
何が起きたかわからなかった。 萩原の顔が離れるとき、唇をぺろりと舐められて事態を把握する。
「あっま……」 「……は、あ?? っ!! え、なになにちょっと何するの!!」 「ごちそうさま」
見せつけるみたいに舌なめずりをされて、カッと顔が熱くなる。
「これ、やっぱり俺が貰うね」
立ち上がった萩原の手にはいつの間にかチョコの箱が握られていた。 「え、なんで。だって本命からしかいらないって……」 唇の感触を思い出してしまい、ぐるぐると巡る頭は爆発寸前。それでも、立ち去る萩原の後ろ姿から、真っ赤に染まった耳が見えて、全てを理解してしまった。
「……本命に渡せなくなったから、自分で食べてるの」
自分用に買った、なんて誤魔化した後でたっぷり渋ってから苦々しく吐き出す姿。
「じゃあ俺にくれてもよくない?」 「よくない、ダメ」
即答。本命用を他人に食べさせたくない、そう思っているのが伝わってくる。 でもさ、俺気付いてんだよね。 その箱って、俺がこの前食べたいって言ったやつ。上手くバレンタインにくれたりしないかな、と予め根回ししていただけに、貰えないなんて嫌だ。 彼女は俺が甘いもの好きなのは知ってたから、このサブレでないにしても、バレンタインは何かしら貰えるだろうとは踏んでいた。他の子からのチョコは断って。まさかその噂が彼女の耳に入るとは思ってなかったけど。 彼女が渡す予定だった本命が他の男じゃなくて良かった。
「ごちそうさま」
本命の唇は、チョコレートなんか目じゃないくらい甘かった。 戻る
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