幼なじみの風見と酔った勢い
「久しぶり」 帰宅する人たちの群れのなか、改札を出た私はすぐに待ち人を見つけることができた。向こうもこちらに気付いたようで軽く手を挙げてこちらに笑いかける。 人混みにいた彼を徒労なく見つけられたのは、彼の背が高いからだ。未だに彼を目で追ってしまって、世界が全てぼやけて見えて彼だけがはっきり見えるからなんて、そんなわけ、ない。
転勤で地方から東都に戻ってきた私は、改めて風見と連絡をとった。幼なじみの彼とはこれまでもたびたび連絡は取り合っていたけれど、会うのは成人式以来だ。そのあとの同窓会では酒に弱いことが判明していたのを思い出す。
繰り返すメッセージの中で住んでいる所が近いと判明し、風見の部屋で宅飲みすることになった。 仕事帰りに駅で待ち合わせ、彼の部屋に向かう。 殺風景な部屋に女の影は微塵もない。相変わらず彼女いないんだ、へえ。 「冷蔵庫からっぽ、こんなんじゃおつまみも無いじゃん。買い出し行こう」 そう言ってまた訪れたばかりの部屋を出た。 最寄りのスーパーで食材を物色する。 大人の男女が連れ立ち、籠は一つ。 ああ、もしかしてこれって、夫婦の買い物に見えてたりするのかしら。 なんだかこっ恥ずかしくなって、誤魔化すように明日の朝の食材も籠に放り込む。 風見の部屋には調味料の類いも無かった。自炊もしていないのか。生活感のない部屋だと思っていたら、ほとんど帰ることが無いらしい。たまには来て作ってあげようか、と一通りの調味料を籠に入れた。
部屋に戻った頃には外は暗い。 宅飲みするからには泊まるつもりで来た。幼なじみで、気を許している相手だ。男と女とは言っても、今さらそういう関係にはならないだろう。むしろ、風見にそんな度胸があるとは思っていない。 恋をしていたこともあったけれど、思春期特有の、男性への意識が始まっただけ。そう思うことにしている。 風見が先にシャワーを浴びている間、私はキッチンを借りておつまみを作った。簡素なものだけ。 入れ替わりにシャワーを浴びる。戻ると、だし巻き玉子が一切れ減っていた。先につまみ食いするなんてズルい。
酒に弱い風見に合わせてアルコール度数の低いチューハイばっかり、というのもつまらないので、私はキツめのお酒を持参していた。カバンから取り出すと眉をひそめられる。なあに、と聞けば馬鹿にしているんだろう、とため息をつかれた。 流石に飲めないだろう、とたかをくくっていたが、これは意外。ごく自然に杯を開けて見せた。仕事上酒に弱いと不味い場面もあるらしく、慣らしたのだという。警察で酒に弱くて不味い場面ってなんだ。 持参した瓶が半分ほどに減った。そこそこにアルコールが回り始めて、ぐらぐらと視界が揺れる。 こんなところに居ていいのか、と風見が問い掛ける。嫉妬する男がいるんじゃないのか、と。 残念だけど私も恋人はいないよ、と返せば、じゃあもういいな、と風見が動いた。
肩を掴まれて、唇が重なっていた。眼鏡のフレームがひやりと冷たい。 驚きに声を出そうと開いた口に、舌が差し込まれた。どちらのものかわからない強い酒気が鼻をくすぐる。 風見の勢いに押され、傾く背はソファーの座面についた。
あれ、こんなことって、男と女がすることで。でも、あれ。 私たち、どんな関係だったっけ。
心臓は強く脈をうちアルコールを身体に運ぶ。胃に残っていたものも容易く吸収された。 端的に言うと、お酒で意識はブラックアウト。そのあとの記憶がない。
起きたら朝だった。私も風見も、一糸纏わぬ姿でベッドの上にいた。 身体がだるいのはお酒のせいとしても、下のほうが色々とどろどろだし、肌には痕が残っているしで昨晩ナニがあったかは確定。 熟睡している風見をおいてベッドを出る。立ち上がると足の間に白濁が垂れて、床に落ちないように気を配りながら浴室へ向かった。 シャワーを浴びながら鏡で身体を見ると、至るところに痕をつけられていた。真面目な顔に似合わず、随分と情熱的に抱いたらしい。ご丁寧に中にまで出してくれちゃって。昨晩のことを覚えていたら、思い出くらいにはなっただろうにな。 仕事が忙しくて処理をする時間もなかったのだろう。お酒の勢いも手伝って、手近な女に手を出した。そうでなければ、私なんかを抱くはずがない。だって好きなんて一度も言われたことがないのだから。 シャワーを終えて部屋を覗いてみると、当の風見はまだ眠っていた。台所へ行き、朝食の準備を始める。
テーブルにお皿を運んでたら風見がやっと起きてきた。視界の隅に土下座している。 「服着て、座って」
朝食に食べ始め、黙々と箸を進める。白米を半分ほど消費した頃に先に口を開いたのは風見だった。 「すまなかった、責任は取る」 「責任ってなに」 「俺が無理に迫ったんだろう。……実は、昨日の記憶が無いんだ。こんな風になるつもりじゃ、」 容易く踏まれた地雷に、声に怒りが滲む。料理の味も感じられなくなって、箸を置いた。 「手近な女に手を出したことの責任なら取らなくていい、そんなことなら謝らないで」 朝食もそこそこに立ち上がる。風見のすがるような視線も振り払う。 「疲れてたんでしょう。一度の"間違い"くらい、水に流すよ。私だって、覚えてないし」 自分の発言に乾いた笑みが漏れる。水に流すなんてよく言えたものだ。 私はこれから風見とお酒を飲むことはないし、ここへ食事に作りに来ることもないだろう。それは、風見と久しぶりに連絡を取っていなければありえなかった事柄なのだから。 もう会わないことが元通りなんて、到底水に流せているとは言えないだろう。
喧嘩がしたくて会ったわけじゃなかったのに。 酔って見境を無くしただけ、それは私の淡い心を打ちのめした。欲しかったのは謝罪でも誠意でもない。 久しぶりの電話に舞い上がって、求められた腕に歓喜して。 もし、一言でも「好きだ」と言ってくれたなら私は、
「……あ」 ポケットを探った手を止めて、思考も止まる。 風見の部屋に、ケータイ忘れた。
今さらもう一度あの部屋にも行けなくてケータイ無しの生活をしていたら、後日郵送されて返ってきた。そりゃあこっちだって顔は合わせづらいけど。てかだいたいの場所は教えてたけど、住所言ったっけ。
端末を震わせたのは一件のメールだった。登録した覚えのない相手から。……『風見の上司』。 本文には数字だけ。警察病院の地図が添付してある。 嫌な予感が警鐘を鳴らす。 きっと、風見がそこにいる。
side,K
約十年ぶりに会った幼なじみは、大人の女へと変貌していた。 慣れた化粧に、整えられた指先、きちりと澄ましたスーツ姿。仕事終わりに直接ここまで来たという彼女に、もう何度目になるかわからない恋に落ちた。 それでも彼女の本質は変わっておらず、話すごとに肩の力が抜けていく。ここに来るまでのメールのやり取りで、彼氏は出来ても続いていないということは確認できていた。彼女に数えきれないほど失恋してきたが、今回カウントが増えることは無さそうだ。
最寄り駅で待ち合わせして、自宅のマンションまで案内する。なまえはヒールを履いていたが、当然俺の背よりずっと低い。人混みに紛れたら見失ってしまいそうだ。 彼女は仕事用らしき鞄と、もう一つ袋を携えていた。何かと問えば、後のお楽しみ、と返答される。何だか嬉しそうに笑うものだから、また見惚れてしまった。 ずっと持たせるのも悪いので、謎の袋を取り上げる。お楽しみと言われているので中身は見ない。若干の重み、硬い感触、揺らすと水の音。……酒瓶だな。 そして着いた部屋を一瞥、冷蔵庫を開けた彼女が振り向いて、よし行こうか、とまた外へ出た。 スーパーでは俺が既製品の肴を籠に入れる傍ら、彼女は調味料の類いを持ってきた。 「あの部屋、女っ気がないのバレバレだよ。ご飯作ってくれる人もいないんでしょ」 たまに来て作ってあげようか、と言われて思わず目頭を押さえた。彼女に会えて食事まで作ってもらえるなんて願ったり叶ったりだ。 「頼んでいいか。ここしばらく、まともな食事をしていないんだ」 「いいよ? 忙しいおまわりさんに体壊してほしくないし」 そう言って彼女はにっと笑う。そして俺は、やっぱり好きだ、と思うのだ。 部屋に帰り、シャワーから出ると本当に数品のつまみが出来上がっていた。 これからここに帰れる日、なまえが夕食を作って待っていてくれたら。もし、その肩書きが妻になっていたりしたら。 ほかほかと湯気をたてるだし巻き玉子を一切れ、つまんで食べる。やわらかくあまい、幸せの味を噛み締めた。
その幸せを、まさか酒の一口で失うとは思っていなかった。
お酒弱いもんね、と笑われて意地を張り、取り上げた酒を口に含んでからの記憶が無い。 目が覚めたらベッドの上で、周囲に散らかった衣服があった。乱れたシーツは隣に一人分のスペースが空いていて、そこに誰かがいたことは明白だ。その誰かは、昨日家に招いた一人しかいないわけで。 眼鏡を探り当てて周囲を見回す。空き缶とつまみが散乱していたはずのローテーブルは綺麗に片付けられていた。
「手近な女に手を出したことの責任なら取らなくていい」 声に怒りを滲ませているのに、その表情は今にも泣きそうに歪んでいた。 出て行った彼女を追いかけることも出来ない。 きっと俺が、彼女に無理に迫ったんだ。幼い頃から、ずっと好きだったから。その感情が膨れ上がって、彼女が傍に居ることに舞い上がって、彼女を傷つけた。寝室には使用済みのゴムは一つもなかった。 責任を取るなんて調子のいいことを言って、彼女を囲ってしまいたかったのを見透かされたのだろうか。謝罪は拒否された。彼女にとって“間違い”で、水に流せることでしかない。 嫌われた。
昨日せっかく買った調味料は無駄になるだろう。使ってくれる人がいないから。 食卓に並んでいる品々は、野菜中心の、胃に優しい和食だった。まともな食事をしていないと言った俺のために作ってくれたのだろうと、言われなくてもわかってしまった。ベッドで呑気に寝こけている俺に憤っていただろうに。俺の身体を気遣って、叩き起こすことすらしなかった。 そんなところが、本当に、好きだったんだ。
side.f
部下が仕事に身が入っていないのは誰の目にも明らかだった。 心ここにあらずといった様子で、隈も酷い。眠れていないのは一目瞭然だ。 おまけに捜査から怪我をして戻ってきた。風見のミスではなく不慮の事故だったようだが、ここまで重なるとそのままにはしておけない。 大した怪我でないと言い張る風見を病院へ叩き込んだ。事実上の入院だ。退院しても隈がなくなるまで休暇を取ってろと言いつけた。
さて、ここで用意するのはとある一つの携帯電話だ。先日、風見が握ってぼーっと眺めていたのを発見し、先ほどこっそり回収したものである。風見の仕事用でもプライベート用でもない。ストラップから女性のものであることが伺える。
まあ、推理を披露していても仕方ない。つまりは、風見の異変の原因はおおよそ突き止めた。
端末の過去の位置情報を解析、自宅を割り出して送りつけ、風見のいる病室番号をメールした。
side.〇〇
すぐに駆け付けたその病室には、本当に風見がいた。 力なくベッドに横たわる彼の寝顔は、あの朝見たのと同じで眉間に皺がない。 シーツの上に投げ出された手をとり、両手で握る。 「裕也……死なないで……!」 「いや待て、勝手に重傷にするな」 「わっ!?」 突然の声に驚いて手を離す。 サイドボードの眼鏡を探り取った彼は身体を起こした。 「どうやってここに?」 「えっと、裕也の上司って人からメールが……あれ、消えてる」 「は、なんでそれを持って……ああ」 私が取り出した端末を見た風見は少し考えてから、一人で納得して頷いていた。私は何もわかってないんだけど。
それはもういい。何はともあれ、私はここに来たのだ。不審なメールを無視することもできたはずだった。ましてや本当に彼がいるのかなんてわからないのに。それでも私がここへ来た理由は。 私は彼に、伝えなければならないことがあるから。 「……ねえ、またごはんを作りに行ってもいい?」 「……!」 彼の呼吸が一瞬止まり、瞳が揺れる。 「裕也が病院にいるって知って、とても怖くなった。もしかしたら二度と会えないかもしれない、そう思ったらここに来てた。失いたくないって、……会いたいって、思った」 風見の手を握って、目を伏せる。 きっとそろそろ、素直になるべきなのだろう。長年蓋をし続けて見ないようにしていた想いを、伝える。 「私、裕也のことが、」 「待ってくれ」 目前に彼の掌が翳され、ストップをかけられた。 「続きは俺に言わせてくれ」 「え、嫌」 風見の手をそっと下ろさせ、そのまま握る。これで風見の両手を塞いだ。 「な、」 「……勝率があるってわかってから言おうだなんて、狡いマネしないで。好きよ、裕也」 そう告げれば、風見は真っ赤になって項垂れた。 「俺も、好きだ」 「うん」 「ずっと好きだった」 「……そっか」 「だからあの日、酒の勢いだけじゃなかった……と思う」 「……ん」 「覚えてなくて悪い」 「いいよ」 「また、お前の作った料理が食べたい」 「うん」 「……毎日、お前の作った味噌汁が、食べたい」 「……!」 「俺のために作ってくれるか」 「いいよ、いくらでも作ってあげる」 にっと笑えば、安堵したように彼の目尻が下がる。 握っていた手が放され、頬を撫でられる。応えるように手を重ねて、ゆっくりと顔が近付いた。 「――――っ!!」 「!?」 唇が重なる直前。 ガタンッと音をたてて椅子ごと床に倒れた。 その拍子に打った身体が痛いし風見が驚いているがそれどころではない。待って、ムリ、とうわ言のように呟きながら彼と距離をとる。真っ赤になっているのだろう顔が熱い。
――こんなタイミングで、あの夜のことを思い出さなくてもいいじゃないの!!
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