夢の中の獣・弐


不思議な夢を見た。


一寸先も見えないほどに深い霧の中、見たこともない壮年の男がぽつりと立っていた。

道を聞こうと近付けばその役人風の男は、お前の大事なものが壊れるぞ、と言った。

薮から棒に何だと眉をひそめてみれば、人ではないものを本当に愛せるか、とさらに問われた。

意味がわからぬ、と返せば、男は霧の中に歩を進め、そのまま消えてしまった。

一体何だというのか。

霧の中を手探りで歩き続ければ今度は、既視感を覚えつつもどこで会ったか思い出せない女が立っていた。

失礼だがどこかでお会いしたことがあるかと問えば、女はゆっくりと首を横に振り、黙って深い霧の中を指さした。

その方向に目をやってから、道を知っているのかと問いながら視線を戻せば、女は忽然と消えていた。


先程の男といい、一体何なのだと独りごちる。
今しがたの男と女の顔を脳裏に浮かべてみれば、ふとあることに気付く。


とてつもなく大事なことを忘れているような気がする。
まるで、甲冑をつけずに戦場に出てしまったのに、それに気付いていないような。

『人ではないものを愛せるか』

男の言葉が蘇る。
それはきっと、平時で聞いたのなら、もっと別の意味を孕んでいたものだったはずだ。

そこから連想されるある存在への想いは、軽く流せるものではなかったはずだ。

胸の中を、怒りと慕情が支配する。

誰よりも慕っていたはずの、方天戟を操る彼女の名前が思い出せない。

霧の中を、女が指さしていた方向に早足で歩を進め、やがて走り出す。


次第に霧が薄くなっていく。


見慣れた城が見えてきたところで、ようやく思い出す。

「っ、英瑠殿!!」

彼女の名前を、呼んだ。







そこで張遼は目が覚めた。

朦朧とする頭を振り、窓から月を見上げれば寝入ってからまだそんなに時間が経っていないことがわかった。

「英瑠殿……」

昨日は互いに執務も忙しく、英瑠と張遼は言葉を交わす余裕もないまま夜にはそれぞれの宿泊部屋に戻ったはずだった。

妙な夢だ、と独りごちて彼女のことを考えながら再び眠りにつこうとした張遼だったが、しかし一度覚めた頭はなかなか眠りに入ってはくれない。

気分を落ち着かせようと水を口にしてみるも、おかしな胸騒ぎまで覚える始末。
張遼は、寝乱れた寝巻の帯を絞め直すと、軽く風に当たりに行くのだと自分に言い聞かせ、部屋を抜け出したのだった。






しんと静まり返った城の中、足は自然と英瑠の部屋の方へと向かってしまう。

咎める者も現れないまま彼女が泊まっている部屋の前まで来ると、張遼は軽くため息をついた。
別に寝顔を見てやろうなどというつもりは無い。
夜ばいをかけようなどというやましい想いは断じて無い。

ただ先程の夢に触発されたせいか彼女の存在がただ気になってしまい、とくに目的もないまま部屋の前に来てしまっただけなのだ。

(何をやっているのだ、私は)

そう自嘲し、いい加減自室に戻ろうと踵を返したところで。


扉の中から、女の細い声が……、他でもない英瑠の声が……、
あろうことか、言葉にならない呻き……
否、閨でのそれを想起させるような甘い声が、漏れ聞こえてきたのだった。

張遼は息を飲み、全注意力を以て耳を済ました。

悪い夢にうなされているという感じではない。
何度も寝台の上で聞いたことのあるその艶めいた喘ぎは、聞き間違えることなどない英瑠のあの声だった。

反射的に、他の男でもいるのかと身構える。
……しかし、どうやらそういうわけでもないらしい。

さて、どうしたものか。

淫靡な夢に溺れているにしろ、一人で自らを慰めているにしろ、それは彼女の問題であって他人が関わることではない。

そう自分に言い聞かせる張遼だったが、しかし吐息とともに吐き出される彼女の甘い声は、夜闇という密やかな空間の効果もあって、やけに耳につく。
これはまずいと思いつつも、張遼は自らの身体が英瑠の切ない声に当てられ昂っていくのを実感していた。

今すぐ部屋に押し入って、彼女の身体を腕の中に収めたい。
欲望が頭をもたげ、限界だと思った張遼は早急にこの場所から離れなければならないと決意した。

だが、……、


「文遠さま」

彼女のたしかな声が張遼の名を口にする。
その声は、独り言として口をついて出ただけのものではないようだった。
人の気配を察知するのが敏感な彼女はきっと、張遼が部屋の前に居ることに気付き、明確な意志を持って彼を呼んだのだろう。

かくして張遼は、柄にもなく跳ね上がった心臓を押さえ、ゆっくりと扉を開いたのだった――



********************


「……英瑠殿」

人目を忍ぶようにそっと部屋に滑りこんだ張遼を、英瑠は拱手で出迎えた。

英瑠は内心驚愕していた。
あの思い出したくもない冒涜的で恐ろしい夢からの、やたらと冷淡な張遼との淫夢。
目が覚めた途端に感じたのは、扉の外に、他でもないたった今まで夢の中で自分を組み敷いていたその人の気配。

驚かないわけがない。
昂った身体と心は無意識に彼を求め、去らないでとあざなを口にしてしまった。

部屋に入った張遼は、何故だか気まずそうに扉の前に立っている。
偶然通りかかったのか、うぬぼれて良いならば自分に会いに来てくれたのか。
どちらにしても、戸惑いや気まずさを嬉しさが凌駕する。

夢の内容は悟られないようにしようと英瑠が密かに決意したところで、ようやく張遼が口を開いた。

「……英瑠殿、すまぬ。私は」
「何もおっしゃらないでくださいませ……」
「っ、……」

張遼が謝罪から入ったため彼がこのまま帰ってしまうのではないかと危惧した英瑠は、思わず彼を制すと、寝台の上に腰かけるよう招いた。

張遼がそれに従うと、英瑠は隣に腰を下ろし、そわそわしながら口を開く。

「怖い夢を見たのです……
ふと目が覚めたところで部屋の外に文遠様の気配を感じ、とてもほっとしました……!
こうして文遠様のお顔を拝見することが出来て、とても幸せです……!」

張遼が謝ろうとしたということは、彼の方にも何らかのやましい部分があるのかもしれない。

しかし今は、あの夢の後だけに、こうして彼に会えたことが至高。
彼が後ろめたさなどを感じる必要は全くないのだ。

張遼が本当は何に対して気まずさを感じているかなど知りもしない英瑠は、さてここからどう言葉を繋げようかと考える。

未だ熱を帯びたままの身体は、思考さえ侵し、油断すると変なことを口走ってしまいそうだった。

冷静になろうと英瑠は小机の上にあった水差しを取りに行き、杯に注いで立ったまま水を口にした。


「怖い夢……か。
英瑠殿が怖がるモノとは、一体何なのか見てみたいものだな」

「ケホッケホッ、……っ、コホッ……、っ……、」
張遼の不意打ちに水が気管に入り、盛大に噎せてしまう英瑠。

「何か変なことを申したか」
「あっ……、いえっ、別に……っ、ケホッ」

夢の中の『怖いもの』とやらは、淫猥な人外どもと、強引な張遼。
言えるわけがない。
そもそも『怖い』という言葉は嘘とは言わないが、的確ではない。

動揺から噎せてしまった英瑠は、杯の水を寝巻の胸元に盛大にこぼしてしまったのだった。

「あぁ、あ……、私ったら……!」
拭くものを見つけ手に取ったところで、寝台から立ち上がった張遼がそれを優しく奪う。

「あっ、文遠様……」
「私はどうやら英瑠殿を動揺させるようなことを言ったようだ」

「えっ……、そんなことは……っあ、自分で拭きますので……!
そんな、文遠様のお手をわずらわせてしまうなど……」
「気にするな」

張遼の片手が英瑠の腰に回され、もう片方の手が布巾を掴み英瑠の濡れた首筋を撫で、あるいはとんとんと優しく叩いて水分を吸わせていた。

薄い寝巻越しに感じる張遼の体温に、英瑠は夢での彼の姿を思い出す。
じりじりと灼けつくような胸の内と疼く下半身が、また判断力を奪っていった。

張遼にもっと触れられたい、しかし先程の夢は知られてはならない。
混沌としていく熱情にどうしていいかわからなくなり、英瑠は縋るような目で張遼を見上げたのだった――



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