33.帝


「乱世に荒れ狂う暴風どもめ。わしが描く天下に、貴様らは不要よ!」

英瑠らの部隊が郭シの元へ向かった頃、呂布本隊は曹操軍と激突していた。

曹操。
かつて董卓暗殺に失敗し逃亡するも、力をつけて乱世の奸雄などと呼ばれるまでになり、徹頭徹尾呂布と対立し続けた男。

呂布は曹操の留守中にその拠城である濮陽を奪取し、帰還して来た曹操の軍勢にも負けず、そこに根を張り強大になった。
方や曹操は呂布に力を大分削がれた形になり、歯噛みしたことだろう。
それでも彼は諦めずに丁寧に軍を立て直し、こうして呂布に立ち向かって来ている。
決して相容れないと本能で悟っている英傑同士、今こそ雌雄を決するしかないのだ。

ゆえに。

「貴様の描く天下など、もはやどこにも無いわ!」

鼻で嗤った呂布が曹操に肉薄する。

天下を目前にし士気が高まっている呂布軍の将兵たちは、呂布の鬼神のごとき戦ぶりを見て一致団結、さらに高揚していた。

その勢いは、もはやあの曹操であっても止めることなど出来はしない。


一方呂布軍の軍師・陳宮は、そんな主の戦を見守りながら、かつてある男に言われた言葉を思い出していた。

曹操の頭脳と言っても過言ではない天賦の才を持つ軍師、郭嘉。
その男が発したとある一言への返事を、陳宮は今、呟くように口にする。

本人に決して届くことはないそれを、誰に聞かせるわけでもなく、独りで。
主の方天戟が曹操軍を押していくさまを見つめながら、ただ満足そうに。

「郭嘉殿。あなたはいつか私に、『軍師の真似事は楽しいか』と申されましたな。
その言葉、今、今お返し致しますぞ」

その口元には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。

そして陳宮は、曹操に対しても訣別の言葉を口にする。
勿論それが、本人に届くことは無い。

「曹操殿。あなたは私を、裏切り者だと思ってらっしゃるでしょうな。
ですが、ですがあなたが才を尊び覇道を追求してきたのと同じで、私も自らの才によって道を切り開き、己の野望を追求してきただけの事……。
互いに、己が道を全力で進んで参りましたな。
その結果、あなたは負け、私は勝った。
あなたの道はここで終わりでしょうが……、どうか、どうか恨まないでいただきたい……!」

それは、かつての朋友に対する勝利宣言にも似ていた。

陳宮は押されていく曹操軍を見つめながら、いつまでも笑っていたのだった。


***********************


高順、張遼らは劉備軍と刃を交えていた。
彼らは呂玲綺を下がらせ、宮城へ向かった本隊が道を切り開くのを待っていた。

劉備。
彼は誰よりも漢王朝に忠誠を誓っており、仁の世を作ると言って憚らなかった。
それゆえに、かつては呂布軍と助け合うほどだった良好な関係を断ち切ってまで、呂布の前に立ちはだかったのだ。

彼の瞳には、帝の存在を脅かす者は何者であっても許しはしないという気迫が漲っていた。


「関羽殿……!
今こそ、全力を以って私とお手合わせいただきたい!」

「良いだろう……!
貴公の武、この関雲長が全力で受け止めよう……!!」

張遼の刃が、劉備の義兄弟関羽に迫る。

張遼は関羽の武を心から認めていた。
ゆえに、それを超える事が、武の高みを目指す張遼にとって一つの目標にもなっていた。

関羽は彼の刃を受け止め、打ち返す。
激しい金属音が辺りにこだまする。

そうして、蓋世不抜の剛勇同士の対決が幕を開けた。


だがそんな呂布軍と劉備軍の拮抗した戦況は、郭シの敗北によって一気に傾く。
郭シを撃破した英瑠をはじめとする呂布軍が、劉備軍の背後を襲い、挟まれた劉備軍は撤退を余儀なくされたからである。

張遼は関羽に、一太刀を浴びせたと思った。
しかし、決定打ではない。
浅かった。それでも関羽はくっ、と顔をゆがめ、張遼の武勇を讃えた。
そして立派な髭を蓄える武人の姿は、敵軍勢の中へと掻き消えて行った。

結果だけを見れば、これは勝利なのだろう。
だが、完全決着と言えるかと問われれば、疑問が残るのも事実だった。



「張将軍!! ご無事ですか!」

戦場に場違いな女の声が張遼を呼ぶ。
間違えるはずなど無い、英瑠の声だった。

「英瑠殿……!」

龍琉軍は劉備軍を押しのけ、奮戦していた高順や張遼軍と合流を果たしたのだ。
彼女は張遼の傍に来ると、普段からは想像もつかないような雄雄しい雰囲気で、悔しそうに言った。

「張飛殿と刃を交えましたが、決着をつける事ができませんでした、」

彼女の戦装束にはあちこちに返り血が飛んでいる。
背中を見れば、一度全て矢を抜いたはずの盾に、新たな矢がいくつか刺さっていた。
愛する男の隣にいるはずの女の眼は今や、戦場を見渡しながらぎらぎらと剣呑な光を放っている。

彼女は目立った怪我をしていないようだが、痛みさえ忘れた細かい擦り傷はあるだろうし、凛と背筋を伸ばして馬に跨ってはいても、戦装束の下では体が疲労に軋んでいることだろう。
――どこからどう見ても、乱世に生きる武将にしか見えなかった。

張遼はそれを見て、自分も似たような状態なのだろう、と自嘲した。
戦場では誰もが、鬼にならなければ生きていけない瞬間がある。

それでも彼は今、人の心を持って懐から手巾を取り出すと、返り血で汚れている恋人の頬をそっと拭ってやった。
いつだかこんなふうに、彼女の顔についた泥を拭いてやったことがあったななどと思い返しながら。

英瑠はありがとうございます、と礼を言い、すぐに自分も手巾を取り出すと、お返しとばかりに張遼の顔に手を伸ばした。

彼女は張遼の返り血を拭うと、
「宮城はもうすぐです。行きましょう、将軍」
と凛々しく口にして、前を見据えた。

ああ、と答えた張遼は、彼女が毎日隣で、「将軍」ではなく字で自分を呼んでくれる日々がこの戦いの先に待っているかもしれない、と夢想した。

そう考えると、どんな痛みも疲労も和らぐような気がしたのだった。


***********************


献帝は、宮城の上層階の窓から街を見つめていた。

遠巻きに見える長安の市街地は各所で煙が上がり、緊迫した空気は宮城の宦官や女官をも慌しく走り回らせていた。

背後で宦官が、危ないから下がってくださいという意味の言葉を、丁寧に言い換えて帝に呼び掛けている。

帝は、長安を二分する李カクと郭シのうち、郭シが敗死したとの報告を受けていた。
不安と僅かな安堵が一緒になって、彼の胸に押し寄せる。

不安は言わずもがな、呂布の侵攻だ。
李カクと郭シは戦が始まる前、連合軍に呂布の排除を頼んだから陛下の身が脅かされることはない、と言っていた。
だが実際はこの有様だ。
郭シは呂布軍に押し潰された。
呂布軍は二重の城壁を越えて、刻一刻と宮城へ向かって突き進んで来ている。

そして安堵は、これは決して限られた者にしか漏らすことが出来ないが、李カクと郭シの存在だ。
あの暴君・董卓が居なくなったのも束の間、それに取って代わったように権勢を振るい始めた二人。

帝は彼らによって保護されていると言えば聞こえは良いものの、実際は帝の名のもとそれが有する権威権力を二人がいいように私物化しているだけ、というのが実情だった。
そんな奸物の一人がこの世から消えたのだ。
安堵を覚えるなという方が無理な話だ。

だがこのまま呂布が李カク達官軍の全てを撃破してしまったら、それはもう、真に恐ろしい結末しか待っていないだろう。
呂布が開く新時代の贄として、帝は命を奪われるだけだ。


帝はそんな相反する思いを抱え、そして何よりも、一番恐ろしい現実と向き合うことを拒否していた。

つまり。

本当の意味ではもはや、現在の帝という存在には何の力も無いのだという事実だ。

何故なら、今でも帝に本当に力があったならば、董卓や李カクと郭シのような輩の横暴など、そもそも決して許しはしなかっただろうからだ。

呂布の侵攻だってそうだ。
帝に力があれば、李カクと郭シの思惑に利用された名ばかりの官軍ではなく、名実ともに帝の決断による勅命として、呂布のような身の程知らずは反乱軍として一蹴出来たはずだ。

帝は、その事実が堪らなく恐ろしい、と思った。
同時に、そのことから目を背けなければ、今までもこれからも帝として生きていくことなど出来ないのだという現実が、さらに彼の心に暗い影を落としていた。

乱世において、帝は決して絶対的な存在ではない。
たとえ帝本人に落ち度がなくたって、董卓のような狡猾な輩に首さえすげ替えられてしまう有様なのだ。

一旦帝位についたはずの異母兄は董卓の手の者により殺された。
ならば、その董卓の養子でもあった粗暴な鬼神が、連合軍を全て打ち破ったら。
帝は終わる。文字通り、命も、漢王朝の歴史も全て終わるのだ。

帝はそんなことを考え、己が身に迫る危機にうち震えた。

部屋の中へ視線を戻せば、ここも危ないと宦官たちが浮き足立ち、呂布の魔手から帝を逃がす算段を話しあっていた。

――帝である限り、逃げる場所など何処にも在りはしない!

もはや自暴自棄になってそう吐き捨てれば、ピタリと口を閉ざした宦官たちが、次の瞬間にはこぞって陛下、陛下と縋りつき、何事かを早口でまくし立てていた。

帝は宦官たちを宥めながら、頭を振って悪い想像を打ち消した。
どの道、今の帝に出来ることはもはや何も無いのだ。

――怖い。

皇族として生まれたこと、異母兄を押しのけて帝位に着かされたこと、乱世の野心家たちに利用されること、帝という立場からはどう足掻いても逃げられないこと、先祖たちが築いてきた漢王朝の命運が自分の双肩に掛かっているということ。

献帝は全てに怯え、ただ震えていた。


そんな弱気な心に、ふとありもしない可能性が浮かびあがる。

もし……、もし、もしも。

帝が、帝という立場から、解き放たれたとしたら。

その男――まだ少年と言っても差し支えないその人間は、人生をやり直すことが出来るだろうか?

誰に強いられたわけでもない自分だけの道を、自分の意志で以て、歩いていくことが出来るだろうか?


それは夢想だった。ありもしない可能性だ、と献帝は思った。
だから首を振って、そんな現実逃避じみた空想を頭から追い出した。

帝は、天を仰いで、静かに目を閉じた。

そして、心を整理するために、幼い頃から今に至るまでの道程を思い返したのだった――


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