高順。
彼は呂布配下の武将である。
陥陣営という異名を持つ部隊を率いている彼は、逆風でも呂布によく仕えよく戦う、忠義に厚い清廉潔白で剛毅な武将だった。
その高順の部隊は今、長安の正門前で衝車を守りながら降り注ぐ矢の雨に耐え、とある合図を今か今かと待っていた。
彼の脳裏に、体の小さな武将の姿が浮かぶ。
とある武将――その人間は、人間ではないともっぱらの噂だった。
そして、女だった。
彼女はたしかに強い。
呂布と同じ方天戟を振り回し、縦横無尽に戦場を駆ける。
瀕死の重傷を負っても、すぐ立ち直って何事も無かったかのように振舞っていた。
だが、いくらなんでも……、
「いくらなんでも、この状況での作戦遂行には無理があるのでは、」
――この状況で城内に潜入し、城壁の上の弩砲部隊をどうにかするなど。
矢の雨がぎりぎり届かない後方で彼がそうぼやいた時だった。
「心配するな。あいつならきっと、やり遂げるぞ」
「!? な、貴女は……!」
背後から掛けられた声に高順が振り返ってみれば、そこに立っていたのは黒を基調とした戦装束を纏った女だった。
「あいつは強いぞ。信じられんほどにな。
簡単にやられるものか」
「れ、玲綺様……! 何故ここに……!」
凛々しいという言葉が似合う強い眼差し。
整った相貌は少女と言っても差し支えないほど若く見えるが、纏う雰囲気は切れ味の良い刃のような鋭さと重圧感を漂わせている。
その少女は鬼神の娘として生まれ、密かに武を磨いていた。
彼女の得物は双刃の戟を二本交差させた、十字戟と呼ばれる武器である。
父親である呂布とは似ても似つかない細腕から繰り出される豪快な攻撃は、とても蝶よ花よと育てられた令嬢のものとは思えないほど大胆で強力である。
だがその『鬼神の娘』は、あの呂布によって戦場からは遠ざけられ、自城で平和に暮らしていたはずだ。
それが今、彼女呂玲綺は、よりによってこの決戦の地長安の正門の前に立ち、敵がひしめく城壁の上を遠目に見渡しながら、背筋を伸ばして堂々と立っているではないか。
「案ずるな。決してお前達の邪魔はしない。
他の軍と行動を共にし、後方で補佐に務めるという条件で父上に従軍を許してもらったのだ」
「な……!」
高順は耳を疑った。
あの鬼神呂布は、普段の人を人とも思わない近寄り難い威圧感にそぐわず、娘を大切にしているようだという話は何度も聞いた。
だがその大切な娘は、父親の影響からか武芸に興味を持ち、いつしかそこらの並の将兵では適わないほど腕を上げ、父親の役に立つために戦場に立つことを望むようになったという。
しかし愛娘に万一のことがあってはいけないと内心案じたのであろう父は、その父親らしい心情を誰にも語らないまま娘の健気な望みを突っぱねたらしかった。
まぁ、当然といえば当然の話ではあるのだが……。
だが呂玲綺は今ここに立っている。
それはつまり、天下を目前にした呂布が、最初で最後に愛娘の願いを聞き入れたという事だ。
しかし、あの鬼神呂奉先が。珍しいこともあるものだ――
高順がそんなことを考えた時だった。
当の呂玲綺が突然びしり、と城壁の上を指差し、口を開いた。
「見ろ!」
気付けば弩砲の牽制がまばらになっている。
そして城壁の上には、『合図』である旗が翻っていた。軍師の命で城内に潜入した女将軍の軍旗だ。
彼らの前方、城壁の上では怒号と剣戟の音が響き渡り、門の内側から人ならざる女の急襲を受けた敵部隊が悲鳴を上げていた。
待ちに待ったその隙を見逃さず、歴戦の勇士高順は衝車部隊に突撃命令を下す。
呂玲綺も自分の部隊に合図を下した。彼女は決して己が突出しないよう、分をわきまえているらしかった。
そして、城壁の上では。
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「正攻法で来ないとは品がありませんね。
せめて散り際は私が彩ってあげましょう!」
英瑠は張コウら袁紹軍と対峙していた。
元より、数は敵の方が上。
敵の意表をつき城壁の上の弩砲部隊を切り崩したのは良いが、長引けばやがて包囲されてしまうだろう。
それまでに、下の衝車部隊が城門を破ってくれれば良いのだが……。
だが彼女は怯まなかった。
背中に矢が刺さったまま、鬼神と同じ方天戟を振るう獣の女を見て敵兵は震え上がった。
「ば、化け物……うわぁぁ!!」
英瑠は立ちはだかる敵を薙ぎ払い、敵将目指して走る。
風で外套がはためき、彼女の背中の秘密がちらりと覗く。
だが敵兵は、その秘密に気付くのも束の間、声を上げる間もなく彼女に吹っ飛ばされていくのであった。
「美しくありませんね!!!」
益荒男たちの怒号とは違う、戦場に不釣り合いな優美な男声が空気を切り裂いた。
それは比喩ではなかった。
英瑠が敵兵を方天戟で一掃した直後、何か鋭いものが文字通りその場を引き裂いたのだ。
反射的に飛び退いた、彼女の外套の一部が引っかかって破れる。
その下に顕になる、背中の秘密。
「そんな分厚い盾を背負って闘うなんて……
ですがその身のこなしだけは認めてあげましょう!!」
声の主はそう言って、己の得物に絡みついた英瑠の外套の切れ端を優雅に振り払った。
細く長い、鋭利な刃物。
それを何本も手に括りつけた、鉤爪のような武器を構えた武将。
張コウと呼ばれる男が、そこには居た。
英瑠はずっと悩んでいた。
我が身の、人ならざる身体能力。だがそれにも弱点がある。
即ち、手足の短さと体重の軽さ。
勿論、そこらの女性と比べれば英瑠は別に目立って華奢で小柄なわけではない。
荒事を知らぬ女官などと比べれば体つきはしっかりしているし、権力者の愛妾のような柳の細腰や透き通る白い肌などは、当然持ち合わせていないと自覚もしている。
普段は訓練場や戦場で土煙と汗に塗れているし、日光にも晒されているからそれなりに日にも焼けている。
どうせ人間でないなら、このような中途半端な人間らしさは残さず、いっそのこと絶世の美女をそのまま仙女にでも仕立て上げたような非凡具合だったら良かったろうにとすら思ったことすらある。
直接刃など振るう必要も無く、可憐な華のような出で立ちそのままに、手を上げるだけで風が巻き起こり敵が吹っ飛んで行くような想像の中の神仙であったならば、体格など無意味であったのだろう。
だが英瑠の半分は、人間の女なのだ。
母はどうだったか知らないが、少なくとも英瑠は風も雷も使い魔も呼ぶ事は出来ないのだ。
そしてその『半分だけ人間の女』の体格は、筋骨隆々の男性武将に比べればだいぶ心許なかった。
もっとも、その心許ない体躯のおかげで、愛する男性には情熱的に抱き上げてもらえるし、時には優しく頭を撫でてもらえるのだから、悪いことばかりではないのだが。
体格差を利用し、彼に背後から抱きすくめられた時などは、逆説的な独占欲といったような、何とも心がくすぐられる心地良さを覚えたものだった。
しかし戦場では、長所といえば馬が多少疲弊しにくいことくらいで、馬を降りてしまえば概ね不利にしか働かないのだ。
……そんなわけで彼女は、ここ長安での決戦に至って、とある策を思いついた。
即ち、『軽いのなら重くすればいい』。
手足の短さは方天戟を手にしたことで補われた。
ならば体重は。重いものを体にまとって補えば良いだけだ。
たとえば、死角である背後の防御をも兼ねられる、金属の盾などを背負ってしまえば。
弟が聞いたら何を馬鹿な、と呆れられてしまいそうな、彼女らしい発想だった。
獣の筋力を持つ英瑠の体が、素早く敵に肉薄する。
重い盾を背負ったとて、彼女にとっては足枷にはならないのだ。
背中の盾に突き立ったままの矢は、まるで小さな体の女将軍を大きく見せるように、威圧感を漂わせていた。
それを迎え打つのは、血なまぐさい戦場にさえ美しさを求める、変わり者の将軍だ。
鋭い鉤爪を得物とする張儁乂という武将。だがその智勇は確かだ。
そして。
敵将張コウと、呂布軍龍琉の激闘が、幕を開けた。
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「郭シ様!! 外城壁門が破られました!!」
伝令からの報告に、郭シと呼ばれた男は色めき立った。
「ええい、袁紹も孫策も役に立たん奴らよ……!
何をしておる、早く応援を呼ばぬか!!」
郭シと共に長安を治めている李カクは、帝を守るという口実で今は宮城に戻っている。
決して宮城に呂布を近づけるわけにはいかない。
何としても呂布の侵攻を早々に食い止めねばならない。
郭シは舌打ちすると、憎々しげに呂布め、と吐き捨てた。
いくら呂布軍が精強とはいえ、対するのは数を集めた連合軍。
それも烏合の集ではなく、それぞれ自拠で勢力を伸ばす群雄達である。
これならばいくら呂布でも敵うまい、と高を括って安心していたのだが――
現実は想像の先を行っていたようだ。
郭シはかつて一度だけ、呂布と刃を交えたことがある。
呂布は郭シを格下だと決め付けて一騎打ちを誘って来たから、頭に血が上りつい応じてしまったのだ。
一合打ち合っただけで後悔した。二合目で本能的に恐怖を覚えた。
それでも意地で三度打ち合ったところで、得物を取り落としてしまい慌てて逃げた。
背後で鬼神の嗤う声がしたが奥歯を噛んでこらえた。
それからしばらくは、手が痛んで使い物にならなかった。
養父を二度も斬った、武勇だけが取り柄の理性も知性もない男。
一度は尻尾を巻いて長安から逃亡したくせに、軍師だの何だのと知略をも備えて舞い戻って来るとは。
全く忌々しい。
郭シは、呂布と打ち合った時の彼の得物を思い出した。
肉厚の方天戟。敵を切り裂く、刺し殺すというよりは、その重量と遠心力でもって敵を薙ぎ払うといった言葉が似合う武器。
だがその重鈍な得物を、あの鬼神は軽々と器用に振り回していた。
器用に。
軽々と…………、そうだ。
郭シは方天戟をきっかけに一人の女の存在を思い出した。
その女は――――
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