36.比翼連理


張文遠はその日、溜まっていた仕事をようやく片付け終え、一息ついていた。
そしてある者の存在を思い出す。幾度も戦場を共にした、ある女武将の事だ。

そういえばもう何日も落ち着いて会話をしていない。
互いに忙しいからだ。いや、今は武将も文官も皆が忙しい。
何せ呂布の天下が定まり、乱世が終わったのだ。
もはや前だけを目指して足掻き、我武者羅に戦っていたあの頃とは違う。

泰平の世が続けば、いつかは武将という存在も形だけのものとなるのかもしれない。
だがそんな日はしばらく来ないと言えるだろう。
他ならぬ呂布が、『武』を広い意味での『力』の基準に据えてしまったことによって、つまりさらなる『力』を示せば覇者に成りえることが明言されてしまったからである。

おのずと、では力を示してやろうという命知らずな連中も現れることだろう。
鬼神と言われる呂布の強さは広く知れ渡っているが、それでも、いつの時代にも物分かりが悪く己の力量を冷静に測れないような、どうしようもない輩は湧くものだ。

そんなわけで、ふと英瑠の顔が見たいと思い立った張遼は席を立った。
彼は人づてに、英瑠が城壁へ向かったと聞き馬を引くと、単身彼女の元へ向かったのだった。


張遼が城壁の上へ登り、英瑠を見かけたと聞いた方へ足を向けたとき、彼の耳はその音を捉えた。

唄――それも、女の歌声だ。
その声には確かに聞き覚えがある。
思わず足を止めた張遼は、声の主の正体を心に思い描くと、気配を殺しつつも再び早足で歩き出した。


その後ろ姿は、紛れも無く彼女であった。

姓は龍。名は琉。字は英瑠。
かつて林道で、または洛陽の都で手を差し伸べてから、縁を得て、ずっと共に武を高め合ってきた相手。
さらに部下や同胞としてだけでなく、一人の男と女として情をも交わし合った相手。

彼女は張遼の来訪には気付かない様子だった。
もし気付いたのなら、すぐさま振り向いていただろう。
だが彼女は城内に背を向け、胸壁に頬杖をつきながら安穏とした様子で唄を口ずさみ続けている。
気配の察知に敏い普段の彼女からは考えられなかった。
まるで、背後の城内の者からは刃を向けられる可能性など無いだろうと安心しきったような、無防備な背中。

気配を殺して忍び寄る張遼も人が悪いが、いくらなんでも警戒心を失いすぎではないか。
たとえ乱世が終わったとて、今や彼女も広く世間に名と顔を知られた古参の女武将なのだ。
供の者も居ないのに、無用心すぎやしないだろうか。

そんなことを考えた張遼だが、しかし急いで声をかける必要もないだろうと、今まで聴いた事が無かった英瑠の柔らかな歌声に耳を傾けることにした。
その矢先。

ふ……、と。

唄が終わったと思われた瞬間、張遼の眼前で、その背中は動いた。

英瑠は軽く、本当に軽く、まるで道端の小石でも跳び越すような足取りで小さく跳ねると、すとんと城壁の縁の、凸部分に飛び乗ったのだ。

膂力が尋常ではない彼女はそういえば、体重は普通の人間と変わらなかったはずだ。
そうであれば、己が身ひとつの重さなど、些細な力を使うだけで簡単に持ち上げられるということなのだろう。

そう感心してから張遼は、やや遅れて背筋がさっと冷たくなるのを実感した。
背丈の高さ以上ある狭間胸壁の高所は、厚みがあるとはいえ、その先は柵も何も無い。
地面から垂直に切り立っている高い壁の上だ。

そこから落ちれば怪我では済まされない。
いや、人ならざる彼女の身体能力ならば無傷ということもありえるかもしれないが、それはさておきだ。

胸壁の上に立った彼女からは重みというものが感じられなかった。
たしかにそこに居るのに、どこか軽い、ふわりとした羽根のような印象。

そこで張文遠は気がついた。
彼女は、乱世が終わって平和に甘え、背後を顧みず呆けていたのではない。
英瑠は、城内よりももっと違うものに気を取られているのだ。

その目線の先――城の外。どこまでも続く青空。果て無き悠遠な大地。

張遼は、英瑠がそのまま、先ほどの軽い足取りのように、ふっと城壁から飛び降りて、そのままどこかへ行ってしまうのではないかという錯覚に囚われた。

気付いた時には、叫んでいた。

「英瑠殿!!」

彼女はゆっくりと張遼を振り返った。その顔は少しだけ微笑んでいた。

「大丈夫ですよ。落ちたりしませんから」

そういたずらっぽく笑った英瑠は、これまた軽やかな足取りで凸部分から飛び降りると、張遼の方へ向き直った。
だがそれだけで、彼女は張遼に駆け寄ることはしなかった。
ただ微笑んで、彼に拱手をしただけである。

さぁ、と爽やかな風が二人の間を駆け抜けた。

英瑠の表情からは、何の異変も読み取れなかった。
ただ木々を揺らす風のごとく、当たり前のようにそこに在るだけだった。
彼女は少し照れたような仕草を見せると、張遼の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。

その眼は。

張遼を見つめているはずのその双眸は、どこか遠くへ焦点を合わせたように、朧げで。
けれども。
その内にはまるで、夜空に散らばる星屑のような、地の底から噴き出る熔岩のような、輝きと熱が宿っているではないか。

張遼はその時、心臓を火で炙られたような、熱情と焦燥感に襲われた。

やはり先程の錯覚は錯覚ではなかったのだ。
彼女は、やはり…………。

「英瑠殿。もしや、呂布殿の元を去ろうなどと思っておいでか」

早鐘を打つ心臓を必死で押さえ、極めて平静を装いながら張遼はそう問いかけた。
一方英瑠は、全く予想外の指摘だと言わんばかりに、眼を丸くしつつもはっきりとした口調で答える。

「いえ……。殿が必要としてくださる限り、殿の元を離れることなどありません」

“殿が必要としてくれる限り”……張遼は何故だか、その言葉が引っかかった。

では。
もし呂布殿が暇を与えたのならば、何処かへ去ってしまうということなのか。
そう喉元まで出かかったが、こらえた。
その問いを彼女にぶつけるのは、とても勇気が要ったからだ。

言うまでもないが呂布は今や帝だ。
あの陳宮でさえ人前では彼を陛下と呼んでいる。
もはや彼を名で呼ぶ者など居はしないし、許されはしない。

しかし、それを踏まえた上で張遼の発した一言には、この場にほかの他人が居ないと分かった上での、親密な旧知の同胞へ向けた信頼の証のような――
互いに対してだけ許される密やかな確認の意が、込められていた。
それはまた、以前のように呂布を殿と呼んだ英瑠も同じだった。

「呂布殿が戦で制した武の天下。
私はそれを、これからも支えて行きたいと思っている」

張遼はそう絞り出した。率直な気持ちだった。
乱世は終わったのだ。
この天下は、数多の屍を積み上げてようやく掴んだものである。
これからはそれを、より良い方向へ向かって定めて行くのが時代の覇者たちの責務だろう。

「はい。私も同じです」

英瑠は頷くと、張遼に同意した。
言い淀みなどはない、真摯な口調だった。
彼女は張遼の信頼や親愛を決して蔑ろにしてはいない。
だからこそ、疑問が湧き上がる。

「では何故、」

――あのような、遠い目を。

再び言い淀んだ張遼の目の前で、軽く首を傾げながら微笑んだ英瑠は、完全に私的な顔を顕わにしたといった奔放さで今度は、胸壁の凹みに軽く飛び乗った。

まるで、鳥が何の気なしに、今にも折れそうな枝に止まるように。
たとえ枝が折れて地に落ちたとて、翼を持つ鳥にとっては関係ないのだ。

止まり木への興味を失った鳥は、羽ばたいて何処かへ飛んでいくのだろう。
真っ直ぐに。後ろを振り返ることもなく。

「英瑠殿、」

そうだ。彼女には翼があったのだ。
そして、鳥籠はない。ここには止まり木しかない。

考えてもみよ。
夫を持たず、血を分けた親は亡く、家長ではないゆえ一族に対しての責任を持たず、かわりに心地良い居場所も与えられない女が、荒野にあってもたった一人で生き抜いて行ける武を持っていたら。

そんな女が、主君という鎖からも、解き放たれたら。

まるで鳥のように、放たれた矢のように、たちまちどこかへ飛んで行ってしまっても、不思議ではないではないか。

――言いたいことは沢山あった。
呂布はあの調子だから、英瑠が望めば容易く彼女を手放すだろう。
だがもはや、彼女の存在は呂布麾下においても決して小さくはない。
去るとなれば、引き止める者も沢山出るだろう。
何よりあの、異母姉を慕っていた弟が何と言うか。彼は悲嘆と激怒をいっぺんに示すだろう。

――――違う。そうではない。
そうではないのだ。

誰よりも、何よりも。
彼女を求める理由は、伝えるべき心は、ここにあるではないか。

張遼は拳を握りしめ自らの胸に当てると、力強く一歩前へ踏み出した。

胸壁の上で心地良い風を受け止めながら、空を横切る鳥に目を遣っている英瑠。
その横顔はとても、一騎当千の猛者とは思えなかった。

張遼は、彼女の元まで走り寄ってその身を抱きかかえ下に降ろしたい衝動に駆られながらも、それでは駄目だと自戒した。

もはや飾りはいらない。
ずっと言おうとして言えずにいた、本心を吐露するしか、彼女に手が届く方法はないと思った。

鳥籠では意味がない。
止まり木を差し出すしかないのだと、
そして!


「英瑠殿、どうか私の妻になっていただきたい」


――――それを聞いた時、英瑠の顔は確かに綻んだはずだ。

嬉しさの滲んだ、屈託の無い素直な笑顔だった。
少なくとも張文遠の目にはそう見えた。

しかし、それだけだった。
彼女の笑顔はすぐに、どこか寂しそうな曖昧なものとなった。
まるで、己を律するように。
そして、「文遠様、」とここに来てから初めてその名を呼んだ。

だから張遼は彼女にそれ以上喋らせなかった。
決死の求婚をしているのに、英瑠は城壁の縁から降りて来ない。
それが何よりの答えであることを、彼は知っていたからだ。

「英瑠殿。いつかの祭りの後の告白は覚えておられるか。
乱世が終わっても、共に在りたいと思う――その心は、今でも変わっておらぬ。
私の心はいつでもそなたと共にあると誓ったはずだ。
英瑠殿も、その誓いに同意してくれたではないか」

張遼は食い下がる自分を、いささか女々しいと自覚はしていた。
だが引き下がれなかった。
これは張文遠という男の決死の勝負だった。

「正直に申してくれ。そなたの心がもはや離れたというのであれば、私も諦めがつく。
手心など加えず、どうか本心を話してほしい」

「私は今でも変わらず文遠様をお慕いしております。
誰よりも、何よりも」

「では何故!」

張遼が少し声を荒げると、英瑠はまた、寂しそうに微笑んで、目を伏せた。
声を発さずに。狭間胸壁の窪みに立ち、張遼を見下ろす形になったまま。

「…………私の身と心が、一時でも人間の殿方と寄り添えると分かったので。
それだけで充分幸せなのです。もう、これ以上望むものなどありません」

「なっ……!」

「私がここを去るなどと判断されたのは、今は杞憂に過ぎないと思ってください。
具体的にどうしたいかなどとは考えておりません。
ただ……、そう…………、実体のない、他愛のない空想に耽っただけなのです。
私はまだ、殿の元で成すべき事も、成したい事もございます。
文遠様とだって……許されるなら、今のまま、緩やかに同じ時を過ごせたらと」

「英瑠殿……!」

張遼の目には、英瑠が努めて平静を装おうとしているように見えた。
もし彼女が、もっと冷めたように事務的に理由を述べたのなら、彼の心ももっと早く冷静さを取り戻していただろう。
けれども英瑠は、何かを堪えるような体で眼を伏せ、寂しそうに微笑んでいるだけなのだ。

「……、私では力不足だろうか……?
一時の情愛に身を任せる事は出来ても、私を夫として一生を共にする事は出来ぬと」

「そんなことはありません……!! そんなことは……決して……!!」

張遼が問いかければ、英瑠は弾かれたように彼の言を否定した。

「決して一時の情などではありません……!
後にも先にも、私の心には文遠様しかおりません……!
それだけは誓って……、嘘偽りない本心でございます……!!」

彼女は城壁の縁に上がったまま膝を折ると、先程まで彼を見下ろしていた戯れを謝罪するように頭を下げた。
しかし彼との見えない距離を保つかのように、頑なに胸壁からは降りてこない。
まるで、それが答えだと言わんばかりに。

「理由を申してくれ英瑠殿……!
互いに役職のある将同士という、己を律しなければならない立場ゆえか……?」

――だが乱世は終わったのだ。
頭頂から爪先まで戦場の空気に浸かり、返り血を浴びて神経を昂らせていたあの頃とは違う。
忙しくとも平穏な時を過ごし、共に歩んでいく余裕くらいはあるはずだ。

「女人とはいえ英瑠殿が万夫不当の武人であることは、私が誰よりもよく承知している。
武器を捨て、淑やかに夫に仕えろなどとは決して言うまい。
いや、もしそうしたいと願うならそれでも良い。
そなたの望むように致そう」

「そんな、文遠様……! 私には勿体ないお言葉です……!
どうかそのようなことをおっしゃらないで下さいませ……!
私は……、私は………………。
……人と夫婦になど、なってはならぬ身です、だから」

「何を……!」

張遼の脳裏を一条の閃光が掠めていく。
まさか。
この後に及んで、まだ己の出自に後ろめたさを感じていると言うのか!?

「英瑠殿が何者から生まれ落ちようと、そなたはもはや人間ではないか……!
今更後ろめたさを感じる必要がどこにあるというのだ……!
この張文遠とて、もはや臆するものなど一切無し! 安心めされよ……!」

張遼は色めき立ち、説得するような物言いで英瑠が感じている後ろめたさや不安を杞憂だと説き始めた。

その真剣さにきちんと向き合う必要があると思ったのか、英瑠も微妙な笑顔で誤魔化すことはやめ、相変わらず胸壁に乗ったまま正座で彼と向き合った。

端から見たらその光景は冗談にしか見えなかったことだろう。
帝に懇親的に仕える武将二人が城壁の上で、かたや立って何かを必死に説き、かたや胸壁の狭間で仏像のように正座し神妙な面持ちでそれを受け止めているという、奇妙な光景だったのだから。

英瑠は張遼の言い分を全て受け止めると、しかし距離を置くようにやんわりとそれを否定した。

「文遠様のお気持ちは言葉に出来ぬほど嬉しく思っております。
文遠様と一生添い遂げることが出来たらどんなに幸せだろうと、夢想したことも幾度もございます。

……でも、やはり駄目なのです。
文遠様だけでなく、一族の方にも迷惑がかかります。
どうか、お許しください」

それを聞いた張遼は間発入れず反論に転じた。
彼は首を振り、さらに熱を込めて真っ直ぐに彼女を見つめる。

「歴史の中には、生まれや血筋が貧しくとも、実力で高みに上った英傑がいくらでもおられるではないか。
英瑠殿はその比類無き武によって、幾度も勝利に貢献して参った。
その実力と、それに見合う今の地位は誇るべきものであろう!
血がどうであろうと、誰も今のそなたを軽んじることなど出来はしまい……!
……否、させぬ。この私が、誰にもそんな真似は絶対にさせん……!」

「文遠様、そんな、私には勿体ないお言葉です」

これはもはや、互いの人生と覚悟を賭けた攻防だった。

そして張遼は、絶対に引けないと思った。
何故なら、彼女の心がもはや遠くにあるのならいざ知らず、そうではない今の彼女からは、本心を無理矢理押さえ付けたような、そうせねばならないというような悲哀が滲み出ていたからだ。

本人は恐らくそれに気付いていない。
知らないのだろう。今自分が、泣きそうな顔をしていることなど。

張遼は深呼吸を一つすると、目を閉じ、頭を整理することにした。
英瑠も同じなのだろう。彼女も視線を横に泳がせたまま黙り込んでしまった。

彼らは武人なのだ。絶えず口を開きながら、次の策を頭で考える事が出来る頭脳派な文官とは違う。
彼らは今まで、考えるより先に体を動かしてきた。
口で説明するより行動で示すことを得意としてきたのだ。

だが今、この場にあっては、言葉以外に本心を伝える術など無い。
たとえば強引な抱擁など行動で訴えたところで、それは一時しのぎにしかならないだろう。
本当の意味で互いの溝を埋めるためには、拙くとも、言語を駆使するしかないのだ。
それがどれほど無骨で、武人然とした直接的なものであっても。
張遼はそう考えていた。

考えた先で。
彼は、未だまとまりきらぬ頭から、ようやく言葉を絞り出した。
彼女に届くようにと祈りを込めて。

「……そなたがどんな血を引いていようと、どんな力を持っていようとも。
私が安らげる場所はそなたの隣なのだ、英瑠殿」

ゆるやかな風が、そっと張遼の髭を撫でた。

英瑠は伏せていた視線を張遼に向けると、小さく唇を噛んだ。

「信じられぬか? ならば一人の男の長話に付き合って欲しい。
……私ははじめ、英瑠殿の比類無き武に惹かれた。それは事実だ。
その小さな身体で荒々しい豪傑も敵わぬほどの武を振るうそなたの姿には、目を見張るものがあった。

……だが、次第にそれだけでは済まなくなっていった。
武の気配を纏わぬ時の素の姿。その笑顔、所作、人となり。
そんな普段の英瑠殿からも、目が離せなくなっている私がいたのだ。

そなたの振るう武が人ではない力に由るものならば、普段の英瑠殿の姿は人としての本来のそなたであろう。
私はどちらのそなたも慕っている。半人半妖、文字通りその両方を。
そなたの全てが欲しいのだ、英瑠殿……!」

黙したままの英瑠に追い打ちをかけるように、張遼は慣れない言葉を次々に口にしていく。

情熱的な愛の告白に、張遼を直視することに耐えられなくなったのか、英瑠は再び視線を外していた。
彼女の顔は耳まで赤らんでいるように見える。

そうして張遼が己の胸の内をさらけ出した後は、沈黙がその場を支配した。

風の吹く音と、遠く聞こえる民の喧騒が耳をつく。

ずっと黙り込んでいた英瑠は、唇を震わせるとようやく返答を口にした。

「…………私の落ち度は血だけではありません。
私は、さんざん殿や文遠様や皆に良くしてもらって、ようやくここまで上り詰めてきたはずなのに……
その恩を、宝物を、手放すことを想像してしまう愚か者なのです。
それも、ほんのちょっと、あの空の先が気になるなどという理由で」

英瑠は己が抱える性分、逃れられない業のようなものを自嘲するように息を吐き出した。

張遼は返す。

「我ら武人は乱世に生き、大地を駆け、呼吸をするように武を振るってきた。
いざ平穏の世が訪れ、武から遠ざかった時間が長くなり、戸惑いを感じる気持ちは私にも理解出来る」

「それにしたって、我ながら随分勝手すぎると思います。
そもそも、最初に私の武を認めて軍に入れてくださったのは、文遠様でしたのに。
あの残酷な董卓軍にあって、女である私が他の将からひどい悪さをされずに済んだのは、文遠様がさりげなく配慮してくださったからですよね……」

「……、それは」

「愚かにも私はそれを、弟から指摘されて初めて知った始末です。
本当は、もっと早く、きちんと文遠様にお礼をすべきだったのに」

「何を。礼を言うのはこちらの方だ。
戦場で一騎当千の武を発揮する英瑠殿、そして女人としての麗しき英瑠殿……
私は両方のそなたと巡り会えた幸運を、誰よりも天に感謝しているぞ」

「勿体無いお言葉です……!
ただ心の赴くまま行動する、奔放で勝手なこんな私が。
おこがましくも夫婦などになって、文遠様の隣に居続けて良いわけが……」

「しかし、建前や義務を全て取り払ったならば……!
そこに在るたった一人のそなたの心は、私を選んでくれるのであろう……!」

「それは、……」

「英瑠殿……! 私を拒む理由を探し続けると言うのなら、いくらでも付き合おう。
だが退くことはせんぞ……!
英瑠殿が、私と共に人生を歩む気がないと申さぬ限り」

「…………、」

英瑠は明らかに戸惑っていた。
頑なだと思われたその心に、迷いを生じさせているように見えた。

彼女は、それでも言い訳を続ける。
双眼を潤ませながら、たどたどしい声で。

「でも、今は良くとも……、いずれ、後悔されるかもしれませんよ」

「後悔とはこれまた。
英瑠殿、そなたは今までの人生で幾度後悔を覚えたと申す……?
過去の己の判断の未熟を悔いても意味無き事。
武人は過去の敗北を反省し、そこから学ぶものであろう。
もっとも、そなたと歩むと決めたこの決断を、未熟などとは生涯思うまいが」

「…………、これからも先程のように上の空で遠くを見つめていたら、文遠様を呆れさせてしまうでしょう」

「そんなことはない」

「これだけ大切なものに囲まれているのに……私はなんて夢想を」

それは独り言にも似た自嘲だった。
張遼が揺らがないものだから、彼女はもはや拒む理由を己を蔑むことでしか見い出せなくなっているのだ。

己の理性ある精神さえ振り回す、止まない熱。
彼女はずっとその熱に翻弄されてきたのだろう。
それは彼女の妖としての部分に由来するものだとは言いきれないということは、張遼にも分かっていた。

龍英瑠という生物の、ありのままの気質。魂、精神性。

だがそれが何だ。
止まない情熱が無ければお互い今ここには立って居なかった。数多の苛烈な戦場を生き延びては来れなかった。
今や帝になった呂布だってそうだ。
背中を灼かれるような迸る激情があったから、彼は天下を掴んだのだ。


英瑠は声を震わせ、今にも零れ落ちそうな涙を堪えて語る。

「ずっと、隣に居られたら。でも、そんなことは……!
願っては、いけないと」

「英瑠殿」

英瑠は、覚束無い足取りで再び胸壁の上に立ち上がった。
その潤んだ瞳が、張遼を見下ろす。
彼女はもはや空を見上げてはいなかった。
その目には、張遼という名の武将だけが映っていた。

張遼も、その眼を真っ直ぐに見上げた。
彼は英瑠のすぐ真下まで近付くと、握りしめていた拳を開き、両腕を広げた。

言葉でしか伝えられないのならば。
ただ、伝わるまで伝え続けるしか、無いのだと!


「英瑠殿……!
日々の中で燻ぶる熱があれば、どうか私にぶつけて欲しい……!
私にも燻ぶるものがある。それは武人である限り決して消えることは無いだろう。

そなたがもし、世界の果てを見たいと申すのなら共に参ろう……!
だが、独りでは行くな……!
そなたの歩む道と私の道は、決して分かたれるものではないと信じている……!」

「わ、私は………………、
っ私は、文遠様と、夫婦として、共に歩いて行けるのでしょうか」

「行けるとも……!
先の見えぬ未来、共に支えあい生きていこうではないか……!
我ら二人ならば恐れるものなどこの世に無し……!」

「……っ、文、遠様、
…………私は、子を成せるかどうか分かりませんが、それでも」

「構わぬ……! この張文遠に二言無し……!
ただ私の隣に居てくれれば、他に何も望まん……!」

「っ、……………………、
私のような奔放な女ではなく、出自のきちんとした、ちゃんとお家を守れる女性を、正妻に、」

「そなたが望むなら考えても良い……!
だが、英瑠殿は生涯私の妻だ。
何があっても離さんぞ……!」

「文遠さま、私は、私は…………!」


「…………愛している、英瑠殿。
どうか、降りて来て欲しい」

――――その時、とうとう彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。


「私も、愛しております……! 心から、」

そう告げた英瑠は、そっと胸壁から飛び降りた。

腕を広げた張遼は、彼女の身体をしっかりと受け止め、そのままきつく抱き締めた。

二度と離さぬように。

英瑠もまた、その身を宙で受け止められたまま、彼の想いに応えるように、張遼をきつく抱き締め返した。

二度と離れぬように。

彼女は涙で声を震わせながら、張遼の耳元で囁いた。

「ずっと見ないようにしてきました。見てはいけないと思ってきました。
でも、ようやく向き合えます。
乱世が終わり、今度こそ情熱を注ぐべきもの。命を掛けるべきもの。生きる意味。私の半身。
意地をはって、本当にごめんなさい……!

……大好きです、文遠様。大好きです……!」



乱世の中、武人であり続けた男と女。

彼らはただ前に進み、未来を切り開き、武の高みを目指すために得物を振るい続けた。

そして今、乱世は終わりを告げた。
彼らが主と奉じてきた、最強の男の手によって。

彼らはこれからも。
乱世の果てにある道を自らの足で歩き、進んでいくのだろう。

武人として、帝に仕える将として、あるいはただの男と女として――――



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