35.乱世の果てに


龍英瑠と呼ばれる女が居た。

彼女は呂布配下の将で、主と同じ方天戟を振るう武人で、そして――
人ならざる母の血を引く半人半妖だった。

だが彼女の心は人間だった。
彼女は、人間として武芸の腕を磨き、人間の武将として戦場に立った。

彼女の家族……亡き父や、異母弟たちや、継母は正真正銘の人間だった。
大人になった彼女は、それらとほど良い関係を築きながらも適度な距離を置き、夫を持つこともなく、戦場で武器を振るい続けてきた。

彼女には想い人が居た。
張文遠というその男は、同じく呂布配下の武将で、幾度も彼女と共に戦場に立ち、武を振るっていた。
そしていつしか二人は、戦場から離れている時も共に時を過ごす仲となった。
それは、彼女にとって何よりも幸せな時間だった。
彼の存在と温もりは、彼女にとって、掛け替えのない、生きる歓びの一つであったはずだ。

だが、しかし。
しかし、なのである。



穏やかな青空の下、英瑠は城壁の上に立っていた。

都市全体を囲う城壁から街を見下ろせば、人々が絶え間なく城門を行き来していく姿が目に入る。
一時は李カク・郭シたちの圧政や焼き討ちによってだいぶ荒廃していた長安だったが、今はかなり復興を遂げ随所で賑わいを見せているようだ。

彼ら民の顔には今や、乱世に怯える翳りはない。
そうして市井の人々は、各々が各々の日々を懸命に生きていくのだろう。

英瑠は呂布の手によって乱世が終結し、天下泰平の日々が訪れたことに心底喜びと、達成感を感じていた。

帝となった呂布は格式ばった不自由な皇帝のしきたりを嫌い、細々とした執務からは遠ざかりながらも、新たなる国の求心力として威光を示し、時に自ら軍を率いて戦いに赴いている。
乱世が終わったとはいえ、いきなり争いがなくなるわけではないからだ。

それは、張遼ら呂布軍の将たちもまた同じであった。
呂布の強さを直接知らない者たちが規模は小さくともいくつか反乱を起こし、その鎮圧に出向くこともあったのだ。
やはり、辺境の異民族を含め大陸全土が新たなる帝の権威を認めるには、それなりに時間がかかるのかもしれない。
さらには、拡大した自勢力の軍務や政務、様々な工事に、日々増えていく人員への引継ぎ。
やることは山積みだった。

元は一介の軍師であった陳宮は、念願叶って帝を支えるという名目のもと絶大な権力を手に入れ、実質的な国の舵取り役として忙しい日々を送っている。

彼は、以前と変わらず気ままに振舞おうとする主をうまく誘導する傍ら、新たな国の方向性も決めねばならず、誰よりも難しい立場にあると言えた。
しかし彼は手にした力を持て余すどころか、多忙の中でさらに輝き、本領を発揮しているようだった。
野心家で努力家である彼は、歴史に名を残す名参謀としてこれからもますますその敏腕を揮っていくことだろう。

貂蝉は正式に呂布の妃の一人となり、相変わらず呂布の隣で彼を見守っていた。
呂布の娘・呂玲綺共々、今や『帝に近しい者たち』は、その立場がぐっと上へ押し上げられたのだ。
彼女らはもはや、気軽に外を出歩ける身分ではない。

だが不自由さと引き換えに、彼女たちの発言や行動は政治的な力を持つようにもなった。
たとえば貂蝉が、今後の治世に必要だと思った名士や組織に近付くだけで、後ろ盾を得たそれらには人が集まるのだ。
人が集まり、使われるべきところに金が使われれば、やがては富国に繋がっていく。

そして呂玲綺だが、彼女は長安奪還戦のささやかな初陣を経て、更に武芸の稽古に勤しんでいたりもする。
彼女が広告塔となり武芸の腕を披露すれば、それに憧れた人民たちは皆こぞって武芸の稽古に精を出すようになり、体を鍛えることがちょっとした流行にもなった。
英瑠はいつかの約束どおり時折彼女の相手を務め、貂蝉も交え彼女たちと親密な時間を過ごすのだった。


そして英瑠も、多忙な将らの一人であった……のだが。


彼女は己の役目を全うしていた。
反乱を鎮め、治安の向上に尽力し、苦手だった机の上の執務もだいぶ勉強した。
そうして彼女は、ようやく一息ついて、今、独り城壁の上で憩いの時間を享受しているところなのだ。

英瑠は城壁の縁(ふち)、胸壁に手を掛け、城外に目を遣っていた。
田畑と木々、草原、そして遠く浮かぶ山々。
それらで形作られる大地は、見渡す限り果てなく広がっていて、英瑠の視界全体に映りこんでいる。

空を見上げれば、鳥が羽ばたき、やがて遠くへ飛び去っていった。
肉眼で捉えることすら叶わない、果て無き空の向こう。広大な大地。


もし。
もしも。

まだ見ぬ世界が、あの空の果てにあるとして。


英瑠は、何の気なしに、本当に何気なく、その光景を思い浮かべた。
たった一本の方天戟を、握り締めた拳ごと、天に掲げてみた、自分の姿をだ。

供も無く、兵も無く、たった独りで。
誰も知らない荒野に立って、天へ武器を掲げたら。


最強で在り続けた男――呂奉先の刃は、とうとう天へ届いた。

ならば。
その男によって乱世が終わった時、呂布軍の将としてではない、龍英瑠という存在の個としての刃は、一体どこへ向かって掲げれば良いのだろうか?

それは主君に反旗を翻すという意味では断じてない。
そもそも、武人として配下として呂奉先の武に憧憬はあれど、それを打ち倒して彼に成り代わりたいなどとは微塵も思わない。
もしも彼に代わって天下を獲ったとて、そこに望むものがあるとも思えない。
第一彼だって、『好きなように生き、戦うために天下を取る』と口にしていたではないか。

彼は権力や帝の座が欲しかったわけではない。
ただ、自らの望む在り方に由って生きる、という意味での『自由』。
自由に、生きたかっただけなのだ。

それはまた、英瑠も同じだったのかも知れない。
力を存分に振るい、武を極める。
武によって己の在り方を問う。
将としてのその極致は、もはや定まったのかもしれなかった。

洛陽で、濮陽で、定陶で。乱世に颯爽と現れた曹操や劉備。北の名族に、南の武門。
そして最後の、長安での決戦。
出すべき力は出し切ったはずだ。
彼女自身、数多の英傑と刃を交える中で、その完成形が朧げながらも見えたはずだ。

では至高の武とは一体何だったのだろう。
最強と言われる呂布など他者との比較や、憧憬ではなかったはずだ。
もっと、己自身で育てあげ、完結するものだ。

では龍英瑠個人は、武の極みに辿り着いたと言えるのだろうか。

答えは――わからなかった。
冗談ではなく、本気でそう思えた。

先の戦で力を出し切ったと言われればそうなのかもしれない。
だが、燃え尽きたと言われれば違うような気もする。
英瑠の中には未だ冷めやらぬ熱が確かにある。
その熱が何なのかわからないから、戸惑っているわけなのだが。

引っ掛かりは他にもあった。
他でもない、最愛の人とのこれからの在り方についてだ。

乱世は終わった。大きな戦ももはや無い。
では、そんな穏やかな日々の中で、心を寄せた武人と共に在り続けるには。

夫婦、などという解を、英瑠は頭にちらついた瞬間に打ち消した。

それは望んではならないものだ。
たとえ、当の張文遠が望んだとしても――

英瑠は空を見上げ、そんなことを延々と考えた。

明確な答えは出なかった。ただ、心に残る熱だけがじりじりと背中を焼く。

まるで、動けと言わんばかりに。
まだ道は終わっていないと急かすように。


もし。
もし、己の道が、まだ先にあるのなら。
たとえば、ここではない、未だ見ぬ世界の果てで。

――馬を駆り、
否、馬さえ無く、
自らの足で大地を疾走し、
見ず知らずの敵軍とたった独りで対峙する。

向かってくる人波を、
迫り来る暴威を、
ただ一つの鬼となった自らが受け止め、
粉砕する。

そんな抽象的な――

それは子供じみた妄想だった。ありもしない空想上の光景だった。

具体的な戦場や敵がどうこうではない。
何かを目指して生きてきた。
『何か』という抑えがたい熱に駆られているだけなのだ。

その形のない熱を夢と呼び、一人飛び出し旅人のように彷徨い歩いたとしよう。
その先に在るのは、心躍る新天地ばかりではきっと無いはずだ。

人はいつか衰える。
それは人の世で生きる半人半妖とて例外ではない。
手の中にある物を手放した彼女が最後に辿り着くのは、何処にも道はない、崖の上ではないのか。

そうではない。求めるものはそんな先細りの未来ではない。

ただ、衝動なのだ。
未だ燻る熱の行き先。生きる意味と言い換えても良い。
命を投げ打つ価値があるもの。
灰になるまで燃え尽きてもまだ足りない『何か』。

力がある。未来がある。
まだ成すべき、成せる事がきっとあるはずだ。
この、人の世で。


彼女はふふ、と自嘲めいた笑みを浮かべると城壁の端にもたれ、体を預けてさらにふふふと笑った。

彼女の笑い声は、やがて音楽になった。
戦場で叫ぶそれとは全く違ったしとやかな声で、彼女は唄い始めた。
人に聞かせるものでは到底無い、拙い素人の唄。
その歌詞は、悠遠な大地に想いを馳せ、明日への夢を語る希望の詩だ。

いつか聞いたその唄を、英瑠は独りで口ずさむ。
城の外に体を向け、凹状になっている狭間胸壁から上半身を乗り出して、頬杖をつき。

ゆるやかな声で、彼女は音を奏でる。
遥か遠くに見える山の稜線を、目でなぞりながら。

英瑠は、唄う――――



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