29.賽子


呂奉先。

鬼神と呼ばれるその存在は、英瑠にとって憧れであり、目標であり、主君であった。


話は変わる。

――――城。
そう、一口に城と言っても、意味合いは割と幅が広かったりする。
まず、ひとつの城名を挙げた時、たいていそれは街全体を城壁で覆った城郭都市を意味する。

広く、高く、四方から都市(城市)を囲う、城壁。
城郭とも、城牆じょうしょうとも言われるその城壁の内側には、街が作られ、商店や工房が立ち並び、市井の人々が生活を営んでいた。
祭りなどもここで催されることが多い。
一方、田畑は城壁の外に広がり、都市の人間の食糧生産を担っていた。
ここが洛陽や長安のような帝のおわす場所なら、都市の中央には荘厳な宮城が建っていたことだろう。

英瑠を含め、主要文武官は戦の無い時はたいてい政庁や軍関連の勤務先に出仕し、執務や軍務をこなしていた。
そしてたいてい自邸へは帰らず、宿舎などの自室に寝泊りし翌日の勤務に備えるのだ。


そんなわけで。

城内の者たちによる鬼神目撃談を追っていった英瑠は、広く街が見渡せる建物の最上階でようやく呂布の姿を発見した。

その呂布はというと、一人で外に面した回廊に堂々と立ち、夕暮れも近い空の下、欄干越しに見える街並みとそのさらに遠くにうっすらと見える城壁を黙って見つめていた。
その横顔からは何の表情も読み取れない。

呂布を見つけた英瑠は、彼に存在を知らせるように横からつかつかと歩みよった。
もし、気配を殺して静かに近付こうものならどうなるか。
考えるのも恐ろしい、と英瑠は思ったのだ。


「……陳宮か」

英瑠が一定距離まで呂布に近付くと、彼は英瑠に視線すら寄越さずにそう口にした。
一応陳宮との約束は覚えていたらしい。では何故すぐ向かわないのか、という疑問はあるが。

「はい」

英瑠が一語で返せば、呂布は鼻を鳴らし
「ふん。せっかちな奴め。慌てずともすぐ出向いてやるわ」
と吐き捨てた。

だが言葉とは裏腹に、呂布は遠くを見渡したまま動こうとすらしない。
さてどうしたものか、と英瑠が両手をすり合わせた時。

「……英瑠。お前も物好きな奴だ」

呂布は確かにそう口にした。

あの鬼神呂布が、英瑠の名を呼んだのだ。
陳宮が待ってますよと主を呼びに来ただけの遣いを、呂布はきちんと自軍の将軍・英瑠だと認めてその名を口にしたのだ。

思わず目を見開いて固まってしまった英瑠に、彼は更に言葉を浴びせ掛ける。

「俺にここまでついてくるとはな……。
お前はよほど強さに惹かれる性質らしい」

呂布は確かに今、英瑠という部下に話しかけていた。
予期せぬ台詞に、歓喜と驚愕が瞬時にこみあがってきた英瑠は、「殿、」と口にしてさらに数歩呂布に近付いた。

「生意気にも方天戟を振り回すとは、怖いもの知らずな女だと思っていたが。
……その強さは認めてやる。英瑠」

そう言い切った呂布は、それまで街並みを見渡していた視線を逸らし、英瑠の方をきちんと見据えていた。

交差する鬼神と半人半妖の視線。

英瑠は、呂布が自分の名前を呼んでくれただけでなく、あろうことか今まで面と向かって言ってくれることなどなかったある種の賛辞を――
今、呂奉先がはっきりと口にしたのだという事実に気付くまで、しばし時間を必要とした。

そして、ようやくその事実に気付いた英瑠は、さらなる感動と歓喜に唇を震わせながら、ただ一言、礼を述べることしか出来なかったのだった。

そんな英瑠の様子に、呂布は少しだけ鼻で笑うと彼女を見下ろし、しかしどこか柔らかいような、気の抜けた様子で言い放った。

「張遼も物好きな奴だ。
お前のような女が良いとはな……俺には理解出来ん。
……だが、戦場で背中を預けられる武にあいつが惹かれたのだと考えれば、多少はわからんでもない……」

「っ!?」

今日の呂布からは、予想外の言葉ばかりがぽんぽんと飛び出てくる。

あまりの予想外さに、英瑠は目の前に居る男があの鬼神だということも一瞬忘れ、さらに目を丸くして素で言葉を返してしまう。

「文遠様との事をご存知だったのですか!?
……あっいえ、張……将軍の…………、
っ、…………なんでもありません」

陳宮や貂蝉に知られている時点でこうなることは予想しておくべきだったとは思ったのだが、それでも英瑠は自分たちの関係が主君に知られていたということにいたく衝撃を覚えていた。

固まる英瑠をよそに、呂布は鼻を鳴らして再び街並みに目を遣ると、ごく自然とも言える雰囲気で、再び口を開いた。
その声は、いつもの近寄り難く重々しい鬼神のそれではなく、まるで家庭の中で家族に話しかけるそれのような、穏やかなものだった。

「張遼にあまり迷惑を掛けるなよ。
英瑠。あとはお前の思うままに力を振るえ」


ざぁ、と風が吹いた。

風は呂布の頭の飾りを揺らし、英瑠の目の前で軽やかに舞い踊った。

「はい。頑張ります」

英瑠はそれだけ口にすると、呂布に拱手して力強く頷いた。もう、他に言葉は要らなかった。

彼女の目に映る、飛将呂布の力強い横顔。
そしてその呂布の目に映る、栄えた街並み。

かつての呂布は、本拠地の一つも持たない流浪の暴鬼だった。
だが今の彼には全てがある。豊かな土地も、民も、将兵も、――未来も。

人中に呂布あり、馬中に赤兎ありと言われた鬼神は、文字通り人の中で足掻き続け、そして今、人としての高みに登ろうとしていた。
そのひたむきな武は、人と人ならざる者の狭間で足掻いてきた英瑠の心に大きく響いた。

そしてそんな『人中最強』が、正面から、誤魔化さずに、英瑠を一人の武人として認めたのだ。

これほどの喜びが、他にあるだろうか。

主である呂奉先からはついぞ、英瑠の生まれについての言葉は出なかったのだ。

英瑠は、自然とこみあがってくる涙を堪えるために、顔をそむけずにはいられなかった。


「……おい」

そんな英瑠の頭上から、心なしか低い呂布の声が掛けられる。
英瑠は弾かれたように主に向き直り、慌てて涙を拭いた。

呂布は口を引き結び、憮然とした様子で英瑠を見下ろしていた。
もしや、涙ぐんだのが彼に気付かれてしまったのか!?と英瑠が危機感を覚えた時。

「英瑠。陳宮のところへ案内しろ」

「…………、」

たちまち涙の止まった英瑠が、どこか気まずそうな主の言葉を、反芻してみると。

つまり、この鬼神は。
陳宮と約束した場所を、どうやら綺麗さっぱり忘れてしまったらしい、と。
……どう頭を捻っても、そうとしか考えられなかった。

それに気付いた時英瑠は、なんだかとても微笑ましいような気持ちになって、そういえばと、とある事を思い出した。
以前貂蝉が、『空腹を我慢していたら呂布がすごい勢いで「憂い顔の原因は何だ」と心配してきて、内心笑ってしまった』
という話をしてくれたような気がする。
恐らく、本人は至って本気なのだろうが。

そんなわけで英瑠の頭の中では、いま目の前で気まずい状況なのにやたらと堂々としている呂布と、かつての逸話のどこかズレた呂布の姿が折り重なり合い、主君に悪いとは思えどもつい声を上げて笑ってしまったのだった。

もしこれが一介の兵士ならば、たちまち自分の軽率な反応を死ぬほど後悔しただろう。
事実、英瑠であろうとも結局はそこから逃れる事はできなかった。
彼女は直後に我に返って自分の口を押さえ、落ちてくるであろう呂布からの雷に身を竦ませた。

だが。

呂布から降ってきたのは、罵声でも、舌打ちでも、ましてや怪力を振るった鉄拳でもなかった。

コツン、と当てられたそれは。

彼は憮然とした表情で、英瑠の頭を軽く小突いたのだ。
それも、緩く握った拳の先でたった一度だけ。

まるで兄が妹の悪ふざけを咎めるように、あの剛腕から繰り出された拳とは思えない弱さで、ごくごく軽く。

そのまま呂布は大股で彼女の横を通り過ぎ、振り向いてから「早くしろ」と吐き捨てた。

英瑠がパタパタとした足取りで慌てて呂布の先導をしたのは言うまでもない。


そう。

人中最強、飛将軍、鬼神とはいえ、彼は妻も子も居るただ一人の男なのだ。
貂蝉や呂玲綺と話す時は心なしか口調が穏やかになる彼は、もしかしたら邸宅の中では今の一幕ように、外とは違った一面を見せているのかもしれない。
他ならぬ、英瑠がそうであるように。

戦場でしか英瑠を知らない敵はきっと、彼女を今でも血も涙も無い化け物か何かだと思っていることだろう。
張遼だってそうだ。戦場での苛烈さと普段の紳士的態度、そして愛を囁く時の情熱的な体温。
英瑠でさえ、まだその全てを知ったわけではないと自覚している。

陳宮だって……一見、飄々として見える彼は、その内に途方も無い野心を抱いていた。
貂蝉だってそうだ。かつて彼女は、その柔らかな胸の中に、悲壮な使命を隠していたではないか。

誰だってそうなのだ。
人は、目に見える一面では測れない。
だからこそ争い、だからこそわかりあえる。

英瑠は自分の後ろを律儀に着いてくる主君の足音を聞きながら、そんな事を考えた。

――乱世が終わった先の世界を見たい。

彼女は心から、そう思ったのだった。





陳宮の元へ呂布を送り届けた英瑠は、帰宅するために厩舎へ向かっていた。
彼女は、馬を連れて来ますと言う下働きの申し出を断り、自らの足で馬を取りに行くことにしたのだった。
理由は単純。ただ歩きたかったからである。

貂蝉、陳宮、呂布――
彼らの熱に当てられたように、英瑠の心は弾んでいた。
心模様につられたように、その足取りも自然と軽くなる。
帝のおわす宮殿内を早足で進む臣下よりも速く、草原を駆ける駿馬のように堂々と顔を上げ、彼女は小走りで前へ進んだ。

頬に当たる風が気持ち良い。
日は既に沈み始め、夕暮れの気配が城内を静かに照らしている。
この太陽が沈み、再び昇る頃には、城内は出征していく将兵で埋め尽くされていることだろう。
勿論英瑠もその中に混じっている。
馬に跨り、戦装束を纏い、武器を手にして。


「英瑠殿」

厩に足を踏み入れるなり、よく聞き慣れた声が英瑠の名を呼んだ。

「、文遠様……!」

反射的に字を呼び返す。
彼をその名で呼ぶようになってから、もうどれくらい経っただろう。
名だけではない。
その声も、姿も。気配も。
まるで視界の中に居るのが当たり前のように、張文遠という人間は英瑠にとって無くてはならない、かえがえのない存在になっていた。

張遼は厩舎で馬の最終確認でもしていたのだろう。
彼の近くに居た軍つきの馬丁は、その目に来訪者である英瑠の姿を認めると、丁寧に拱手をして張遼にも一礼すると気を利かせて去っていった。

そうして、人けの無くなった厩の中で向かい合った二人。
張遼は英瑠にさらに話し掛けた。

「屋敷へ帰られるのか」
「はい」

出陣前夜を家族もなく一人自宅で過ごすとは、ともすれば寂しいのかもしれない。
だが英瑠は別に、そんな我が身の事情は気にしなかった。
目の前の男がどんな思いで彼女にその一言を発したのかすらも、想像することは無く。

「文遠様もこれからお帰りですか?」
「ああ」

「明日が待ち遠しいですね……!
いよいよ決戦ですものね」
「そうだな。今まで以上に厳しい戦いとなるだろう。
だが我らは負けぬ。己が身命を賭して武を振るわん」

「はい……! 絶対に勝ちましょう……!
皆で力を奮えば何者にも負けません……!!」

英瑠と張遼は、出陣を前にして、武人同士意気込んだ。
彼らは共に董卓軍の下にあった頃から互いを見てきたのだ。
そして今や主である呂布が、いかにして董卓を倒し、長安を追われ、戦って力を蓄え、ここまで這い上がってきたかを知っていた。

その長い道程に込められた感情は、とても一言では言い表せないものだった。
――だからこそ。

彼らにそれ以上言葉は要らなかった。
戦にかける思いは、すべて戦に込める。
高まる熱は、すべて戦場で放出する。

数多の将兵を預かる将軍としては、ただそれだけだった。


……さて。
では、それはさておき、である。

将という立場を横に置いて考えた時、ただの男と女ではどうなのだろうか?

「……英瑠殿。良ければ屋敷まで送らせてくれまいか」

口を開いたのは張文遠だった。
そこには、武将としての一面をひとまず傾け、男としての一面を表にした張遼という名の賽子さいころがあった。

「良いのですか? ……甘えてしまいますよ?」

張遼の申し出に、英瑠も賽をころりと転がしてそれに応える。
もし彼女の賽がもっと建前側に転がっていたら、もうすぐ日も暮れるし申し訳ない、一人で帰りますと彼の申し出を断っていたことだろう。
だが彼らは深い繋がりを経て、今では二人きりの時は素の本心という賽の目を出しやすくなっていた。

張遼の好意に素直に甘えた英瑠は、彼と轡を並べて街中を歩く光景を想像し、自然と綻びそうになる表情を自制し、自分の馬を引こうと手を伸ばした。
が張遼はその手をやんわりと遮り、彼女の馬ではなく自分の馬の方を指し示すと、言った。

「二人乗りでも宜しいか」
――と。

英瑠の脳裏にいつかの光景が蘇る。

彼女は一瞬だけ驚いて、それから微笑むと、力強く頷くのだった。




「……懐かしいですね」

自分の馬に英瑠を乗せた張遼は、彼女の背後で手綱を握りながらその邸宅へ向かって馬を進めていた。

「うむ。あの時もこのように英瑠殿を前に乗せて屋敷までの道のりを行ったな」

「……あの時は本当に申し訳ありませんでした。
せっかく送ってくださったのに……私ときたら」

「はは。過日の件は私にも非があった。
……というか、あの時は私も必死だったのだ。
慕っている女人と相乗りをして、この距離で身を寄せ合ってしまえばきっと冷静では居られまいと、薄々予感はしていたのだが……やはりその通りであったな。
いや、そもそも、送ると申し出た時点で既に私は冷静さを失っていたのかもしれん」

「まぁ……!」

張遼の正直な告白に、英瑠はじんわりと熱くなる胸の内を自覚しながらも、つい笑みを浮かべてしまうのだった。

あの泣く子も黙る張文遠が、女と馬に相乗り一つで心を乱すなどと。
しかもその相手は自分とは。
英瑠は微笑ましいような嬉しいような、堪らなくくすぐったい気持ちになって、とうとう、ふふと声をあげて笑い出してしまう。

そして張遼はというと、馬に揺られながら笑って振り返った英瑠にどこか気恥ずかしさを覚えたのか、視線を逸らして咳払いを一つするといきなり真面目な調子で語り始めた。

「我ら武人、戦場での敗北から学ぶ事は多い。それは英瑠殿も十分わかっておられる筈。
だがそれは、なにも戦場に限っての話ではないだろう。
たとえば我らの仲もそうだ。
あの一時のすれ違いがあったからこそ、我らの絆はこうして今、何者にも断ちきれぬほど強まったと言えるのではなかろうか……!」

張文遠は大真面目だった。そして表現がいささか過剰だった。

その真っ直ぐな物言いに、顔が赤らんでいくのを自覚した英瑠は、彼の
「そなたはどう思われる、英瑠殿……!」
というやけに熱の入った問いかけにもまともに答える事が出来なくなり、余裕の笑みは一転、慌てて前に向き直ると、「は、はい……!」というしどろもどろな反応となってしまう。

さらに張遼は彼女のそんな反応を見て、口をつぐむどころか、
「どうされた英瑠殿、私は何か妙なことを申したかな」
などと言い、手綱を握り直すと、あろうことかその身をぐっと英瑠の背後へさらに寄せ、半ば肩越しから顔を覗きこまれる形になってしまった英瑠は、馬上という制約のもと身動きが出来なくなってしまう。
彼女は、愛する人との体格差を恨みつつもそれが生み出す感覚に酔いしれながら、これまた早く自宅に着かないかなと願う反面、永遠にこの時が続いて欲しいと思う気持ちの間に挟まれて、息も出来ないほど胸を高鳴らせるのだった。

ちなみに彼のこのわざとらしい一連の行動が、英瑠に対する軽い仕返しだったのは言うまでもない。


馬が英瑠の家に着こうとする頃、日は既にほとんど沈み、辺りを緩やかな闇で満たしていた。
自邸の門が見えて来ると、忍び寄る夜闇のように英瑠の心にも寂寥感が沸き上がり、彼女は名残惜しさからついため息をついてしまう。

「着きましたね」

「ああ。名残惜しいが仕方あるまい。
戦を前にして、呑気にそなたの温もりを貪っているわけにもいかんからな」

張遼は英瑠の心情を推し量るようにそんな熱っぽいことを口にした。
あるいはそれは、張文遠という男の率直な本心だったのかもしれなかった。
その証拠に、彼は続けてとんでもないことを口にした。

「互いに帰る場所が同じなら、この離れがたさも感じずに済むだろうに」


英瑠は、その言葉に心臓を鷲掴みにされ――――だが、黙殺した。

馬が歩を止め、降りる段になっても彼女は何も言わなかった。
英瑠は張遼に背を向けたまま黙すると、人知れず下唇を噛んで言葉を飲み込んだのだ。

そして、代わりに。
言葉にするべきだがしないと決めた、あらゆる想いを込めて。

馬上の張遼を振り返った彼女は、迷うことなくその頬に手を伸ばした。
それから唇を寄せる。驚いた様子の彼の唇を優しく塞いでから……、ゆっくりと離す。

「……また、戦場で」

英瑠はそれだけ告げて、自ら馬を降りた。
送ってくれた礼を述べ丁寧に拱手すると、少し照れたようにはにかみながら、未だ馬上にある張遼の眼をじっと見上げて。

彼女の熱い眼差しに、張遼ははっと我に返ったように自らも馬を降りると、地を踏みしめ英瑠の向かいに立って、その目を見返した。

英瑠があえて今しがたの張遼自身の一言を聞き流したのだと気付かない彼は、温もりの余韻に酔いつつも戦への思いを新たにするように、力強く頷いた。
そして、言葉を返す。

「ああ。互いに戦場で全力を出し切ろうぞ」

それは、一人の男が武将に変わるという、気持ちの切り替えの意味もあったのだろう。

彼らはそれから、手を伸ばせば届く距離でしばし見つめ合った。

別れ際の抱擁などしない。
だが――、いつかのような、気まずく別れるといった雰囲気は全く無かった。
二人は互いに誤解を解き、絆を深め、もう何も憂うことなど無い境地に達していたのだ。

――たとえその片割れ、龍英瑠の中に、乱世が終わったその後で選ぶべき道、という僅かな靄があったとしても。

その靄は言うなれば、穏やかな湖面に立った一つの波紋のようなものでしかない。
水面が揺らいだとて、水が水であることは何ら変わらないのだ。

だから。

英瑠は門の前で張遼を見送ると、中から出てきた使用人が開けた門をくぐり、力強い足取りで自室へ向かって行った。


迷いはない。全力で戦う。己の行く先は己が決める。

誰もが様々な側面を持っている。
武人。将軍。女性。姉。人間と妖…………
それは英瑠という名の賽子さいころも例外ではない。

そして、自分という名の賽子を振るうのは他でもない、自分の意志なのだ。
出す目は自分で決める。そうするだけの力があるのなら、そうするべきだ。
英瑠は自らの胸に手を当て、決意を新たにすると、目を閉じて深く息を吸った。

今しがた愛する人と重ねたばかりの唇から、ゆっくりと息を吐き、瞼を開く。

刻々と辺りに広がっていく闇の中で、それでも彼女の双眸の輝きは失われず、熱く漲っていた。

歯を噛み締め、拳を握る。
底知れぬ高揚感が腹の底から沸き上がり、英瑠は、自身が理性ある獣へと変身していく錯覚さえ覚えたのだった。



陽が完全に落ち、夜が来る。
決戦前夜はそうして、静かに更けていく――――



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