26.在るべき場所で


龍英瑠は、夢を見ていた。

それは夢と呼ぶにはあまりに不可思議で、やたらと現実感があり、何故か懐かしい感覚に駆られるものだった。

英瑠は山の中に立っていた。

武器は無い。周りに人の気配もない。
ただ静かなその山林は、深い霧のような靄に覆われ、遠くまで見渡すことはかなわなかった。

ふと英瑠の視界に、何者かの後ろ姿が割り込んだ。

女であろうその人物は、山の中には似つかわしくない麗しい衣を纏っていて、足元が悪い中でも怯まずに、山頂に向かって歩を進めている。

英瑠は、何となくその後ろ姿に見覚えがあるような気がした。
まだ幼き頃、記憶さえ定かでないその頃に、見たことがあるようなその姿。

その後ろ姿に惹かれ、英瑠の足は自然と女の後を追い始めた。


だが、それも長くは続かない。

英瑠はまるで閃光に撃たれたように、ハッとして我に返る。

――こんなことをしている場合ではない。

戦……、そう戦だ。
自分は戦をしていたはずだ。
武器は何処だ。馬は。兵は。

やるべきことがある。やりたいことがある。
必ずやり通す、そう決めた。

軍を率い、勝利に貢献する。呂布が求めた天下の先を見る。
至高の武を目指し、武を極める。
そして。

もう一度、逢いたい人が居る。
会って、触れて、思いの丈を告げたい掛け替えのない人がいる。

それは紛れもない『未来』だ。
しかし今、英瑠の前を行く女は、そうではない。

記憶に無いはずなのに、何故だかわかるその温かさ。
幸せな感情。自らに人ならざるものの血をもたらした者。

それは、『過去』の象徴だ。


通り過ぎた過去に想いを馳せるのは感慨深い。
それが幸せな過去ならば、もう一度帰りたいとすら思うだろう。

――だが。

死んだ人間が生き返らないように、過去も遡りはしない。

今手にしているものよりもっと良いものをあげるからと言われても、過去に戻るわけには行かないのだ。

過去というものは、それがどんなに幸せであろうと、後から手を触れることは決して許されない。
ただ時折、まるで完成された骨董品を眺めるように、そっと愛でていくものだ。


足を止めた英瑠に気付いたのか、前方を行く女も、ふと足を止めた。
彼女は、ゆっくりと振り返り、その顔をこちらへ向けようとする。

英瑠は何故だか、その顔を見ない方が良いと感じた。
そして英瑠は、女が完全に振り向く前に、自ら踵を返し女に背を向けた。

女の気配が無言で問い掛けてくる。
――戻るの、と。

英瑠は考えることもなく、即答した。
「戻ります」と。

女の気配がそこはかとなく哀しみに包まれたような気がした。
しかし英瑠は迷わなかった。

背中越しに一言だけ告げる。
さようなら、と。

それは永劫の別れだった。
幼き頃、悲しき運命によって伴侶と子を残して去って行った人ならざる女との、訣別だった。


その女がどんな思いで子を残して行ったかは知っている。
今や成長した英瑠とほとんど変わらぬ姿を保っているだろう不老不死の女は、もしかしたら、現世に残したその娘を、どこか人でないものが住まう桃源郷へと導こうとしたのかもしれない。

だが英瑠は人間だった。
どう足掻いてもその心は、人の世で生きる決意を固めた人間だった。
人ならざる血の事は恨んでなど居ないし、むしろ言い尽くせぬほど感謝している。

乱世で身を立てる力。性別だの出自だの身体の大きさだのを揶揄する有象無象に、絶大なる武を、まるで抜き身の刃のように鼻先に突きつける圧倒的な力。
それはひとえに、半人半妖という生まれがあったからこそだ。
完全に人の身であったなら、志はそう変わらないかもしれないが、今に至る結果には何らかの影響を及ぼしていたことだろう。

しかし、英瑠はその力を、人の世で人として振るうと決めていた。
人として生きてきた彼女の目に映る、乱世という時代の理に、身を委ねると心から決めていた。

だから振り返らなかった。

その時英瑠は、哀しみに包まれていた女の気配が揺らぎ、ふと和らぐような、温かいものに変わっていくのを背中越しに感じた。

その声は、たしかに告げていた。
優しい声で、「行ってらっしゃい」と。


英瑠はそのまま足を踏み出すと、歩を進め、山をくだり、やがて駆け出した。

霧が少しずつ薄れてくる。
もう少し走れば、この靄もやがて完全に晴れるだろう。

そこに見えてくる世界はきっと、紛うこと無き自分が生きる世界だ。
英瑠は揺るぎなくそう信じていた。

だから、走り続ける。

自らの居場所に帰るために。


***********************


馬を駆り、血相を変えて馬車に近付いてきた張遼を見た時、馬車に並走していた文官がたちまち顔色を変えた。

その人物のことは知っている。
陳宮の部下。英瑠の弟だ。

「張将軍……! これは、その」
「英瑠殿の具合は」
現れるはずのない男が現れてうろたえる弟を遮って、張遼は英瑠が眠る馬車へ馬を寄せた。

「英瑠殿……!」

馬車に揺られながら身体を横たえる英瑠の瞼は、固く閉じられていた。
顔は紅潮し、熱があることを伺わせる。

微動だにしないその姿に、張遼は一瞬彼女が死んでいるのではないかとぎょっとしたが、胸のあたりが僅かに上下しているのを知ると、ほっと胸を撫で下ろした。

「将軍……、まことに申し訳ありません……。
これは、姉の言づてなのです。
心配をかけるから戦が終わるまで自分の傷のことは誰にも言うなと……
特に、張将軍には絶対に言うなと」

「……わかっている」

「私でさえ、戦に勝利してからようやく知った有様です。
思慮が足りない姉で本当に申し訳ありません。
傷を受けた直後にすぐ手当てをしていれば、こんなことには……」

英瑠の弟が言うには、一時は危ないと思われた英瑠の容態も、時間が経つにつれ快方に向かったとのことだった。
それでも、並の人間ならとっくに命を落としているだろうというのが医者の見立てらしい。

弟は、姉が完全な人間でなくて本当に良かったと今は思う、と口にした。
張遼もそれに同感だった。

彼女がもし、ただの人間だったら。
……勿論人間の女なら、戦場で執拗に狙われるような将になることも無かったのかもしれない。

だが、あの笑顔で方天戟を振るう彼女が、一矢のもとにばたりと倒れ、そのまま己の知らないところで事切れてしまっていたとしたら……、想像しただけで身震いがする。

……ともあれ張遼は、彼女の人ならざる血に心底感謝していたのだった。
血のことだけではない、己の身の安全を放棄してでも本陣を守るという、責務をきちんと果たした事に対しても。

張遼は、丁寧に手当てされた英瑠の腕に目をやった。
これが腕でなかったら。もし、急所だったら。
良くない光景を頭に浮かべるたび、背筋が凍るような感覚に襲われる。

もし周りの目が無かったら、未だ眠り続ける彼女の体を抱き寄せたいとすら思っている自分に気付いた張遼は、いい加減感情的になりすぎだと自省した。
彼女が役目を果たしたように、自分も軍を率いて兵を帰城させるという役目を果たさなければならない。

そうしてようやく気を取り直した張遼は、横で申し訳なさそうな顔をしている弟に一声かけ、英瑠が眠る馬車を後にしたのだった。


***********************


英瑠はその後、城に帰り着く前に目を覚ました。

ずっと傍に着いていたらしい弟が、涙声で何事かをまくし立てている。

英瑠はまず、毒矢にやられた方の手の平をゆっくりと開閉させ、その機能が失われていないことを確かめた。

次に彼女は、勢いよく起き上がろとして――
予想以上に重たい自分の体に面食らい、そのまま倒れこむと、体をしたたかに馬車に打ち付けてしまったあげく、馬車から転げ落ちそうになってしまう。

辺りに響く、弟の悲痛な叫び声。

こうして英瑠は、武器も馬も取り上げられ護送状態で城に帰され、自宅に着くなり半ば強引に寝かしつけられると、そのまましばらく動くことを禁じられてしまったのだった――




英瑠たちが戦から帰ってきてから数日後。

いい加減体が鈍っていた英瑠は、弟の居ぬ間に体を動かそうと、目付け役にもなっていた自宅の使用人に様々な用事を言い付け、家から追い払った。
これで、使用人を通じて弟に告げ口される危機は去った。

弟は、もうすぐ妻を娶るらしい。
以前は、姉様が身を固めるまで家を出ないと公言し、英瑠を辟易させたものだ。
だがいつしか気を変え、新しい家を用意して妻と実家の母たちと移り住むと語っていた。
弟の心境の変化に胸を撫で下ろしたのも束の間、今回の毒矢事件があり、やはり姉様を一人にしてはおけないと弟は再び言いはじめた。

自分の無茶が原因だとはわかっているが、これではいっこうに話が進まない。

ここは、療養で鈍った体を密かに鍛え直し、もう完全に大丈夫というところを見せなくては。

英瑠はそんなことを考え、部屋の隅で埃を被っていた方天戟を手にすると、庭に向かって外に飛び出したのだった。


「……英瑠殿。何をされるおつもりか」

「っ!!! 文遠様……!!」

庭へ出ようとした英瑠の前に立っていたのは、彼女が誰よりも会いたがっていた張文遠だった。

英瑠は喜びから方天戟を取り落としそうになり、慌てて持ち直すと、小走りで張遼に駆け寄った。
張遼には、断りなく自宅に来て良いと以前から伝えてある。

これは良い機会だと内心英瑠は小躍りした。
自分がもうすっかり快癒していることを張遼に示し、弟からの過保護とも言える自宅療養扱いを考え直してもらわねば、と。

だが、張遼が彼女の思う通りに動く保証など、どこにもありはしないのだ。

「っ、待たれよ……! そのように走っては、」
「大丈夫です。とっくに治っております……!
見てください、今だって鍛練をしようと、」

「何を無茶なことを……!!」

張遼はそのまま凄い剣幕で英瑠を叱り飛ばすと、彼の反応に面食らった彼女は、己の浅はかな思惑が破れた事を知り、肩を落としながら大人しく部屋に戻るしかなくなってしまうのだった。


「英瑠殿……!
そなたは自分がどれほど危険な状態にあったか、知らされておらぬのか……!?
高熱を出し、身じろぎすらせず眠り込む英瑠殿を見て、私はそなたを永久に失ったかと思ったのだぞ……!」

「も、申し訳ありません……。
文遠様にもご心配をおかけしてしまい……
今回の件は、まことに私の力不足、思慮不足によるもの。
ご心配をおかけした皆様には、次の戦働きで恩を返したいと思っております」

部屋に戻された英瑠は、寝台の上で上半身を起こし、部屋の隅で見張りのごとく腕組みをして椅子を勧めても座らず突っ立ったままの張遼と言葉を交わしていた。


張遼の気持ちは痛いほどよくわかる。
英瑠だって、逆の立場であったなら、日々心配しすぎて心が休まらないことだろう。

しかし、英瑠は武人なのだ。
傷を労って、いつまでも寝ているわけにはいかない。

確かに目が覚めた当初は酷いものだったが、それでも一日じっと寝ていただけでほぼ平素と変わらないくらい体力は回復した。少なくとも英瑠はそう自覚していた。
帰城するまでに数日かかったから、つまり城に着く頃は既に元気を取り戻していたと言っても過言ではないのだ。

それをわかってもらいたいのだが、しかし生死の境を彷徨った状態すら目にした弟や張遼に、これ以上心配するなと言いづらいのも事実だった。

英瑠は頭を捻り、とある策を思いつくと、張遼を呼んだ。
そして、傍に来て寝台に腰かけて欲しいとお願いする。
椅子を勧めても従わなかった張遼だっが、その願いには素直に従ってくれた。

「文遠様……、もしお嫌でなければ傷口を見てくださいませんか」

そう告げると、英瑠は自身の包帯を解き、薬を当てがった布を取ると、傷口をそっと張遼の方に向けた。
その傷口は既に古傷のように肉が盛り上がり、毒矢を突き立てられて生死の境を彷徨ったばかりの人間のものとは思えないほど快癒していた。

張遼の視線が突き刺さる。
彼はそっと英瑠の腕を取ると、傷を避けて労るように肌を撫でた。
英瑠の心に火が灯る。
そういえば、袁紹との戦が始まる前、張遼の家で彼に触れられたことを思い出した。
その手は温かく、優しく、大きい。

「……このように、傷口はもう塞がっております。
我ながら、人ならざるこの身に感謝するしかありませんね……。
ですからもう、ご心配には及びません」

「……痛まぬのか」

「はい」

小動物に触れるように優しく肌を撫でる張遼の指が、英瑠の言を確かめるようにそっと傷跡をなぞる。
英瑠は背筋にぞくりとしたものを感じたが、当然それは痛みではなかった。勿論不快感でもない。

「不思議なものだ」

「そうですね。傷口が毒で腐ることもなく、お医者様には驚かれました。
やはり私の体は人とは違うのでしょう……。
戦向きだと考えれば、もはや悩むことなどはありません」

英瑠はいつかの、自らの体に怯えて張遼を傷つけてしまったことを思い出した。
我ながらひどい出来事だったと自省する。
二度とあのような、張遼の心を傷つけるようなことはあってはならないのに。
こうしてまた、張遼に無用な心配をかけてしまった。

英瑠は張遼に申し訳ないと思い、彼に身を寄せると、労るようにその肩に手を置いた。
服越しに手の平から伝わる、張遼の体温。それは何とも心地良く、離れ難いものだ。
彼女の視線が、間近で張遼のそれと交差する。

「……」

張遼は英瑠の肌を撫でていたのとは反対の手を彼女の頬にそっと当て、優しく撫でた。
いつかの張遼宅での甘いひと時が英瑠の脳裏に浮かぶ。
あの時は、たしかこのまま、――――

「…………、」

音もなく寄せられた唇は、あの時と同じであった。

「ん……っ」

深く、貪るように重ねられる唇。生温いだけのそれが、酷く心地良い。
胸の奥がざわめく。
まるで、冷えた油に火種を落としたように、情熱という名の炎はたちまち燃え広がっていく。

その熱に身を委ねようと、腕を張遼の背中に伸ばした時、弾かれるように張遼が体を離した。

「すまぬ……! つい、我を見失ってしまった」

仮にも療養中である女に手をつけることを躊躇ったのか、張遼は慌てた様子で謝罪を口にした。
英瑠の胸を、ぽっかり穴が空いたような空虚感が襲う。
気付いた時には、顔を背けて寝台から立ち上がろうとする彼の腕を咄嗟に掴んでいた。

「行かないで」

その一言は、ごく自然に英瑠の口をついて出た。
張遼が振り返り、はっとしたような表情を浮かべている。

彼は上げかけた腰を再び寝台に下ろすと、諭すような口調で英瑠に告げた。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。

「怪我人に手を出すわけには行かぬ」

「もう怪我人ではありません」

「……、弟殿に申し訳が立たぬ」

「ではこの前は……、文遠様のお屋敷でお会いした時は、何故あのようなことをおっしゃったのですか」

「…………、」

たしかあの時、袁紹との戦の始まりを告げる伝令が張遼宅に言づてを持ってくる直前、彼は英瑠に、このまま帰したくないという言葉を吐き出したはずだ。
英瑠はその時の張遼の台詞を今繰り返して述べる事はしなかったが、子細を語らずとも彼はすぐに当時を思い出したのか、気まずい様子で視線を横に泳がせた。

しばし沈黙がその場を支配する。
庭でさえずる鳥の鳴き声だけが時折耳をつき、人の居ない邸宅は静寂に包まれていた。

その静寂に、英瑠はふと理性を取り戻し、我に返った。
ほぼ無意識に、張遼のやんわりとした拒絶に食い下がってしまっていた。
自分がどれほど彼に無茶なことを仄めかし、そして困らせてしまったのか。
英瑠はたちまちその事に気付き、青くなった。

勿論彼女としては、今すぐこのまま……というような、口に出すことを憚られるような秘め事を直接的に求めたわけではない。
傍に居て欲しいというのは、もっと抽象的な話だ。
だが、具体的にどういうことかと問われれば、答えに窮してしまう。
自分が本当は何を欲しているのか。それを冷静に分析できるほど、今の英瑠に余裕は無かった。

英瑠は張遼が口を開きかけた瞬間に、先んじてぽつりと「申し訳ありません、」と告げた。
張遼の腕にやっていた手を離し、自嘲するように首を振ると、さらに続ける。

「生死の境を彷徨いしばらく床に臥せっていて、どうやら弱気になってしまったようです……。
これではたしかに、全快したとは言えませんね。
無茶なことを口にしてしまい、申し訳ありませんでした。どうかお忘れください」

「…………いや、」

英瑠の謝罪に、張遼は申し訳なさそうに目を伏せると、ゆっくりと寝台から立ち上がった。
今度は引き止めない。
張遼は名残り惜しそうに英瑠を振り返る。そして、少しだけ英瑠に手を伸ばしかけると、すぐに引っ込めた。
彼はそのまま、英瑠を労わるような、優しげな声を発する。

「……今日のところはこれで失礼する。
そなたとまた手合わせをする日を楽しみにしていよう。
……、見送りは不要だ。そのまましばらく横になっていた方が良い。
何かあったらすぐ呼んでくれ」

英瑠は微笑むと、張遼に甘え寝台の上で拱手をし、それを見送ることにした。
張遼が軽く頷き、潔く背を向ける。
去っていくその背中を、英瑠は黙って見つめていた。
胸の内でざわめく寂寥感を、必死に押し殺して。

張遼が部屋の扉に手を掛ける。
またすぐ会える。互いにどれほど忙しくとも、戦がこの世からなくならない限り、彼らは再び轡を並べるのだ。
寂しいと感じる必要は無い。戦でなくたって、張遼の言うとおり時が経てば、鍛錬だの逢引だの二人の時間はいくらでも作れる。


だから。

だから、こそ。


開きかけた扉がすぐ閉まり、張遼がこちらを振り返った時、英瑠の呼吸は止まった。

彼は大股で英瑠の方へ戻って来ると、寝台に身を乗り出し、今度は躊躇うことなく英瑠の身体を抱きしめた。

何が起こったかはわからない。
ただ彼女にわかるのは、張文遠という男の熱が、再び自分の唇に重ねられているという事実だけだった。

「英瑠殿、『あれ』は本心だ。
私という男の、忌憚なき本音だ」

唇を離し、張遼はそう告げた。

相手を労わるがゆえに身を引いた、理性的で冷静な武人の姿はそこにはなく、熱せられたむき出しの刀身のような、ただ熱を湛えた男がそこには居た。

「文遠さま」

英瑠はまるで幼子が反射的に蝶に手を伸ばすように、まるでそうすることが当然であるかのように彼の首筋に手を回した。

帰したくないと言った、『あれ』は本心だと。
今、張遼はそう口にしたのだ。

英瑠の心の中で、必死に閉じ込めようとしていた業火が唸りを上げて炸裂した。
寂寥感も、切なさも全て炎に巻かれて灰になっていく。
この炎はきっと、目の前に居る男でなければ消せはしない。

英瑠はようやく、自分が何を求めているのかを知った。

「英瑠殿、本当に、体は大丈夫なのか」

念を押すように問う張遼。
それが最後通告なのだと、英瑠にもわかった。

このまま彼を帰したいなら、否と答えればいい。
もう少し休養が必要だと言えば、彼はたちまち紳士的な態度で以って英瑠の邸宅を後にするだろう。

彼女は。

英瑠は、張遼の一世一代の問いに、力強く答えた。

はい、と。

不謹慎だが、失われかけていた命がようやく助かったのだと周りから言われた毒矢事件の時よりも、ずっとずっと嬉しい気持ちになっていた。

今、自分の目の前に居るこの人が欲しい。
たとえ傷が治っていなかったとしても、この状況で彼を拒むなど出来はしない。
英瑠は心からそう思った。

それを聞いた張遼は、意を決したように再び唇を寄せ。

そのまま、英瑠を寝台に押し倒したのだった――



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