25.官渡


袁紹と呂布の間には盟があった。
かつて黒山賊成敗の折、呂布は袁紹に助力してこれを撃退し、袁紹もまた定陶で援軍を出し呂布を助けた。

しかし袁紹は、呂布を信用するのは危険という配下の進言もあり、強大になっていく呂布勢力に対し次第に慎重な目を向け始めた。

やがて呂布が孫策と袁術を退けると、袁紹は呂布が近々長安に進軍すると察知。
それを阻止すべく、ついに盟を破り呂布に対し大軍を差し向けたのだった。

呂布と袁紹。
中華の大陸で覇を競う鬼神と名族は、官渡の地で激突することとなる。



「袁紹め。手を組むだの戦うだのと、なんとせわしない」
「致し方なしかと。それほど、我らは乱世の脅威となったのです。
なれば、なればこの勢いに乗じるべし!
今の我らの前に怖いものなどありませぬ」

出陣を前にして、さすがの張遼もあっけなく手の平を返した袁紹に対し苦言を呈す。
その横で陳宮は、いつもの調子で大仰に語ってみせるのだった。

「しかし……これほどの軍を擁するとは。恐らくはこの乱世に最大の勢力か」
遠くに見える袁紹の大軍を臨み、張遼が率直に感想を述べる。
呂布軍総数よりだいぶ多い軍勢を目の前にして、共に出陣する英瑠の表情も自然と引き締まっていく。

「なんのなんの。数を頼んだところで、呂布殿に敵うべくもなし。
さあ、世間知らずの名族殿に、力の差を教えてやりましょうぞ!」
「うむ。呂布殿の道を阻む者、この張文遠が撃滅せん!」

陳宮と張遼の力強い言葉に、英瑠も深く頷く。
彼女は馬に跨ると、方天戟を構え皆と共に意気軒昂と出陣していくのだった。

「ふん、袁紹、俺たちが怖くなったか。立ち塞がるならば、容赦せんぞ!」

敵軍を睨んで吼える呂布。
その叫びには、怒りや憎しみではなく、どこか袁紹を憐れむような機微があった。

曹操のように、賢く呂布を追い詰め終始敵対していた相手とは違い、袁紹は一時でも盟を結んでいた相手。
裏切りの人生だの傲岸不遜だのと言われる呂奉先だが、決して冷血人間ではない彼は、彼なりに思うところがあるのだろう。

たとえそれが、ひどく不器用なもので、ごく近しい人間にしか理解されなかったとしても。
貂蝉だけでなく陳宮や張遼をはじめ、今や英瑠にもそれはよくわかっていた。

英瑠は、呂布が朧げに描いているであろう未来を実現させるために、何としてもこの戦いを勝ち抜くと誓ったのだった。

――たとえ、己が身が傷つく事があろうとも。



「兵の多寡を覆すのが軍師の役目!
この陳公台必ずや、必ずや勝利を我らに!」

陳宮は、自らの頭の中で描いた策を皆に指示として伝えていた。
大軍を擁する袁紹を打ち崩すには、兵站線を断つ必要がある。
彼は呂布にそう伝え、一方で張遼や英瑠らには延津を攻略するよう指示し、己は援護に回ると告げたのだった。


「姉様。延津に向かうのでしたら伏兵に注意してください。
袁紹は優柔不断なきらいがあるとはいえ、その臣下の層は厚く、優秀な将も……ゴホッ、ゴホッ」
「大丈夫ですか!? 貴方が従軍してくれるのは心強いですが、体調を崩しているのに無理をしては……、」

英瑠軍に同行する弟は、その身を案じる姉をやんわりと制し、言葉を続けた。

「大丈夫です、ただの風邪です。まさか出陣の機に、このような失態を演じてしまうとは……不覚です。
此度の戦は、陳宮様の指示に従っていれば、兵の多寡を覆すのはそれほど難しくは無いでしょう……ゴホッ。
ただし、十分に注意をしていれば、です。油断が命取りになると思ってください。何やら、曹操が……ゴホッゴホッ」

「わかりました。十分注意しましょう。
わかりましたから、貴方は後方に下がって休んでいてください。体を壊しては元も子もありませんよ。
……戦が終わったら婚儀を上げるそうですね。故郷から母たちも呼び寄せるとか……。
大事な体なのだから、これ以上無理をしてはいけませんよ」

そう告げた英瑠は体調を崩している弟を後方に下がらせ、張遼と共に軍を率い延津へと向かうのだった。


「この延津は、こちらの布陣における花。散らすなど、この張儁乂が許しませんよ!」

延津に向かった英瑠らを襲ったのは案の定伏兵と、袁紹軍の勇将・張コウだった。
張儁乂。その派手な見た目や言動とは裏腹に、武勇に秀で、戦場を冷静に把握する知略に優れた部分をも有している。

しかし、備えを怠らなかった張遼らが慌てる事は無い。彼らは落ち着いて張コウを撃破すると、やがて延津を制圧せしめたのだった。

「延津を制圧したならば憂いは、憂いはなし! さあ、ここからは前進に徹しましょうぞ」

その頃呂布と陳宮は、袁紹軍の兵站線を断ち切っていた。
数に頼み、まさかこれほど早く押し込まれるとは思っていなかった袁紹軍は、いっきに浮き足立つ。

「なに!?兵站がすべて断たれただと!? ええい、我が軍の将は何をしておったのだ!」
袁紹のそんな声が聞こえてくる気がする。

袁紹軍の兵站線を断ったことで呂布軍の士気は上がり、あとは袁紹を追い詰めるだけとあって、呂布軍の前線には良くも悪くも安堵した空気が漂っていた。

だがそんな時、伝令からの報告を聞いた陳宮の眉が僅かに上がる。

「どうやら、どうやら曹操が敵の援軍に現れたようですな……。
おおかた、袁紹に貸しを作ろうとでもしているのでしょう。
彼らは我が軍に奪われた兵站を奪還しに来るはず。それはさほど問題ではありませぬが……
問題は本陣、本陣ですな。我が軍の本陣にも曹操軍が向かっている様子。
やれやれ、本陣を気にかけて戦わねばならぬとは……。
曹操は本当に、本当に厄介な存在ですな」

陳宮のそんなぼやきを聞いた呂布の顔が、にわかに気色ばんだ。

「本陣だと……!?
本陣には貂蝉を残してきている……!」

「ふむ。こんなこともあろうかと、本陣には王允殿とそれなりの守備兵力を残してきておりますぞ。
……が、袁紹軍のこと、曹操軍の動きに連動して我が本陣に進軍する可能性が高いですな。そうなれば、そうなれば……
って呂布殿!! 今あなたが本陣に舞い戻っては、前線の士気が下がりますぞ……!
袁紹を追い詰めるには、呂布殿の力が不可欠……! ここは、ここは……」

「私に行かせてください」

「っ!!」

呂布と陳宮の間に割って入ったのは、他ならぬ龍将軍こと英瑠だった。
彼女は延津を取った後、呂布軍勢に合流していた。張遼は別働隊の援護に向かい、ここには居ない。

「私が騎兵を率いて向かいます。本陣の兵と連携して速やかに曹操軍を討てば、後から来た袁紹軍も動揺し、足並みが乱れるでしょう。
その背後を誰かに突かせ、本丸の袁紹の方は殿が攻撃すれば宜しいかと……」

英瑠の脳裏に、いつかの出来事が蘇った。
まだ董卓と呼ばれた暴虐の権化が生きて居た頃。
その時も、こうして呂布に頼みごとをした事があったはずだ。味方を救援に行かせて欲しい、と。

あの選択は、無謀ではあったが間違いではなかったと、英瑠は今でも信じている。
あの選択が具体的にどの程度その後の戦況に影響したのか、彼女には知る術が無かったが、それでもあれはあれで良かったのだと心から信じられるのだ。

人生は選択の連続だ。
董卓に逆らってまでも前線に駆けつけたあの戦だけでなく、もっとありとあらゆる場面で、彼女自身が気付かなくとも、小さな選択を積み重ねてきているはずだ。

それは積もりに積もって、やがて後の人生を左右する。自覚は無くとも、人の生とはそういうふうに出来ている。

「……行け。曹操軍の雑魚どもを一掃して来い」

ほぼ間をおかず、呂布が即答した。

隣で陳宮が呂布殿!と声を上げるが、しかし彼もまた少し考えたあと、
「わかりました。あなたの力なら問題ないでしょう。
しかし、くれぐれも、くれぐれも気をつけられますよう。袁紹の軍勢の方は私にお任せあれ」
と述べ、英瑠を本陣に向かわせるのだった。


英瑠は、騎兵を率いて本陣へ急行した。
体調の悪い弟は陳宮らの下へ置いてきた。
曹操軍は、奪われた兵站を取り戻そうと夏侯惇らを差し向けたらしい。
袁紹本軍と戦う余力を残すためにも、あちらはあちらで忙しくなることだろう。
今は、一刻も早く本陣に舞い戻り、そちらの曹操軍を追い払わなければならない。

英瑠は決して、油断していたわけではなかった。
曹操軍の狡猾さは知っていたし、度々交戦してその強さもよくわかっていた。
わかっていたからこそ、夏侯淵ら率いる曹操軍と本陣付近で出くわした時も、冷静に敵を見据え、交戦した。

「ここで曹操軍を食い止めなければ本陣が危ない!! 全軍、突撃せよ!!」

「ほ、方天戟の化け物だ〜〜!!!」

予期せぬ龍琉軍の来襲に、敵の足並みは乱れた。
当たった瞬間に敵が爆ぜる、濁流のような龍琉軍の突撃に押される曹操軍。

このまま押し込めば、いずれ勝敗は決するだろう。
本陣と合流できれば憂いは無くなる。彼女はそう考えていた。


それは一瞬だった。

敵味方入り乱れる中、視界の端、敵軍の中に将らしき人物が映った気がした。

次の瞬間、殺気が放たれる。
英瑠は反射的にそれを叩き落した。
恐ろしく正確に英瑠の正中を捉えた数本の矢だった。

流れ矢ではない、と瞬時に悟った彼女が、方天戟を構え直し発射元を目で探した瞬間。

その瞬間、自身の方天戟によって生まれた死角から、一条の矢が彼女に襲い掛かった。

どっ、という音が聞こえたような気がした。

それは戦場の喧騒の中にあって、彼女にだけ聞こえた音だったのかもしれない。
その身に、弓矢を突き立てられた英瑠にだけ。

その矢は、たしかに英瑠の顔面を捉えていた。

もし彼女が、その常人ならざる反射神経を以って咄嗟に腕で顔を庇っていなければ、半人半妖と言われる彼女も今頃片目を失っていただろう。
奇しくも、かつて呂布軍の将の一人が放った矢が、とある曹操軍の将の片目を奪ったように。

「くっ……!」

矢は、龍英瑠の手甲部分を外れ、その腕に深々と突き刺さっていた。
痛みには強いとは言え、きつく肉を抉った矢に、さすがの彼女も思わず奥歯を噛み締めねばならなかった。

叫びたいのを堪え、身を低くして手綱を引く。
利き手と逆のその腕は、力を込めるとさらに痛みを主張したが、今は構っている場合ではない。
敵に恐ろしく手錬の弓使いがいる。その男は、この入り乱れた戦場の中でも将である英瑠の姿を冷静に捉え、弓矢を引き絞ったのだ。

馬を操り、矢が飛んできた方向へ走り出す。

襲い掛かるもう一打。真正面から飛んできた数本の矢を方天戟で叩き落とす。

「やっべ」

ひらりと背を向けて去っていく、青い鎧を纏った将の後姿には、心なしか見覚えがあるような気がした。

「龍将軍!!」
護衛兵が後ろから異変を察知し追いついてくる。
逃げ足がやたらと速い敵将の姿は兵にかき消され、やがて見えなくなってしまった。

英瑠の腕に矢が刺さっていることに気付いた護衛兵が、血相を変えて英瑠に安否を問う。
彼女の腕から流れた血は、その衣を赤く滲ませ始めていた。

その喧騒の中。
「怖っわ! あいつやっぱ人間じゃねぇわ!」と仲間にぼやいた敵将の声が、何故だか聞こえたような気がした。


***********************


彼女は腕に矢を受けてからも、利き手に握った方天戟で戦い続けた。
手綱を握る手が痺れて握力が弱まれば、手綱を手に巻きつけて馬を駆った。

そうして龍琉軍は、本陣の兵と連携し曹操軍を追い払うことに成功した。
連動して動いていた袁紹軍も、陳宮が寄越した援軍によって打ち破られ、退却していった。

そして呂布軍はようやく、その本陣の安全を確保することが出来たのだった。


「英瑠様……! 救援に来てくださってありがとうございます……!!
英瑠様が来て下さらなければ、本陣は今頃…………
っ!? 英瑠様!! その腕は……!?」

本陣で英瑠と合流し、援軍の礼を述べた貂蝉は、笑顔も束の間英瑠の腕を見た途端に顔色を変えた。

「不覚にも矢を受けてしまいました……しかし、利き手をやられたわけではありません。
貂蝉様が心配される必要はありませんよ。ところで前線が気がかりです。戦況はどうなっているのか、」

「何を……、何をおっしゃっているのですか……!? その傷では……戦など……、」

「……? ちょっと矢を受けただけですよ。手綱も握れますし、まだ戦えます。
心配してくださってありがとうございます。貂蝉様は本当にお優しい方ですね」

英瑠は気付いていなかった。
彼女の目の前にいる貂蝉だけでなく、周りにいる副将や護衛兵までもが、彼女を憐れむような、怯えるような視線を向けていることに。

「そんな……英瑠様……!! 気付いてらっしゃらないのですか……?
お顔が青白くなってらっしゃいますし、その腕も震えてらっしゃいますよ……!!
その傷、普通のものではないのでは……! 早く手当てをしないと……!!」

貂蝉は信じられないものを見たという風に、口元を手で覆いながら悲痛な声をあげた。

英瑠の顔は、いまやすっかり血の気が失せ、唇までもが青白くなっていた。
無意識に震える指先は、馬上で手綱を手に括りつけている時は気付かなかったのだろうが、こうして近くで相対した者にはその異変がよくわかる。

そして、今にも倒れそうなほど憔悴しているのとは裏腹に、その双眸だけが気力を漲らせ、戦場における武将のごとくやたらと殺気立っている。

異様な光景だった。

英瑠の側近からおずおずと、「やはり毒矢だったのでは、」との声が上がる。
それを聞いた彼女が、僅かに笑みを浮かべながら発した一言は、周囲の者をたちまち凍りつかせた。


「もし腕を切断などの話になったら困りますね。
方天戟は片手でも振るえるのですが、手綱が握れなくなってしまいます」


そして英瑠は、最後に一言だけ周囲の人間に『ある事』を頼み、その場にへたり込むように膝を折ると、慌てて駆け寄った周囲の者に身を預け、そのまま意識を手放してしまう。

その光景を見ていた貂蝉は、まるで氷水を浴びせかけられたように、背筋が寒くなっていくのを感じたのだった。


***********************


「名族の軍が獣の群れに敗れるなど許されぬ。
この袁本初が直々に貴様を成敗してくれる!」

呂布ら主力部隊は、戦線を押し上げ、とうとう袁紹の喉元にまで迫っていた。

張遼ら別働隊も、各地で袁紹軍を敗走させ戦の勝利に貢献する。
彼らは伝令兵から、『曹操軍に目をつけられた自軍本陣は、英瑠の救援や本陣兵の奮闘があり無事守られた』との報告を受けていた。

本陣を狙った袁紹軍も撃破した。何も問題はない。
伝令兵はそれ以上何も言わず、また誰もそれを訊かなかった。

――本陣に舞い戻った彼女がどうなったかを。

訊かなくとも、英瑠は強行軍で疲弊した兵を本陣にて休ませているのだと、皆が当然のように思っていたからだった。



「おのれ! おのれ呂布め!
……この屈辱、必ずや雪いでくれる……」

「これでもはや華北に敵はなし!
さあいよいよ、我らの天下は目前ですぞ!」

呂布らはついに袁紹軍の本陣を落とし、袁紹を敗走させた。
兵の多寡を覆し、名族に勝利したことで、一気に士気が上がる呂布軍。
彼ら将兵の顔は燦然と輝いていて、それは呂布軍の将来に曇りがないことを物語るものだった。


その日。

軍を率いて撤収していく張遼は、将同士の雑談を偶然耳にしなければ、本拠に帰城するまで何も知らないままだったことだろう。

――すれ違いの末、ようやく心を通わせることが出来たとある女武将が、この戦でどんな目に遭ったのかを。

「なんでも、毒矢だったらしいぜ」
「あちゃあ。さすがの化け物女将軍も、毒矢には適わなかったか」

「しかし、手当てもろくにせずに奮戦して、あの曹操軍を追い払ったらしいぞ。
『利き手じゃないから大丈夫』とか言って。本陣に帰り着いた途端に倒れたとか」
「うはぁ、やっぱり凄いな。並の将にゃ真似できないわな」

張遼は、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
真冬の大河に飛び込んだ時のように、みるみる体の芯が冷えていく。

気付いた時には、行軍中に雑談に興じる下級の将たちに詰め寄っていた。

彼らは、君主である鬼神を除けば軍中随一とも言われる武勇を誇る将軍に詰め寄られて、顔をこわばらせ反射的に謝罪の言葉を口にした。
彼らは勿論、張遼と英瑠の関係など知らない。

張遼は彼らから事の全貌を聞き出すと、軍を副将に預け、馬を走らせた。

龍将軍と呼ばれる女は毒矢に倒れ、生死の境を彷徨ってるらしい。
目が覚めぬまま、馬車で運ばれているようだ――
……それが、気まずそうに下級将たちが教えてくれた内容だった。

「英瑠殿……!」

馬を走らせながら奥歯を噛み締めた張遼は、彼らが最後に述べた一言に己の血が沸騰するような激情と焦りを感じていた。

『恐れながら将軍、この話は出鱈目な噂ではありません。
将軍のような位の高いお方なら、皆知っているものと思っておりましたが……』



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