獣と炎・中


夜の鍛練場で張遼の気配を捉えた時、英瑠は飛び上がるような興奮を覚えた。
それはまるで、一人きりで山で遭難してしまった時に、運よく人間に出会うことが出来たというような。
しかもその人間が、他でもない最愛の人ならば――
きっとそこにあるのは、言葉に表せないほどの安堵だろう。


「いきなり刃を向けてしまい申し訳ありませんでした。
ここに居るのが文遠様だとわかったら、何だか……
とても、嬉しくなってしまいまして」

「武人たるもの、いかなる場合でも油断してはならぬもの。
今の刃がもし刺客の不意打ちであったならば、私は反応出来たかどうか……
まだまだ精進が必要だな」

「ふふ。実は、姿が見える前から文遠様だと気付いたので、それからは気配を消して近付いてきたのです」

「さようか……。しかし本物の刺客も、当然気配は消していよう。
背後に接近されるまで存在に気付かなかったのは私の落ち度だ」

「そんなことは……。逆の立場だったら私もきっと気付かなかったと思います。
私が遠くからでも人の気配を察知出来るのは、あくまでも何か別のことに集中していない時だけですし……」

「そうか。ならば互いにまだまだ精進が必要だということだな」

「そうですね」

色気のない武人同士の会話は、夜の帳の中で淡々と紡がれた。

だが、互いに、平素とは決定的に違っているものがある。
戦の残り火と言ってもいい、熱。

その熱を互いに抱えたまま、まるで傷口を押さえても押さえきれずに滲み出す血液のごとく、二人の身からは只ならぬ気配が立ち上っていた。
もしこれが昼間であれば、身に降り懸かる火の粉だけには敏感な使用人たちなどは、全て足早に去ってしまっていただろう。


英瑠も張遼も、互いに互いの只ならぬ気配を敏感に感じとっていた。
ゆえに、他愛のない雑談の後は言葉が続かず、沈黙がその場を支配した。


「……英瑠殿、そなたは……何故ここへ」

再び口を開いたのは張遼だった。
その声は低く、何かを確認するような含みに満ちている。

「私は、鍛練をしようと思いここへ来ました。
戦の直後、しかも夜に何をと思われるかもしれませんが……
しかし、文遠様こそ、こんな夜更けに何故鍛練を」

答えた英瑠の声も、愛する人に向けるそれではなく、将じみたそれに変わっていく。
ゆっくり、はっきりと喋るその言葉には、ある種の期待が込められていた。

「鍛練がしたくなった故……
いや、せねばならなかったから、と言うべきか」

「……!」

英瑠の反応を伺うように覗かれた張遼の視線に、彼女の胸は跳ね上がった。

それは、ずっと抱えてきた獣のようなままならない熱を、この武人も抱えているのではないかと期待したからだった。

「私も同じです。今、鍛練をしなければいけないから……
鍛練以外に、鎮める方法を知らないから」

確かめるように、口を開く。
張遼に顔を向けたまま、数歩距離を取り、手にした方天戟を握り直しながら。

張遼の目が驚いたように見開かれる。

彼も英瑠から視線を外さぬまま数歩後ずさり、双鉞をゆっくり構えると、再度念を押すように口を開く。

「戦が終わっても、鎮まらぬものがあると……
まことにそう申されるか、英瑠殿」

英瑠は今度こそ本当に確信し、不敵に微笑むと力強く頷いた。
彼女も得物を構え、二人は夜の鍛練場で対峙する。
その目に、自らの同類を発見した感動を浮かべながら。

「文遠様の中にも居るのですか、聞き分けのない『獣』が」


――地を蹴る音がしたのも束の間、鈍い金属音が空気を震わせた。

先に仕掛けたのは張遼だった。
飛び込むように間合いを詰め、愛した女へ双鉞を振りかぶる。
それを待っていたかのように足に力を込めた英瑠は、迫りくる双鉞の刃に方天戟の刃を合わせ、打ち払ったのだ。

「……獣とは。そなたは押さえきれぬ炎をそう呼んでいるのか」

一合打ち合うと、張遼は俊敏な足捌きで距離を取り、方天戟の間合いから離れた。

月明かりと鍛練場の端々に点された灯りだけが頼りの薄暗闇の中でも、歴戦の猛者である張遼は正確に英瑠の間合いを掴んでいる。
何度も方天戟と刃を交えているからこそだった。

それはまた英瑠も同じだった。
彼女は張遼の執り成しで董卓に仕えてから、呂布が独立し今に至るまで、幾度となく張遼と手合わせをしている。
互いの得意な獲物の時もあれば、時には木刀で、時には剣で、時には組み手で。
張遼の間合いは知り尽くしていると言っても過言ではない。
たとえ得物を手にしていなくとも――、彼女は、張遼の四肢の長さを良く知っている。
その感触も、温もりも、力強さも。

英瑠は張遼と刃を交えながら、心底感動を味わっていた。
まるで、たった一人で震えながら雪道をとぼとぼ歩いていたところに、温かい手が差し伸べられた時のような。
今目の前に居るこの武人は、異性として愛する相手であると同時に、限りなく自分と近いところに居る理解者でもあるのだと。
勿論、そう言い切ってしまうのは勝手な期待と感傷が大きすぎるだろう。
しかし英瑠にとっては、誰より心を寄せた張遼が、自分と同じような激情を抱えて、今宵鍛錬場に現れた事実。
その事実だけで十分なのだった。


英瑠は呂布のように方天戟を高いところで振り回すと、そのままの勢いで張遼の間合いに滑り込んだ。
方天戟が描く円の行く先を冷静に計った張遼が、身を捻ってそれを避け、反撃の双鉞を叩き込む。
素早く反応した英瑠は、方天戟の柄でそれを防ぎ、距離を取った。

「……しかし、獣とは……そこまで自らを卑下せずとも」

張遼が言うと、地を滑るように振り上げた英瑠の方天戟は風を生み、砂埃を巻き上げて張遼に迫る。
彼はそれを冷静に受け止め、鍔ぜり合いの体勢になると彼らは互いに力を込めたまま会話を続けた。

「卑下しているつもりはなかったのですが……、散々獣の女だ何だと言われていたため、すっかりその気になってしまっていたのかもしれません……
文遠様の『炎』という言い方は素敵ですね」

「内なる炎などと言えば聞こえは良いが、実際は昂りを上手く抑えられない未熟から来るものにすぎぬのかもしれん……、

……くっ、しかし英瑠殿、そなたの腕力は真に人間離れしているな……!
だが、押すだけが力ではないぞ……!」

張遼はそう言うと、方天戟と鍔ぜり合いをしていた重心を唐突に横にずらした。
英瑠の足元が揺らいで身体が一歩前へつんのめる。
張遼はその隙を逃さず、英瑠をやり過ごして背後へ回ろうとした。
だが方天戟を前に突き立てて踏ん張った彼女は、張遼の刃を躱すためにそのまま方天戟を軸に身体を回転させ、距離を稼いでから振り向いた。

「器用なことだ」
「……それは皮肉ですか?」
「いや。可愛いらしいと思ってな」
「っ!!!!」

張遼の爆弾に英瑠は心臓が跳ね上がるのを自覚する。
が、その硬直を見逃さず張遼が再び地を蹴って飛び込んできた。

ガギィィィン、という金属音。

「鍛練中に恥ずかしいこと言って動揺させる作戦は、反則にしたいです……!」

すんでのところで双鉞を受け止めた英瑠は、再び鍔ぜり合いの格好になり少し口を尖らせてぼやいた。

「武人たるもの、いかなる時も隙を見せてはならぬと先程……いや、今のは作戦ではなく本心なのだが」

「っ……!! ですから、それはっ」

互いの武器を盾に鍔ぜり合う中、当たり前のように張遼の顔がすぐ近くにある。

いつもより剣呑な気配。抜き身の刃を彷彿とさせる切れ長の双眸。
英瑠のような半人半妖の反則技ではなく純粋に己の努力によって鍛えあげられた筋肉には今、力が漲り、他でもない英瑠の正面で張り合っている。

英瑠は、胸の奥がざわめくのを感じた。

そのざわめきが何なのか、英瑠はよく知っていた。
たとえば彼に抱きしめられた時、甘い言葉を囁かれた時、武人らしいその真摯な眼差しに射抜かれた時、等々。

だが彼女の頭に疑問符が浮かぶ。
今はそんなことに気を取られている場合ではないだろう。
鍛練とはいえ、これは互いに気が抜けない真剣勝負なのだ。
他愛のない会話は交えているが、手合わせ自体に弛緩した部分は無い。
雑談に興じる部分と、相手の動きや間合いを読み次の手を考える武の部分は、本来頭の中で完全に切り離されているはずだ。

勿論、先程の爆弾のように不意に変なことを言われれば、こと最愛の張遼相手だけには、狼狽えてしまうのだが。
しかし、先程のように狼狽えたところで、いつものようにすぐ気を取り直せるだろうと考えた目測が、どうも今日は誤っているようだと彼女は自覚する。

何故、心を寄せた相手と触れ合う時に起こる甘美な心と体のざわめきが、今起こってしまうのか。

その感覚は次第に大きくなり、頭の中で切り離したはずの『私事』と『武』の境目が、どんどん消えてなくなってしまっているではないか。

それどころか、あれほど『武で発散しなければ退散してくれない』と思っていた内なる獣が、矛先を変え始めているように思える。
則ち、『武を振るうこと』から『張遼と手合わせをすること』、そして今は、その張遼自身を求めることへと…………

彼も自分と同じ、戦の残り火という熱を抱えているのだと気付いた時に跳ねた心。
その感動が何か、純粋な武だけではなく、別のものまで呼び覚ましてしまったのかもしれない、と英瑠は頭の隅で考えた。


英瑠の疚しく乱れた心は、そのまま太刀筋に現れていた。
たとえばこれを、あの鬼神が見た日には、たるんどるだの腑抜けだの罵倒されそうな勢いだ。

当然こうなればこの手合わせは、そんな腑抜けた彼女と相対している張遼に分があることだろう。

だがしかし、そうはならなかった。

歴戦の勇士・張文遠の刃は、明らかに精彩を欠き始めていた。
まるで、目の前にいる龍英瑠と同じように。

英瑠はそれを不思議に思った。
何故なら、英瑠が心を乱していると知ったら、いつもの張遼ならたちまち待ったをかけて鍛練をやめさせ、原因に言及するだろうからだ。
少なくとも、弱った英瑠に合わせてだらだらと刃を振るうようなことは絶対にしないはずだ。

「文遠様、あの」

とうとう集中力の切れた英瑠は、張遼の双鉞を弾き返して防御の構えを取った時に、困惑するように口を開いた。

当然、次に張遼から出てくる言葉は、何事か、もう終わりかといったような内容のものだと思っていた。

――しかし。

「英瑠殿。
…………、私の得物をしばし預かって欲しい」

張遼の口から出てきたのは、耳を疑うような言葉だった。

戸惑う英瑠の前で張遼は距離を詰めると、半ば押し付けるように双鉞を彼女に差し出す。
英瑠は困惑しながらもそれを受け取り、自身の方天戟と二本の双鉞で完全に両手が塞がった格好になってしまった。

「文遠様、これは……」
「英瑠殿。連れ去って宜しいか」

「っ!?」

同時だった。
意志確認と思われる言葉を吐いたと同時に、張遼の両腕が英瑠の身体に回され、そして次の瞬間には抱き上げていた。

言葉を失う英瑠に、張遼が極めて冷静に告げる。

「大事な得物を追いていくわけには行かぬ故。
すまぬが部屋まで落とさぬよう持っていて欲しい」

そう言うと張遼は踵を返し、戦装束を纏った英瑠――とそれが手にする二人分の武器を抱きかかえたまま、鍛練場に背を向けた。
張遼が何故唐突に、武器を英瑠に預けたか。
簡単な話だ。得物で両手が塞がっていては、彼女を抱き上げられないからだ。

「っ、文遠様、これは、そのっ」

「……すまぬが鍛練はもう終わりだ。
残った熱は、互いの身そのもので晴らさん」

張遼はさらりととんでもないことを口にする。

その時はたと英瑠は気付いた。
張遼はちっとも冷静なんかではないのだ。
簡素に平板に目的だけを告げる口調はむしろ、余裕の無い時のそれだと。

「……文遠様」

英瑠は夜の城内を自室へと急ぐ張遼に身をすり寄せながら、張遼の思惑を確かめるようにその名前を呼んだ。
まるで、いつも閨でそうするように、秘やかに。
張遼は、夜闇の中前を見据えて歩を進めながら、同じく秘やかな声色で返す。

「英瑠殿にそのつもりが無いなら、どうかこのまま飛び下りてくれまいか。
そなたには容易いことだろう。
……拒まぬなら、同意と受け止める」

英瑠の頬が、浮かされた熱によってみるみる赤らんでいく。

――異存など、あるはずもなかった。


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