獣と炎・上

※R18。裏描写は下編のみ。夢主視点と張遼視点が交互に替わります。
※長編の呂布軍IF設定。夢主と張遼は通じ合っている仲。




いつからだろう。

女だてらに一軍を預かる武将・龍英瑠は、自分の中に途方も無い獣が住んでいるような気がしていた。

普段はじっと鳴りを潜めているその獣は、英瑠が武器を手にした途端、むくりと起き上がる。
そして彼女が馬に跨り戦場に身を踊らせると、その眼をギラつかせ、敵軍を睨み咆哮するのだ。

さらにその獣は、英瑠が愛用の武器――あの飛将・呂布と同じ方天戟――を振るうとき、鮮やかに身を翻して敵に飛びかかっていく。
立ちはだかる者を薙ぎ払い、粉砕し、荒々しい雄叫びを上げながら戦場に武を示す。そんな獣だ。

獣。そう、獣だ。
敵の屍を積み上げ、味方を鼓舞し、勝利へと導く。
武将は皆多かれ少なかれ、己の内にそんな獣を飼っているのだろう。

だが、その宥め方は人それぞれ違っているはずだ。
きっと。


――それはさておき、武将にとって、理想の戦とは何だろうか。

戦力差のある、味方に有利な戦か。
強敵と相見える事が出来る戦か。
戦功を立てられる機会のある戦か。
はたまた、不利な状況から戦況を覆し、数多の賞賛と歴史に名を刻む栄誉を手にすることが出来る戦か。

英瑠は、『素早く、有利な状況と戦力で、全く苦戦せずに颯爽と勝利し戦功をあげる』という、戦としてはほぼ理想的な状況に――
しかし、僅かばかりの物足りなさを感じている自分に気付いていた。

それは、腕に自信のある血の気の多い武人にとっては珍しいことではないのかもしれない。
英瑠が主と奉じる呂布風に言うならば、『暴れ足りん』というやつだ。

しかし厄介なのは、その『物足りない』食事では満足できなかった内なる獣は、大人しく檻の中には戻ってくれないということだ。

もっと暴れさせろと低く唸り続ける獣は、楽な戦が終わった後はことさら英瑠の中で暴れ続け、血を熱く滾らせ続ける。
それはまるで、治安の悪い路地でわざとごろつきに絡まれるように歩く喧嘩狂のように、神経を昂らせ獲物を狙うような眼で否応なしに世界と相対するしかなくなるのだ。

だがそんな危険極まりない獣とはいえ、たいてい、帰城した夜に祝杯を仰って一晩経てば大人しくなるものだ。
内なる獣は次の出番を待ち、檻に戻ってひっそりと眠りにつく。

後に訪れるのは静寂だ。

英瑠は、武人であり女性でもあるという己自身の日々を、ごく普通にまっとうする。
たとえば、将として兵を鍛えたり執務に勤しんだりする傍ら、心を寄せた異性――張文遠とほの甘いひと時を過ごすといった具合にだ。


しかし。

時には、そうもいかないことがある。

内なる獣が駄々をこね、戦が終わり祝杯を口にしても一向に檻に戻ってくれない時がある。

そんな時英瑠は、その熱を持て余して、ひたすらに武芸の鍛練に精を出すことにしていた。
まるで熱にうなされた頭を氷水で冷やすように、戦で出し切れなかった熱を放出するために、ひたすら、一人で。

そういう時の自分がどのような雰囲気を纏っているか、彼女は気にはしなかった。
遠巻きに目の合った兵が怯えた顔で通り過ぎるあたり、剣呑な気を発しているのだろうなとは思う。

だがそうする以外に、獣を鎮める方法を英瑠は知らなかった。


たとえばもし、不利な戦況で兵糧も尽きかけているような劣悪な戦に参加していたとして、死力を尽くしてどうにか勝利はしたものの悪天候に見舞われ、ぬかるんだ泥に足を取られながらも重い武具を纏い、肉体も精神もこの上なく疲弊した状態でどうにかこうにか帰陣したならば、件の獣もいい加減大人しくなるのだろうか。

疲労困憊した身体を引きずりながら部屋に帰り着き、鎧を脱ぐ間も惜しんで寝台に身を投げるなり泥のように眠りこみ、ようやく目を覚ました時には体中が軋んで起き上がれないという状態になれば、暴れ足りないだ何だが全て滑稽に思えて来ることだろう。

しかしそんな戦がしたいかと問われれば、答えは否である。
率いている将兵がすり減って行くのを考えるだけで、胸が痛くなる。
その後の軍の立て直しも含めて、だ。

第一、戦は個人の衝動を充たすためにやることではない。
自勢力の未来のため、大義のためだ。
戦場に武を示すという言い分が受け入れられているのは、その武で戦の勝利に貢献し、主君のみならず数多の将兵や民に勝利の恩恵をもたらすことが出来るからだ。

ただ力を振るって他者を嬲りたいだけならば、それはもはや武ではない。ただの暴であり、殺人者だ。
曲がりなりにも将軍である英瑠には、それは痛いほどよく分かっていた。
分かっていたからこそ、不要な力を振るわないように、己を律した。

獣は必要な時に、必要な場面でだけ解き放てば良い。
普段はきちんと獣を律し、檻に閉じ込めて獣を飼いならしておくのが調教師というものだ。

それが、戦場で血と埃にまみれ怒号の只中に置かれても怯まずに、俊烈な武を示すことが出来る万夫不当の将軍という存在に必要な節度であると、英瑠は考えていた。


そんなわけで、不完全燃焼と言ってもいいあっけない戦から帰参したばかりの英瑠は今、祝杯をあげても一向に檻に戻ってくれない獣と対峙していた。

正式な戦勝の宴は後日催される。
昼間に帰城したばかりの英瑠は、報告と最低限の執務、軍まわりの作業をこなし、夜は取り急ぎ同軍の仲間たちと軽く祝杯をあげ、宿舎の自室に戻った。

しかし一度火のついた獣は檻に戻ることを拒否し、英瑠は寝台に体を横たえてみることもせずに、こんな時の半ば慣例になっている鍛練を行う為に愛用の方天戟を手にして外へ出るのだった。


人の居ない回廊を通り過ぎ、鍛練場へ向かう。

本当はすぐそばにある庭園で獲物を振り回しても良かったのだが、一度誰も居ないからと暗闇の中調子に乗ってぶんぶんやっていたら、うっかり植木を薙ぎ払ってしまい、朝になってから報告すればいいやとそのまま寝入ったらあろうことか寝過ごしてしまい、慌てて飛び起きた時には庭園を管理していた担当者が首を刎ねられそうになっていたということがあった。

もちろん担当者には平謝りして迷惑料を手渡し、植木の弁償もした。
しかし華雄あたりの猛将には豪快に笑われ、陳宮には『暗闇の中で植木の手入れとはこれまた……何かの、何かの修行ですかな?』などと嫌味を言われてしまった。
あげく一番知られたくなかった張遼には、珍しい樹木ではなくどこにでもある植木で幸いだった、気を落とされるな、だが長物には気をつけられよというような慰めにならない慰めの言葉をもらう有様だった。

以来彼女は、庭では武器を振り回さないと心に誓ったのだった。


方天戟を握りしめた英瑠が、屋外に造られた鍛練場に近付くと、てっきり無人だとばかり思っていたその場所に灯りが点っていた。

英瑠の鋭敏な感覚が、見知った気配を捉える。

誰よりもよく知った、その気配の主は……、


***********************


英瑠が戦で滾った獣を宥めるのに難儀している頃から、遡ること数時。

張文遠は。
彼は、英瑠と同じように帰城してから幾つかの雑務をこなし、夜には共に戦った仲間たちと祝杯をあげていた。
将同士も顔を合わせたが、正式な戦勝の宴が後日催されることもあり、各々が好きに盛り上がって適度なところで退散するという緩いものだった。

そこでは、英瑠とも軽く盃を交わしたはずだ。
だが、互いの部下や関係者に囲まれ、あまり込み入った話をすることはままならないまま離れた。
彼女とはそれから会話をしていない。

張遼は、手際よく終わりすぎた戦で出し切れなかった力を持て余していた。

戦で昂った気の行き場を探していたと言ってもいい。
本当なら、このまま鍛練に繰り出しても良いとすら思っていた。
しかし周りを見渡せば、楽勝だったとはいえ皆戦に疲れた顔をしている。
早晩ここもお開きになるだろう。
この状況で誰か手合わせを、などと口にしたら、狂人扱いされること必至である。
あるいは主君の呂布なら張遼のその感覚を理解してくれたかもしれないが、あいにく呂奉先は不在だった。

ならば、と張遼は先ほど離れた英瑠の姿をもう一度探した。
この場に居る女は女官や軍つきの妓女ばかりだ。
あの彼女――龍英瑠の、小さな身体で武人の装束を纏った姿は、衆人の中でもよく目立つ。

だが張遼がどれだけ場を見渡しても、もはやそこに英瑠の姿は無かった。
良く見れば彼女の関係者も消えている。どうやら早々に盃を置いて退散してしまったようだ。

張遼はそれに気付いたとき、何とも形容しがたい思いに駆られた。

たとえるなら、まだ貯蔵庫に残っているはずだとばかり思っていた、好物。
その好物が、すっかり消え失せてしまっていた時のような。

好物は翌日また、市場へ買いに行けば購入出来る。
しかし、それでは遅いのだ。そうではない。
欲しいのは今だ。勿論明日手に入るというなら、それはそれで有り難く頂戴しよう。
だが、今ここになければ、悲しいような、もどかしいような、焦れるような想いに駆られること必至であるのだ。

張遼は自らの内で渦巻く炎を自覚していた。
そして、この炎を鎮めるには英瑠に会うのが一番手っ取り早い。そんな気がしていた。

だが彼女はもう居ない。
否、城内をくまなく探せばどこかには居るだろうが、彼女には彼女の役目がある。それはわかっている。

己の内の炎を鎮めるためには何をすべきか。
幾度も戦場を超えてきた張遼には勿論分かっている。

だから。

「張将軍、宜しければ盃を」

声を掛けられて、揺らいでしまった。



張遼が一人になった機を見計らって声を掛けてきたのは、綺麗に着飾った美しい妓女だった。

張遼の盃に酒を注いだ彼女は、麗しい声でこの度の勝利を祝福する言葉を紡ぎ、彼に微笑み掛ける。
ふんわりと立ち上る香と細く柔らかそうな体の線は、男がつい手を伸ばさずには居られない色香を纏っていた。

辺りを見れば、好色そうな将たちがめいめい気に入った妓女の腰に手を回し、あるいは上機嫌で酒の相手をさせ、あるいは場を後にし暗がりに消えていった。

張遼は、そんな彼らを不埒だ何だと糾弾するつもりは毛頭無かった。
何故なら、張遼にも彼らの気持ちが理解出来たからである。

戦で滾った熱、あるいは戦勝で浮かれた熱。
どちらにせよ、熱は炎を生み、人を駆り立てる。
今張遼の目の前で微笑みそっと身体を寄せてくる女は、その熱を受け止めるために居るのだ。


張遼の背筋を、制御できない炎が這い上がっていく。

盃の縁から溢れそうなほど酒が注がれているなら、衆目を気にせずに口をつけてしまえば良いのだ。
誰も咎める者はいない。
ならば。

「……将軍、」

女がそっと張遼に手を伸ばす。
その目には悪意はなく、ただ選ばれようとする可愛らしい媚びだけがあった。

そして、張遼は。





――彼、張文遠は足早に夜の空の下を歩いていた。

誰の気配も纏わず、たった一人で。
その手に、愛用の双鉞を手にして。

彼の足は鍛練場に向かっていた。




本能的に女を求め伸ばし返した手はしかし、女に触れるか触れないかのところで、自らによって押し止められた。

それは理性ではなく、また別の本能によるものだったのかもしれない。

一時は昂った熱を女の色香で煽られた張遼だったが、戦の血生臭さなどとは無縁な妓女の蠱惑的な微笑みを見た時に、ふと悟ってしまったのだ。

違う、と。


たとえば。
酒を注がれるために用意された盃は、上段から乱暴に注がれる酒を、ただ黙って受け止めてくれるかもしれない。
たとえ酒がこぼれようが飛び散って辺りが濡れようがお構いなしに、盃はただ盃としてただそこに在り続けるかもしれない。

しかし張遼が本当に欲しているのはそんな盃ではない。
そもそも彼は、盃に酒を注ぐことを欲しているのかすら怪しかった。
ともすれば、盃自体を壁に叩きつけ、壊してしまいたいのかもしれなかった。
しかしそんなことをすれば盃は割れてしまうだろう。

だが、そもそも、盃はお行儀の良い盃でなければならないのだろうか?
酒をぶちまけても、床に叩きつけても、あらゆる全力を吐き出しても、壊れない盃――のような何か――が、つまり鋼鉄で出来た大きな器のようなものが、欲しかったのではないだろうか?



哀れ、小さな盃のごとき上品な妓女は、その手をやんわりと張遼に振り払われ、悲しそうな残念そうな顔をした。

張遼は、気の優しそうなその女に僅かな罪悪感を覚えながら背を向けると、「すまぬが失礼する、」と一言口にして、その場を後にしたのだった。




一人鍛練場に立った張遼は、双鉞を構え、振った。

祝宴もたけなわだと言うのに今頃鍛練場の灯りを点すことを頼まれた使用人は、困惑したような、怯えたような表情を浮かべていた。
一人で鍛練に勤しむ彼もまた、どこかの女将軍のように、自分が今どれだけ危うい気を発しているかということに無頓着なのだ。

武器を振るい続ける張遼は、次第にその行為に集中していった。
それと比例して、物足りなさが頭の奥で鐘を鳴らしていく。
素振りだから当たり前なのだが、空を切るだけのこの行為には手応えがない。

ならば、と彼は目つきを鋭くする。
何も斬れぬのなら、せめて、もっと速く。
風圧で鋼をも断ち斬れるのではないかというくらい、疾く。

もっと。
はやく。

疾、――――


ぞわり、と噴き上がる気配を背後に捉えた。

わずかな月明かりと鍛錬場を囲む薄灯りだけが視界を確保する、夜闇の中。

反射的に振り向けば、『それ』が何かを振りかぶった。

円を描くように空を切る刃、薄灯りに照らされた相貌とその正体。

全て同時に悟った。
しかし手は止めず、言葉も発さず、その刃を鉞で迎えた。

振りかぶられた刃が本気の殺意を纏ったそれではなく、探るような、こちらの意志を問うように差し出されたものだと気付いたからだった。

乾いた金属音が火花を散らす。

たった一度だけ打ち合うと、その存在は刃を下ろし、敵意がないことを改めて示した。

今のはただの挨拶だと、そう無言で告げるように。
その身に、どこか既視感のある剣呑な気配を纏わせながら。

「――英瑠殿」

張遼が口にすると、その名で呼ばれる女は、愛用の方天戟を垂直に立ててそっと拱手をするのだった。



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