22.すれ違い


陳宮は毎日を忙しく過ごしていた。

呂布の下、知勇を束ねる軍師として戦に向けてやるべき事は多い。
数々の群雄を退けた呂布の元には、その名声を聞きつけた人々が続々と集まってきていた。
日増しに大きくなっていく自勢力の力量を把握し、統御する。
決して繊細な部分が得意ではない鬼神と呼ばれる主の下で、軍師にはやるべき事が山積みなのであった。


そんな中。
兵の調練を終え一息ついたとある武将の姿を見た時に、陳宮は、また厄介なことに巻き込まれそうだなと直感した。

戦場で武を振るう将たるもの、兵を指揮するときは己の感情、調子の良悪などは極力態度には出さない。
勿論そうでない将も居るが、少なくともこの武将においてはそういった未熟な点は無い。

しかし、である。
あの彼も人間だ。ひとたび衆人の目を離れれば、個人的な感情を顕わにする事だってある。

今。
厩の外で人目を避けるように自ら馬の手入れに勤しんでいる彼。
その背中に、哀愁が漂っていたとしても――
たとえば、腹立たしい事があって部下に暴力を振るったり、悲しい事があって酒に溺れ知人にぐずぐずと絡んだりするよりは――随分ましであると、陳宮は思った。

なにせ陳公台の主君は、部下に手こそ上げないものの、怒れば怒鳴り調度品を蹴飛ばし、悲しくても怒鳴り壁を殴る――という、至って単純だが何とも扱いに困る鬼神だからだ。
まぁ最近では、それも随分ましになってきているとは思うが。

そんなわけで陳宮は、面倒臭いことになりそうだとは思えども、いま独り寂しく馬の手入れに精を出している彼――張文遠に声をかけないわけにはいかなかった。

もっと言えば、いくら公私混同の無い武人とはいえ、憂いがあるまま戦場に出ては万一の事が無いとも限らない。
軍師として、それは当然看過できないことであるから、出来ることなら原因を把握し、可能なら取り除いておきたいという目論みもあったのだった。


「……何か用向きがおありか」

果たして直感は当たったな、と陳宮は己の勘の良さを内心褒め、そして同時に後悔に襲われた。やはりこのような面倒な事は他人に任せれば良かったのだ。

陳宮に声をかけられた張遼は、馬の手入れをする手を止めぬまま応えた。
その声には寂しい雰囲気を醸し出しつつもいささか怒りを押し殺しているような、そんな危うさが滲んでいた。
陳宮は腰に手をやると、さてどう切り出したものかと思案する。
しかし先に口を開いたのは張遼だった。

「陳宮殿。単刀直入にお訊きしたい。
……、私は、恐ろしいだろうか」

唐突に手を止め、ぽつりと苦しそうに吐き出した張遼の言葉に、さすがの陳宮も耳を疑った。
陳宮が声を掛けた時は不機嫌さを隠せていない声色で応えたくせに、しかし次の瞬間には張遼の方から水を向けてくるとは。
当の張遼はといえば、「くっ……、」と声を詰まらせながら目を逸らし、何やら苦々しい表情で歯噛みしている有様だ。

そして彼が口にした今しがたの一言を咀嚼した陳宮は、はて? と訝しんだ。
何故なら、その話題――彼が巷で、特に子供に恐れられているという件は、今に始まったことではないからだ。

彼の戦場での苛烈な武が恐れを喚起したのか、張遼が来るよと言えば泣く子も黙る。そんな話があった。
それを聞いた張遼はたしか以前、躾に人の名を使うのは手抜きではないか!? と柄にも無く憤っていて……というより悲哀に満ちた表情を浮かべていて、陳宮は内心笑いをこらえていた事があったはずだ。

もっとも、最強の武将を頂とする呂布軍にあって、人々に恐れられる等々ということは別段珍しいことでもない。
当の鬼神は子供どころか大人の敵兵さえ怯えさせる有様だし、その下には、攻撃した部隊を必ず打ち破る陥陣営という異名を持つ部隊を率いる猛将や、件の半人半妖の化け物女と称される将など、その手の噂は広く知れ渡っているのだ。
何故今更その話を蒸し返す必要があるのだろうか。全く意味がわからない。

……となると、また街で民の子供にでもこっぴどく恐れられて意気消沈したか、はたまた子供ではなく大人に――
……否。
彼は武人であるし、民の大人に恐れられたくらいではへこみはしないだろう。
第一、彼の紳士的な人となりを多少は知っている庶人なら、平素の彼を恐れるわけがない。
彼――張文遠に限って、武力を持たない無辜の民に対して身分を笠に着て横暴や暴力を振るうなどということは決してないだろうからだ。

では何故。

「……何を、何をおっしゃっているのですかな。
子供らは成長していけば、やがて無駄に怯えることはなくなっていくでしょうに。
大人でそのような事を言う輩が居たのなら、そんな無礼な輩は放っておくか斬り捨てれば宜しいかと……。
もっとも……、武将にとって、戦場で恐れられるということはある種の名誉のような気も致しますが……はてさて」

「…………。」

やはり求めていた答えと違ったか。励ましも効果がないようだ。
彼の傍でその愛馬だけが暇を持て余すように陳宮にちらりと目を向けた。

となると本格的に疑問符がつく。
彼をここまで、意気消沈郡・哀愁県に追いやる人間とは一体誰なのであろう。
親族か。友人か。

「!!」

そこまで考えて陳宮はピンと思い当たった。
そうだ。彼には『あれ』が居たではないか。
他でもない陳宮が、延々と煩悶しのたうつ『あれ』に助け舟を出し、彼らは相思相愛になったはずではないか。
ははは将同士の恋愛とは前代未聞ですな。しかしこれで憂いは無くなりましたな。
……そんなことを考え、終わったものとすっかり失念していた。
そういえばあれから進展を聞かない。しかし破局したという話も聞かない。
とっくに祝言をあげていてもいい頃だが、その気はないということか。
さすがに相手が半人半妖の女将軍では張遼側の親族が黙っていないのか。
――いや、それは今どうでも良い。

張遼が口にした一言だ。
彼が苦しそうに吐き出した一言から導き出されるもっとも一般的な解は、他ならぬ『龍英瑠』に怖がられた、ということだ。

しかしこの答には重大な誤りがある。
彼女――英瑠は、張遼を恐れることなど絶対に無いだろうということだ。

武器を見るだけでも怯えてしまう良家の箱入り娘ならともかく、彼女は万夫不当の女武将だ。
仕官する前から剣を嗜み依頼で人を斬ることもあったと聞く血生臭い女が、今更愛した男を恐れるなど何の冗談だろう。
あの彼女なら、たとえ張遼が敵兵の返り血を頭から被り、武器を手にしたまま殺気立った眼で帰陣してきたとしても、怯えることなど無いだろう。
素晴らしいご活躍でいらっしゃいますね、等と笑顔で出迎えるに違いない。

(――待てよ)

陳宮はさらにピンときた。
あの獣の力を持つ彼女、女人としての価値観がプッツンしているのは武に関してだけで、他はどうだ?
何のことはない、陳宮が助け舟を出さなければならなかったほど、他人の助力が無ければ秘めた想いを男に告げることも出来ないような臆病な女だったではないか。
相手に嫌われることに怯え、失望させることに怯え――
つまり、自分の心が傷付くことに怯える、ごく普通の人間である。

となれば。
その『ごく普通の女』である英瑠を怯えさせる何らかの事態が発生し、その恐怖が他ならぬ張遼に向けられたのだとしたら。

全て、つじつまが合うではないか。

これは、是非とも探りを入れる必要がある。
もし、一軍を預かる将を恐怖に陥れるほどの何らかの弱みを、二人が共有しているのだとしたら。
これは軍師として絶対に看過することは出来ない。

「……張遼殿。女人とは実に、実に繊細なもの。
そして……いじらしく思わせぶりな生き物でもありますな。
たとえば、つい本心とは違う態度を取ってしまったり、男を誤解させるようなことを口にしたり……。
はっきりと面と向かってそう言われたのでなければ、気にするだけ無駄でしょうな。
それよりも、それよりも、何故彼女が機嫌を損ねたのか原因を突き止める方が肝要かと……」

陳宮は、砂を盛った小山に突き立てた棒を倒さぬように周囲の砂だけを少しずつ取り除いていくような慎重さで、張遼に探りを入れた。
しかし彼に返されたのは無情な宣告だった。


「……っ、…………。

……………………『怖い』と。
そう直接言われたら、どうしようも無いではないか……!」


開き直りにも近いやりきれなさを滲ませながら吐き捨てられた一言に、陳宮は今度こそ、言葉を失った。

張遼はそれから、
「くっ……、私が己を抑えられずにあのようなことを……っ、ゆえに……」
などと零し、陳宮はさらに頭をひねる羽目になるのだった。


***********************


陳宮が一人悪戦苦闘しているその頃。
龍英瑠は意外な人物に意外な声を掛けられていた。

「……お前。そんな腑抜けた面で戦が出来るのか」

「っ! 殿……! っ、私は、そのっ」

「……ふん。また下らん雑魚に何か言われたか。
俺は強い者以外認めん。群れるしか能の無い雑魚が何を吠えたところで、聞く耳など持つ必要は無い」

飛将軍呂布は時に、鬼神と恐れられる一面とはまた違った顔を覗かせることがある。
その顔を一番良く知っているのは他ならぬ貂蝉だが、英瑠もまた、今ここで主君の人間的な一面に触れることになったのだった。


あの日――馬上で張遼に触れる手を押し止めたあの後、英瑠は一晩中泣き明かした。
そして朝には気を取り直し、何事も無かったかのように出仕して行った。
人から聞いた話では、何でも長時間涙を流すと普通の人間は目が腫れるらしい。
だが英瑠が泣き腫らした顔になることはついぞ無かった。
また一つ己の身について判明した事実があったと、英瑠は自嘲気味に嗤ったのだった。

張遼とはあれから会話らしい会話をしていない。
軍務で顔を合わせることはあったし業務的な言葉は交わしたが、二人きりで私的な会話をすることは無かった。

彼には、謝らなければならないと思う。
せっかく親しくなろうと手を伸ばしてきてくれたのに、触れられたその温もりが何より嬉しかったはずなのに、拒んでしまった。
理由は他でもない、その先に進むことが怖かったからである。

もっと言えば、自身の性質が顕わになることにより、彼を失望させることと、彼に嫌われることを恐れているからである。
彼自体を恐れているわけでは決して無い。

しかし謝るにしても何と言えばいいのか。
拒んだのは気の迷いだと? だがこれ以上深い仲になるのが怖いのは事実だ。
原因が取り除かれていない以上、何を謝ったところで根本的な解決にはならないだろう。

そんなわけであれ以来彼女の心は、ずっと晴れることの無い靄の支配下に置かれていたのだった。
しかし人前では努めて顔には出さないよう尽力していたはずだったのだが。
多数の将兵たちの前では平静を保てていても、こうして今――
独り、しばし休憩をとっている際に物思いに耽っているところを見られては、その努力も意味はないということか。

まさかその相手が他ならぬ主君・呂奉先だとは、思いもよらなかったわけだが。

英瑠は呂布に丁寧に拱手をすると、その気遣いに礼を述べた。
勿論呂布の推測は何一つ当たってはいなかったのだが、主君に気遣いの言葉を掛けられただけでも光栄である。
しかもあの、暴威を絵に描いたような鬼神から、である。
不器用な彼の思いやりに、貂蝉ならずとも心が熱くなるのがわかった。

英瑠は、公私混同をさらに厳しく排しようと己に誓う。
主君に気を遣わせるようなことが二度とあってはならない。

そして。そんな英瑠の決意をよそに、呂布が何か思案を巡らせていたことなど――
英瑠は、全く知りもしないのであった。





「英瑠様、私の家にいらっしゃいませんか」

英瑠が貂蝉に声を掛けられたのは、そのすぐ後の事であった。

未だ張遼に謝ることも出来ず悶々としていた彼女は、貂蝉と楽しくおしゃべりをする気にもなれずやんわりと断ろうとした。

だが貂蝉に、
「実は奉先様に手作りの菓子をお出ししたいと思っているのですが……、自信が持てず……。宜しければ英瑠様に、味見をしていただければと……」

などと言われては、断ることなど英瑠には到底出来ないのであった。




「貂蝉様のような高貴なお方でも、自ら菓子をお作りになられる事があるのですね」

貂蝉の家に足を運んだ英瑠は、貂蝉が自ら作ったという菓子を、彼女に勧められるまま口にした。

「……っ、!!!!
こ、これは……!!

とても美味しいですよ貂蝉様……!!
こんなに美味な菓子なら、きっと殿もお喜びになりましょう……!!」

「まぁ……! 本当ですか……! この貂蝉、それを聞いて安心致しました……」

桃を使ったその菓子は、適度な甘さを持ち桃の良い香りで満たされ、見た目といい食感といい素晴らしいものであった。

貂蝉は司徒・王允の養女で絶世の美女である。
その声は玉を転がしたように美しく、得意の舞いは花のごとく優美で艶やかであった。
そんな非の打ち所のない彼女が、自ら労力を割いて、大切な人のためにお菓子作りまで行うとは。

英瑠は貂蝉の隙の無さにただ感服し、同じ女として敬意を覚えるのだった。

貂蝉のような完璧な美女なら、想いを寄せた人間との関係に対して何も憂うことなど無いのだろう。
たとえ相手があの鬼神だろうとも。
たとえその過去が――策謀の闇で彩られていたとしても。
英瑠はそんなことを考えていた。

かたや自分はどうなのだろう。
取り柄は武だけだ。むしろ武以外には何もないと言って良い。
目上の保守派の将からは、「いくら強くてもその力は邪道だ」とはっきり言われたこともある。
陰で兵が、「いくら女でも『あれ』は無理、怖い」と嘲笑混じりに零していたのを耳にしたことだってある。
縁談もまとまることがなく、ようやく自分から慕った人と想いが通じたのも束の間、不安に押し潰されて彼を傷付けた。

――英瑠は、貂蝉お手製の菓子の最後の一口を飲み込んだあと、そんなことをぐるぐると思い出していたのだった。

気付けば、ぽたり。

涙が一粒卓にこぼれ落ちた。

「っ……!!」

我に返り慌てた英瑠は、急いで涙を拭う。
貂蝉に気付かれまいと、菓子と一緒に出されたお茶を仰って表情を見られまいとした。

しかしそんな不自然な英瑠の様子を、貂蝉は見逃さなかった。

「…………何か辛いことがおありになったのですね……。
私で良ければ、どうかお話しくださいませんか……。
私は、英瑠様のお力になりたく存じます」

英瑠を気遣う貂蝉の声はひたすら優しく、穏やかで、慈愛に満ちていた。

「っ…………、」

英瑠は、貂蝉のその声に、まるで背中を優しく押されたような、自分の中の何かが揺らぐのを実感した。

そして向かいに座っている貂蝉が、目の前の半人半妖を心底労り憂慮するような眼で、卓上で固く握りしめられた英瑠の拳にその柔らかい手をそっと重ねてきた時にとうとう、英瑠は大粒の涙を流した。
彼女は堰を切ったように、自らの出生の秘密を貂蝉に吐きだすのだった――



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