20.棘


呂布軍一行はエン州に帰還した。
だが息をつく間もなく、陳宮は将らを集めて告げるのだった。
長安に侵攻する日が近いこと。
そして、それには他の勢力が黙っていないだろうということ。

ゆえに今はただ、疲れた兵を休ませ、軍備増強に力を入れなければならない。
一方で、民の暮らしにも目を向け土地を豊かにしていくことも肝要だ。
やるべきことは沢山ある。
日々勢いを増していく呂布軍勢力の中にあって、英瑠も様々な仕事に追われる日々を送ることになるのだった。




「……それで。張将軍との仲はどうなってらっしゃるのですか」

普段、軍務や執務をこなしそちらで寝泊りすることが多かった英瑠が、仕事を終え久々に私邸に帰ってきたところ。
こちらも日々忙しく過ごしていた弟が、久々の姉弟団欒の時間にいきなり繊細な話題をぶちまけた。

「……特に何も。お互い忙しいですし、普段はゆっくり会話をする時間もありませんよ。
でも、たまに鍛練で手合わせは致しますし、休みの日には語らうこともありますし……、
そうだ、この前はいつぞやの祭りのときのように二人で街へ出ましたよ……!
と言っても視察のお役目でですけどね、」

しかし英瑠は、食後の茶を啜りながら至って平然と、後半は少し嬉しそうに浮ついて報告をするのだった。

「…………。それで……、それだけですか?」

「はい。……ふふ、ちょっと浮かれすぎでしたね……!
恥ずかしいので、他の方には言わないでくださいね。」

「…………。」

弟の真意を推し量る素振りも見せず浮かれた様子の呑気な姉を見て、弟は、陳宮から英瑠と張遼が想いを通わせたと聞いた時に感じた安堵を、もしかしたら少し疑う必要があるかもしれないと眉を動かした。
その上で、かまをかけるようにさらに話題に食い込むのだった。

「では私ももうすぐ安心することが出来るのですね。
姉様が独り身で居るうちは、妻を娶ることも出来ないと覚悟しておりましたので」

「………………………………、」

さて。

弟のこの言葉に英瑠は、なんと茶を口に含んだままじっと弟を見つめて固まってしまったではないか。

やがてごくりと茶を飲み込んだ彼女は、不自然に弟から目を逸らすと、しばし黙りこんだあと弟に謝罪するのだった。

いわく、弟に心配をかけてしまったこと。
自分の存在が弟の婚姻を邪魔してしまっていたこと。

しかしついぞ、その解決策――つまり、自分がこれからどうするかは口にしないのだった。

彼らは知るよしもないが……、たとえば、1800年くらい後の未来なら、そんな物言いは失礼だと、親兄弟にかかわらず自由に生きて何が悪いと言えたのかもしれない。
しかしここは、漢王朝の天下なのだ。
遠く西の地で『神の子』と崇められる救世主が生まれてから、まだ200年も経っていない。

たとえ、半人半妖という特殊な生まれと、それによる力――武を振るうという生き方を省いたとしても。
英瑠のように、夫に一度も嫁がず、想いを寄せた人が居るにも関わらず関係を進めず、触れぬ程度の慎ましい距離のまま清い身を保ち、弟と二人だけで暮らし続けるなど、異端もよいところなのだ。

英瑠は弟に頭を下げた。
そして、家長はあくまでも貴方なのだから、と前置きした上で、どうか私のことは気にせず妻を娶って欲しい、故郷から母たちも呼び寄せ暮らして欲しいと説き、自分は一人で暮らすと述べたのだった。

弟はそれを聞いて愕然とした。
嫌な予感は当たってしまった。
この姉は、好いた相手との距離を詰める気などないのだ。
気付いた時には、叫んでいた。

「姉様!! 何故肝心なところをはぐらかすのですか!!
私は、姉様が身を落ち着けるまで何処へも行きません!
もし妻を娶って良いと言うなら、ここで姉様と共に暮らします!
姉様の邪魔をしないような穏やかな女性を選びますので、どうか妻に優しくしてやってくださいね!
勿論故郷の母たちも呼び寄せましょう。
母と下弟は姉様を嫌っていましたが、今の身分を伝え丁寧に説得すれば大丈夫でしょう。
ああ、そうなるとこの家では手狭ですね。
広い家に越さなければなりません!
ははは、忙しくなりそうですね!」

弟はやけになり早々とまくし立てた。
黙りこむ姉を見て、女々しく口ばかり回る文官の己を恨む気持ちにもなった弟だが、今は無視することにした。
英瑠は弟の小言に反論する様子もなく、ただぼんやりとどこか遠い目で宙を見つめている。

「姉様!! 聞いてらっしゃいますか!!
っ、姉様がそのようなお考えなら私にも考えがあります。
覚悟してくださいね」

勿論英瑠にも立場があるし、将同士とはいえ年齢も位も上である男に向かって女の方から距離を詰めるなど、容易には出来ないことであろう。

だからこそ弟は、これは何としても相手側――張遼の方を何とかしなければいけないと考えた。

だが。

そんな弟の心を見透かしたように、英瑠がふと弟の名を呼んだ。
その声は穏やかではあったが強く、将としての威厳に満ちていた。
彼女は弟の顔を見て、一言ずつ念を押すように告げるのだった。

「貴方に心配をかけたこと、心から謝ります。
でも、私の身の振り方は自分で決めますので、どうか静かに見守っていてくださいませんか。
貴方の邪魔は致しません。
先程言ったことは本心です。
もしお嫁さんを迎えるのなら、私は祝福致しますよ。
私は貴方に幸せになってほしいと心から願ってます。
だから……、早まったことは絶対にしないでくださいね。
お願いします」

今度は弟が黙りこむ番だった。

姉の言葉は一見穏やかでいて、実際は濁流に呑まれても動かない石のように、重く頑なだった。

弟は既視感を覚えた。
そうだ。この鋼の意志こそが、姉を姉たらしめるものなのだ。
夫に仕え穏やかに暮らす女子の道を捨て、故郷を飛び出して腕一本で乱世を渡り歩いてきた意志力。
いくら外堀を固めても、本人に思うところがある以上、どうしようもないのだ。

弟はため息をつき、肩を落とした。

男女が夫婦の契りを結ぶというのは、まず互いの親が相手を見繕い、素性を調べ、引き合わせるという古来からの儀式のようなものだ。
だがそんな形から入るものとは別に、男と女は時に予期せぬところで惹かれ合い、恋慕の情を抱くことを……、そしてそれがどれほど心地良いものかということを、人々は知っている。

そんな中で、純粋に心を寄せた相手と夫婦の契りを交わせるなら、これ以上の幸せはないだろう、と……。
そのために弟は、姉の力になろうとしただけなのだが――

そんな弟の心情を察してか、英瑠が席を立ち、弟の側へ寄ると肩に手を置いた。
そしてゆっくりと語る。

「厳しい口調で言ってしまい、ごめんなさい……。
貴方の気持ちはちゃんとわかっていますよ。
私の将来を思い、心を砕いてくれたこと……とても嬉しく思います。
でも私は武人。将軍なのです。

そして……、この血の半分は人ではないのです」

それから英瑠は、聞いてくれますか、と前置きした上で、己の出生の秘密を弟に語り始めるのだった。


***********************


英瑠は自らの想いが張遼に通じたとき、天にも上るような気持ちだと思った。

あの、ひたすら焦れるような――
ふとした時に相手の存在が脳裏を過ぎり心臓を締め付け、ため息ばかり出て切なくなるばかりの激しくも甘い懸想という名の刃を収める鞘が、ようやく見つかったのだと安堵した。

しかしそこにあったのは幸福の念ばかりではなかった。
まるで山を登り頂上に到達はしたものの、喜びも束の間、予想外の悪天候で帰り道を見失い立ち往生してしまったような。

英瑠の武を支える、『人ならざる者』の血。
それが今、彼女の中で小さな棘となり、肝心なところで胸をちくりと刺していた。
平素、張遼と過ごしているときには意識しなくて済むその棘は、未来の方へ顔を向けた時だけその存在を主張するのだ。

まるで、楔のように。

『忘れるな、お前は完全な人間ではない』と……。

英瑠は、心は勿論人間だと自覚していたしそう信じていた。
あの張遼にもはっきりとそう言われたことがある。
今更人間ではない血のことで、己の心待ちを疑ったりはしない。
英瑠は人間の心を持つ将だ。それは揺らがない。

しかし。
では…………、肉体はどうなのだろうか。

知っての通り、身体能力は人間の女からは掛け離れている。
獣の力だという自覚もある。

ならば。
その獣のごとき力を持つ女は、人間の体をしているのだろうか?

英瑠の見た目は普通の人間の女だった。
武将として活躍する張遼や、ましてや長身の呂布と比べたら、話にならないほど身長は小さい。
だが、あくまでも外見は、の話だ。
その服を脱いだとき、その下が人間と同じだとは限らないのだ。

勿論それは、同性である女性のそれと見比べれば事足りるはずだ。
しかし不幸なことに、英瑠には素肌を曝し合うような同性が身近に居なかった。
継母は遠い故郷に居るし、幼い頃に共に湯浴みをした記憶はあるがはっきりとは覚えていない。
姉妹も居なければ、近くに同性の友人も居ない。

女官や使用人は居るが――正直、同性とはいえ裸を見せろなどとは横暴も甚だしい。
もし彼女が董卓のような人間であったなら、たとえ人道にもとる屈辱的なことであっても、立場が下の人間にそれを強要することに躊躇いは無かっただろう。
だが英瑠には良識があるのだ。

となれば必然的に。
彼女は、己の肉体についてひたすら不安を抱える羽目になるわけで。
しかも平素意識せずに済むそれは、想い人との将来をちらりとでも考えた際に強制的に脳裏に割り込まれ、さらにそれを関連付けて考えるということは、男女として触れ合うことを無意識に想像してしまっているわけで。
もっと言えば、いざ触れ合ったとき、やはり人間とは違うと忌避されるような事態を想像すると、身も凍るような思いと相手への申し訳なさを感じるわけで――

英瑠は己の体の不安といつか嫌われるかもしれないという恐怖、それに付随する張遼への申し訳なさ、そして……そんな来てもいない日のことを想像してしまう自分への羞恥と戦っていたのだった。

勿論こんなことは誰にも相談出来ない。
いくら血族とはいえ、弟にだって言えるわけがないのだ。

英瑠は弟に張遼の仲を詰問されて、心底申し訳ない気持ちになっていた。
しかしこの棘は抜けることなど無いのだろうと自覚していた。
胸を刺す棘は、恐らく楔なのだ。
半人半妖として生まれてきた自分への。

ならば、このままで良い。
想いは通じた。これ以上何を望むことがある。
たとえこのまま彼に触れることが出来なくても。

構わない。そう思うしか、ない。

英瑠はそんなことを考えていたのだった。



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