18.祭・後


肉まんを食べ終えた英瑠と張遼が、再び人ごみの中を歩き始めた頃。

「、英瑠殿」

張遼が足を止め、声を潜めて英瑠を呼んだ。
たった今まで穏やかな雰囲気だった彼のそれが、一瞬で武将然とした真剣なものに変わる。
隣に居た英瑠も瞬時に目つきを厳しくすると、「はい。怪しいですね」
と彼に応えた。

彼らの視線の先には、一人の男。
荷物を背に括り、何か長い物を布に包んで手にしているその人間は、庶人らしい素朴な出で立ちとは裏腹に、鋭い目つきであたりを警戒するように見回していた。
さりげなく男との距離を縮める英瑠と張遼。
その男は、そのまま少し歩き続けていたが……やがて、不意に歩を早めて横の路地へ姿を消してしまうのだった。

二人は無言でそれを追う。
彼らは、男の警戒するような仕草や足取りだけに違和感を覚えたわけではなかった。
男の纏う、気配――殺意にも似た暴の気配を、二人は敏感に捉えたのだ。
口には出さずともやるべきことをきちんと理解している彼らは、足早に裏路地を行く男に悟られぬよう気配を消し、息を潜めてその背中を追った。

不意に男が立ち止まる。
その瞬間、ハッとした張遼は横にいる英瑠の腕を取ると、強引に物陰に引きずり込んだ。

………………、

皆祭りに出払っているためか裏路地には他に人影らしき者は無い。
英瑠と張遼は物陰に身を寄せあって息を潜め、ほんの少しだけ顔を覗かせながら男を見遣った。
男は、前後左右見回しながら何かを待つようにその場に立ち止まったまま、動く気配がない。

「…………、」

そんな中。
緊迫した状況だというのに、英瑠の身体は場違いな熱を帯び、鼓動が早くなっていた。

文遠様、という一言すら発せない状況。
否、もし怪しい男を尾行している最中でなかったとしても、この状況はきっと、英瑠に言葉を紡ぐことを許さなかっただろう。

狭く、薄暗い物陰に身体を押し込めた男女。
男は女の腰に手を回して支えながら、険しい顔で通りの向こうの標的の様子を伺っている。
女は男の胸に身体を預け、息使いさえ聞こえそうな距離で密着している。

言わずもがな、男は張遼で女は英瑠だ。

英瑠は、とめどなく溢れてくる切ない想いを何とか押し止め、標的の男の挙動だけに集中することに尽力した。
余計なことを考えている場合でない。それはわかっている。

「っ!!」

誰か来たぞ、と言う代わりに張遼が息を呑んだ。
物音を立てないように細心の注意を払って様子を伺えば、立ちつくす男に向かって、別方向からやってきた新たな男が小走りで近付いて行くではないか。

新たな男の手にも謎の長物が握られている。
英瑠と張遼は、その長物が何なのか薄々気付きはじめていた。

……と、今度は、英瑠たちがやってきた方向から足音が追い掛けて来る。
「っ、」
張遼は咄嗟に英瑠をきつく抱きしめ、その首筋に顔を埋めた。
「見るな」
張遼の小声が一語だけ、英瑠の耳元で囁かれる。
英瑠は瞬時に理解し、高鳴る胸を抑え張遼に腕を回し返した。
まるで、物陰に隠れて秘め事に興じる恋人同士のように。

――果たして、足音は彼らの側の道を足早に通り過ぎて行く。
足音が行き去った後、瞬時に身を離し、標的の男たちを伺う英瑠と張遼。
四方からやってきた男たちは続々と合流し、六人に増えていた。

彼らは辺りを見回し、人気がないことを確認すると、一斉に大きめの布を取り出し、顔を隠すように覆い始めた。
そして手にしていた長物の布も解き、躊躇なく中身を抜き放つ。

「っ……!!」

薄暗がりの中で鈍く光るそれは、剣であった。
男たちは各々が覆面をし、剣を手にしていたのだ。

そして、全員の準備が整うと、一斉に同じ方向へ向かって走り出す。
その方向にあるのは、立派な塀で囲まれた邸宅――金持ちの家だ。

(強盗だ!)
悟った英瑠と張遼は瞬時に物陰から飛び出した。
素早く、しかし前を行く強盗に気付かれないよう後を追う。

男たちが標的らしい屋敷に辿り着くと、どういうわけか、きつく閉ざされた門が内側から開かれた。
どうやら、強盗を手引きした人間が内部にいるらしかった。
男たちが門の中になだれ込むと、間髪入れず門が閉ざされる。
これから起こる騒ぎを外に漏らさないためか、他の者は一切中には入れないという宣言のようでもあった。
このままでは屋敷の中に入ることはかなわない。
しかし、戻って兵や役人を呼びに行っても、恐らくは間に合わないだろう。

英瑠と張遼は、閉まる門を目の当たりにして、一瞬だけ歩を止めた。
しかし英瑠は、「行けます!!」と小声で叫び、同時に着飾った衣服の裾を捲り上げると門から離れ、屋敷を囲む塀の一画に向かって走り出すのだった。

「英瑠殿!」

張遼が諌める間もなく、彼女は激突しそうな勢いで塀に立ち向かう。
そして、ぶつかる瞬間、足で壁を駆け上がり、塀の縁に手を掛けると、まるで猫のようなしなやかさで塀の上を跳び越え、向こう側に跳び下りるのだった。


「ご、強盗……!! うわあ、お助けを――」

屋敷の庭に降り立った英瑠の目に飛び込んで来たのは、悲鳴をあげる使用人らしき人間と、それに向かって剣を振り上げる強盗の姿だった。

「待て!!」

一語を発すと同時に、帯から小刀を抜く英瑠。
彼女の一言に反応した強盗は手元がぶれ、振りかぶった剣はすんでのところで使用人の体を外れた。
強盗が顔を向けるその瞬間に、英瑠は小刀を手から放つ。

一瞬。
とっ、という軽い音が、使用人の「ひっ、」という悲鳴に掻き消される。

目を見開いて振り向いた強盗の額には。
英瑠が投げた小刀が、深々と突き立っていたのだった。

一瞬間があって、ゆらりと崩れ落ちる強盗。

「英瑠殿!」
ざざっ、という音を立て、張遼が塀から跳び下りて来る。
彼もまた、その尋常ならざる身体能力で塀を越えたらしかった。

張遼は躊躇なく剣を抜くと、震えて腰を抜かす使用人に巡察の兵を呼んで来るよう念押しし、英瑠に目を向けてからまくしたてる。
「その格好では動けまい、ここは私が――」

しかし英瑠はそれを遮るように倒れた強盗の剣を素早く拾うと、黙したまま真剣な眼差しで、暗に自らの意志を張遼に告げた。

再び一瞬の間。

「……気をつけられよ」
「はい。お互いに」

張遼は英瑠の覚悟を汲んで、それ以上は何も言わなかった。英瑠もまた、語らなかった。
武人にとって武器を手にするということは、たとえどのような状況であっても戦うことを選択したということだ。
彼らは一瞬だけ見つめ合い、互いへの信頼と無事の再会を願う気持ちとを眼差しに込めて、別れた。
そしてそれぞれ別の方向へと、走り出すのだった。


……どうやら、屋敷の住人たちはほとんど留守らしい。
英瑠が裏口から屋敷内に踏み込むと、早速一人の強盗の影が視界に割り込んだ。
男は豪奢な扉の一つを開け、そこに押し入る。
次いで、女の悲鳴が上がった。

「大人しくしていれば命は助けてやる、」
そんなお約束の台詞が聞こえてくる。

「いや……、お助けください……」
「おぉ……、なんということだ……」

屋敷に残っていた使用人らしき女の震えた声と、その女が世話していたらしい老人の怯えた声。
それらに向き合い金の在処を問う強盗は、背後に迫る英瑠の気配に全く気付いて居なかった。

「おやめなさい」

口にすると同時に、剣の柄を下にして振り下ろす。

振り向く間もなく鈍い音がして、強盗は声もなく気を失った。
英瑠は、居残った老人と使用人から強盗が狙いそうな金目のものがある部屋の場所を聞き出すと、そこへ向かって再び走り出すのだった。

「!!」

彼女の耳が、聞き慣れた金属音を捉える。剣撃の音だった。
先程聞いた、宝物がある部屋の方向だ。英瑠はそちらへ急行する。


張遼は三人の賊に囲まれていた。
彼らは、剣を構えた張遼を囲みつつも手を出しかねているというふうに、緊張した面持ちで剣を向けていた。
彼らの足元には男が一人、血を流して倒れている。
顔は見えないが強盗の仲間で間違いないだろう。
それはつまり、屋敷になだれ込んだ六人の賊はここに居る彼らで最後であることを示していた。

倒れた男は恐らく、張遼と刃を交わしたものの、一刀のもとに斬られたものと思われる。
そして、張遼の強さを目の当たりにした他の賊たちは、三人がかりにも関わらずすっかり萎縮してしまった。そんなところだろう。

……たった今やってきた英瑠は、この場の状況をそんな風に分析すると、気配を消したまま手を出さずに事の成り行きを見守ることにする。
それほど、賊たちと張遼の実力差はかけ離れていた。

「畜生、なんだってこんな奴が、」
強盗の一人が吐き捨てる。

「相手は一人だ、一斉にやっちまえ」
相手との力の差さえ測れない、賊の浅知恵。

勝敗を見届けるまでもなかった。
張遼は、三人が動き出す瞬間に体を横へずらし、賊の一人の側面に回りこんだ。
仲間の体が死角となり、他二人の動きが一瞬だけ鈍る。
およそ達人だけが捉えられる、その刹那。

張遼は一人目の刃を難なくいなすと、その懐に飛び込んで、斬った。返り血が頬を濡らす。
血に染まった彼の剣は次に、横から迫る賊の凶刃を難無く受け止め、返す刃で男の剣を弾き飛ばした。
そして間髪入れず最後の一人ががむしゃらに真っ直ぐ突いて来たところを、男の切っ先が届くよりも早く、張遼の剣が男の体を刺し貫く。

「…………っ!」

流れるような動作だった。
それはまるで、この日のためだけに繰り返し練習を重ねてきた演舞を見せられたような、何とも鮮やかで流麗な剣捌きだった。
張遼は呼吸ひとつすら乱さず、その場の覇者として君臨していた。
圧倒的な武を以て。

剣を弾き飛ばされ、目の前で仲間たちを瞬く間に失った男はただ、その場で固まっていた。
両の足で立っているのは、今や彼一人。
三人は彼の目の前で張遼に倒された。屋敷に押し入ったとき別れた二人はいっこうに戻って来ない。
張遼は、男の行動を待つように、血濡れの剣を手にしたまま押し黙っている。

「な、なんでだよ、こんな……! くそっ……、」
錯乱し、突破口を探して落ち着きなく辺りを見回す男。
英瑠はそれを黙って見ていたのだが、やがて男の目がようやく彼女の存在に気付き、視線が重なった。

「……っ」
その視線は、僅かな驚きのあと英瑠を値踏みするようなそれに変わり、すぐに彼女が手にした剣へと落とされた。
男は、他の仲間二人が合流して来ない原因が英瑠にあることなど、知りもしない。

ただ一人生き残り進退窮まった賊は突然、何かを決意したように英瑠へ向かって走り出す。
張遼と英瑠を見比べての、決断だったらしい。

英瑠は、向かってくる男に対し、剣すら構えなかった。
それどころか、剣を放り投げた。先程拾ったばかりの、強盗の剣を。
あろうことか男に向けて。子供に手鞠を投げるように、優しく。
男は一瞬戸惑ったようだったが剣を受け取った。受け取った上で、にやけ笑いを浮かべ、そして柄を握り――

だん、という音に被って、どっ、という鈍い音がした。


……剣を男に与えた英瑠は、男が剣を構えるより早く地を蹴って、弾かれたように男の前に飛び出したのだ。
そして、振りかぶって『溜め』を作る必要すらないその獣の筋力で、掌底をいきなり男の腹に叩きこんだ。
武器を持たない彼女の肉体そのものの力を、直に味わう男。

男の手から、ようやく手にしたはずの剣が、再びこぼれ落ちる。
そうして、剣だけでなく意識まで手放した男はどっと床に倒れ伏し、それきり動かなくなってしまうのだった。


「もう一人は、」
「倒しました」

張遼は英瑠の返答を聞いて頷くと、手巾を取り出し血濡れの剣を拭いながら英瑠の方へ向かってきた。
部屋の入口に立っていた英瑠も、室内の張遼に歩み寄る。
早晩、兵がやってくるだろう。
そうなれば、ここでの一部始終を説明しなくてはならない。

「文遠様、さすがです……!
……この屋敷ですが、庭で助けた男の方とは別に、動けないお年寄りの方とお世話の方が残っていました。
彼らの元に気を失わせた賊を置いてきてしまいましたので、様子を見に行かなくては。
賊を排除したことも伝え、安心してもらいましょう」

英瑠は張遼の活躍を讃えると、少し焦るような早口でそう告げ、張遼に背を向けた。
彼女は内心、何か引っかかっていた。
それが何なのかはわからないが、何か見落としている気がしていた。

「ならば私も行こう」

張遼も何かを感じたのか、手巾をしまい、そう口にする。その時だった。

殺気が膨れ上がる。
英瑠が部屋から出ようと足を踏み出し、身体を半分だけ廊下に露出した瞬間、それは起こった。

ひゅっ、という何かが空気を切り裂く音。

英瑠は殺気の元に目を向ける前に、反射的に足に力を込め、背中を反らした。
彼女の胸スレスレを、何かが横切っていく。

次いで、とっ、という乾いた音。

「英瑠殿!!」

張遼が叫ぶ。彼の腕は、上体を反らした英瑠を助けるように彼女の肩を掴み、そのまま部屋の中へと引っ張っていった。

何者かが廊下を走り去る音。
「追います!!」
英瑠は張遼の支えで体を立て直すと、彼に目を向ける間もなく叫ぶと同時に、部屋を飛び出した。
「待て!!」
背後で張遼が諌める。彼への謝罪は後ですればいい。
今は、敵を――そう、はじめからここに居たのに、存在をすっかり忘れていた敵を捕らえなければ。

すなわち。以前からこの屋敷に使用人として潜り込み、今日門を開けて強盗を手引し、その強盗たちが英瑠と張遼に倒されていくことに驚愕しながらも息を潜み続け――
機を伺い、ようやく強盗たちを倒し安堵した英瑠たちを、襲った。
そんな、七人目の賊。

賊はきっと、見通しの良い廊下で二人を待ち構え、部屋を出た瞬間の英瑠を側面から弓矢で射ったのだろう。
そして彼女の非人間的察知能力と反射神経に矢を躱され、慌てて逃げた。
そんなところだろう。
放たれた矢は英瑠を素通りし、突き当たりの壁に乾いた音を立てて突き立った。
この矢は証拠品として、後で回収されることになるだろう。


英瑠は全速力で走った。
剣を持っていないため、遠慮なく両手を使って衣の裾をたくし上げることが出来る。
外気に晒される素脚。英瑠は、たくし上げた裾をまとめて帯にしまい込んだ。

彼女の双眼が、屋敷の入口に向かって逃げる男の背中を捉える。
英瑠は、上体を低くし、両足に力を込め、獣のようにそれを追った。
そして、男が建物から出ると、これで天井や柱に遮られることもなくなった彼女は、まるで飛蝗が跳び跳ねる時のように、地を蹴って宙を舞った。

門へ向かって走り続ける男の頭上に、影が落ちる。
男は何が起きたかわからなかっただろう。

「ぐぇっ!!!」

英瑠に背後から跳びかかられた男は。
まるで肩車のように上から押し潰されて、蛙のような無様な声を上げその場に突っ伏すのだった。

「ふう……」

英瑠は男に乗っかったまま、息を吐いて辺りを見回した。
さすがにもう賊は残っていないだろうが、集中して気配を探る。

「英瑠殿!!」

追い付いてきた張遼の声に振り向けば、彼は安堵した表情を浮かべたのも束の間、眉間に皺を寄せて怪訝な顔をした。

「……早くその男から離れた方が」
「……、」

英瑠は今や座布団と化し伸びている男に目を遣り、ゆっくりと腰を上げた。

立ち上がって張遼に向き直ると、彼はさらにぎょっとした顔をしつつも、静かな口調で語り出した。

「っ、七人目の存在を忘れていたのは私の落ち度だ。
危険な目に遭わせてしまい申し訳ござらん。
そのような……、格好をさせてまで」

「っ……!」

張遼はゴホン、と咳払いを一つすると、英瑠に裾を直すように身振りで告げた――ようなのだが、彼女の気はすでに外の喧騒に向かっていた。

「兵が来たようです、門を開けなければ」
「待たれよ!」
腰を曲げれば太腿の付け根が見えてしまいそうなほどたくし上げた裾を直さぬまま、張遼に背を向けて門へ向かってしまう英瑠の背後で、彼は慌てたように声をあげたのだった。



かくして。

出動してきた兵たちに事の子細を説明した英瑠と張遼は、そのまま祭りを後にし役所に出向いて手続きやら報告やらを済ませると、最後に陳宮の元に向かったのだった。

陳宮に今回の事件を告げると、彼はさほど驚いた様子もなく「やはりあなたたちを向かわせて正解でしたな、」と言い放った。
英瑠と張遼は、あの祭の喧騒の中、陳宮が差し向けた尾行が自分たちについていた事など知る由もないのだ。

どうやら、たちの悪い押し込み強盗が、手薄になった屋敷を祭りの賑わいに乗じて襲おうとしているという噂があったらしい。
しかし情報が確かでない上場所も特定出来ず、諸事情で大袈裟に動くこともできなかった為に、念のためということで二人を見回りに行かせたとのことだった。

陳宮は、去り際に英瑠の耳元で「少しは張遼殿と仲良くなれたようで何よりですな。しかし一番の目的が、目的がまだ果たされておりませんぞ」
と念押しし、その言葉にハッとした英瑠はようやく、最後に残った大仕事を思い出したのだった。

戦が始まれば浮ついた事は言っていられなくなるだろう。
嵐が来る前の晴れた日だからこそ、言えること。

すなわち――――




英瑠はその夜、張遼が今夜は自邸には帰らないことを知り、彼が執務の際に寝泊まりしている仮部屋に向かった。
快くそれを迎えた張遼は、少し歩かないかと彼女に告げ、二人は庭に面した廊下をゆっくり歩き始めた。

「文遠様……、昼間はその、いろいろとありがとうございました。
そして、いろいろとお見苦しいところをお見せしてしまい、本当に申し訳ありませんでした……」

陳宮は告白をせよと言ったが、昼間の醜態を思い出すと、決心がつかないのも事実だった。
特に屋敷内に踏み込んでからのこと。
結果的に被害を出さずに強盗たちを排除することは出来たが、あそこでの振る舞いを冷静に見たら、武人としては良くとも、男性としては引いてしまうのではないか。
英瑠はそんなことを考えていた。

どこの世界に、塀を脚力で乗り越える女を。
はたまた、人の額に小刀を投げ付けるような女を。
はたまた、男を掌底一撃で沈める女を。
はたまた、獣のように背後から獲物に飛びかかり、晒した太腿の下に押し潰すような女を……
好む男が居るというのだろう。

今回は、着ていたものが貂蝉からの借り物だったため、極力返り血で汚さないよう剣は振るわなかった。
しかし結果を追求した結果、……『ああなった』。

英瑠は決して自らの行いを後悔しては居なかった。必要だと思ったからそうした。
しかし、男と女という視点から考えたら絶望的な気持ちになる。それだけだった。


張遼は足を止め、月を見上げてから庭に目を落とし、英瑠に言った。

「風が心地良いな」

「……そうですね」

英瑠も答える。静かな間が二人の間を満たし、張遼は再び口を開く。

「……英瑠殿。私はそなたの振る舞いを見苦しいとは思わんぞ。
英瑠殿はやはり強い。今日の出来事で改めてそれを実感した。
その力……、武人として心惹かれるものがある。一目置かずにはいられまい」

「文遠様……」

「英瑠殿と肩を並べていると、武人同士、何やら安心感のようなものがあるな。
昼間も敵を追っている時、見た目は慎ましい女人にも関わらず勇ましい気を放つそなたを見て、私はとても頼もしく感じた」

「そんな……。そのようにおっしゃっていただけると、この上ない光栄に存じます……!」

英瑠は心が熱くなるのを実感した。
頼りになると言われるとは。武人として、この上ない喜びだろう。
しかし張遼はそこで終わらなかった。彼は、英瑠に向き直り、言った。

「英瑠殿は……、
英瑠殿は、武を振るっていない時は何をしておられるか。
いや……、武を振るうこと以外に、心動かされることはおありか。
もし良ければ……お聞かせ願いたい」

思いがけない問い。
問われた英瑠は張遼に向かい合い、答えを頭の中で整理する。

――心動かされる事。
有る。それは……他でも無い、貴方だ。

口に出せない英瑠は、切なく収縮する胸を押さえながら、そっと告げた。

「ございますよ……。
たとえば、お慕いしている方のことを思う時とか」

言った瞬間、張遼が目を見開いて息を呑むのがわかった。

「意外ですか……? 私のような色気の無い者が」

「いや……」

張遼は何かを考え込むように、視線を下に落としていた。

「軍師様にも貂蝉様にも、想いを相手にはっきり告げるべきと言われてしまいました。
一旦はそうしようと決意したのですが……、やはり、目の前にすると、足がすくんでしまって……。
こんなことで怯えるなんて、武人の風上にもおけないとわかってはいるのですが……。」

「……そうか」

「…………、」


二人の間をゆるやかな風が流れていく。
英瑠はゆっくり目を閉じると、唇を噛み締めて目を開いた。

逃げてはいけない。

そう、自分に言い聞かせながら。
言葉はもう、感情のままにしか紡げない。
高鳴る心臓の鼓動が、言え、言えと自分を急かす。

「ぶ……、文遠様」

「うむ」

張遼と目が合う。その強い眼差しに呑まれてしまっては、きっと永遠に先には進めないのだ。

「おこがましいと、身の程知らずだとわかっております。
それでも……、この想いは止められないのです。
お伝えするだけで満足なのです、だから」

「……英瑠殿。私はそれ以上そなたの話を聞くのが怖い。
申し訳ないが、遠慮してくださらんか」


突然にべもなく遮られ、英瑠の心臓は凍りついた。


張遼は渋い表情で続ける。

「……っ、私も武人であるのに、このようなことに怯えている自分を恥じている……、しかし」

「…………っ」


静寂。

一世一代の告白を、核心に踏み込む前に拒否された。

想いを告げることさえ、許されないというのか。

鼻の奥がつんと収縮し、涙がこみあがってきて呼吸を乱す。

まるで世界の終わりのような。

玉砕する前に剣が折れてしまったような、そんな喪失感だった。


英瑠が言葉を失ったのを見て、張遼は申し訳なさそうに首を振る。

「すまぬ……。そなたの相談に乗ってやることは出来ぬ……。
別の者に話すと良い」

「……っ!?」

相談?
張遼は相談と言ったのか?

谷底に落とされたような気持ちを味わっていた英瑠は、己の耳が聞き間違いをしたのではないかと疑った。

しかし、谷底に落とされたと思ったその体に、命綱が括られていたとしたら。
自らの重みでぴんと張りつめたその綱を頼りに、ゆっくりともう一度、崖を這いあがっていくことが許されているのなら。

英瑠は、震える唇でおずおずと口を開いた。

「あの……、文遠様は、私が誰か他の方に想いを寄せていると誤解してらっしゃいますか……?
それとも、私に想われること自体が迷惑だと……、!!」

言ってしまってから、愕然とする。

しまった。これでは。答えを言っているも同然ではないか。

しかも、きちんとした告白とはほど遠い、うっかり発言で――

案の定。

張遼も、今の言葉を聞いた途端、固まっていた。

無表情で、英瑠の顔を凝視したまま。

「あ……、違っ……! いえ、違うわけでは……、あの」

無様だ。英瑠はそう自嘲した。
寡兵で大軍から逃げなければいけない時よりも、もっと無様だ。
何故なら、ここから戦況を立て直す良い策が一つも浮かんで来ないのだから。
感情を明確に言語化して組み立てることに重大な難がある。そう実感した。


そんな英瑠がまともな言葉を発するより早く。

…………張文遠が口を開いた。

静かに、とても穏やかな声で、密やかに。

「……英瑠殿。私は自惚れても良いのだろうか」

「っ……!」


「私ももはや、自分自身の心に背を向ける事は致さん。
英瑠殿。
戦場を離れている時も、どうか私の隣に居ていただきたい。
いつか乱世が終結しても……、私はそなたと共に在りたいと思っている」


時が止まっていた。

自分の中に居る想像上の張文遠という男が、とうとう英瑠自身にとって都合の良い言葉を吐いた。
そんな風に思えるほど、今の言葉は現実味がなかった。


まさか。
そんな。

そんなはずは。


「私は、」

心臓が壊れたように収縮し続けている。


「あの、好きです」

口から勝手に言葉がこぼれ落ちていた。


「……ああ。私もだ」

これは、やはり夢ではないのか?


「文遠様、あの、私」

「……うむ」

「そんな……、夢では……、」

「夢ではない。私も英瑠殿も、たしかに此処に居る」

「……、…………っ」


自覚してしまえば、もはや言葉など発せない。
狂った心臓から送られた血が頬に巡り、耳まで熱く火照らせる。


こんな喜びが人生にあって良いのだろうか。
こんな、半人半妖の女に――

そうだ。半人半妖、人ならざるものの血。
自分は『そう』だった。自らの素性があまりにも馴染みすぎて、舞い上がってすっかり失念していた。
人間の心は有ると信じたいが、人間の女として、人間の男性に寄り添えるかは――

英瑠の心に、ちり、と不安がちらついた時だった。


「これはこれはお二方。『男と女』、どうやら上手くいったようで何よりですな」

「陳宮殿」
「軍師様」

二人の背後から現れた陳宮は、両腕を広げて祝福するように述べ、それからぱんぱんと両手を打ち鳴らすと、声を低くして言うのだった。

「それはそれとして、さてさて。ここからは『将軍たち』にお話しが。

……南の袁術が動き出しましたぞ。孫策と共に。
呂布殿を討伐するために軍をまとめているとか。
ここは速やかに、速やかに南進して奴らを討たねばなりますまい」

「!!」
「っ!」


――ほの甘い時間は唐突に終わりを告げた。
まるで、祭りが終わるときのように、わずかな寂しさと後片付けを残して。

しかしまた必ず祭りは開かれる。
彼らはそれを知っている。

三人は力強く頷くと、急いで呂布の元へと向かうのだった。



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