17.祭・前


英瑠は陳宮の助言を受け、折を見て張遼の元へ向かった。

二人きりで祭りに繰り出す――そんな、逢い引きのような誘いだと自覚してしまえば、たちまち心臓が暴れ出してしまう。
英瑠は、これは巡察を兼ねたお役目だと自分に言い聞かせ、やましい思いはとりあえず心の奥に押し込めて蓋をした上で、おずおずと張遼に祭りの件を切り出したのだった。

断られたとしても顔色を変えないようにしようと心に決めていた英瑠だったが、しかし、張遼の反応は思いの外良いものだった。

「祭りか……! たしかに、人が賑わうところには悪しき輩も集まろう。
民が安心して祭りを楽しめるよう、見回らねばな。
……うむ。大人数で出歩いては目立つゆえ、二人で向かうというのは良い案だ。当日は宜しく頼む」

張遼は機嫌よくそう述べた。
英瑠は内心ほっと胸を撫で下ろしてから、頭の中で喜び勇んで飛び跳ねた。
そして、心の奥に封じたほの甘いものの蓋が開きそうになるのを、必死に堪えるのだった。

だが、その蓋に何気なく触れ、開いてしまう人物が居た。
他でもない、張文遠である。

「英瑠殿と街に出られるとは、これは今から当日が待ち遠しいな。
役目も大事だが、せっかくの祭り。共に楽しもうぞ」

覇気があるが優しい彼の声。そして僅かに微笑んだ張遼に、英瑠の心の蓋は今、完璧に開け放たれてしまった。

丁寧にしまいこんでいた想いが溢れ出し、彼女の頬を染め胸の鼓動を早くしていく。
張遼はいつだって堂々と英瑠にぶつかって来て、颯爽と去っていくのだ。
まるで鍛練の手合わせの時のように。

英瑠は、
「はい……! 私も、待ち遠しいです……!」
としか言えず。

彼女は張遼と別れたあと、まるで草原を駆ける狩猟豹のように、ものすごい勢いで城内を駆け回るのだった。

それを目にした視力の悪い老文官が、獣がいる!! と口にしたため、城内は一時騒ぎになり。
あわや大混乱となるところで、これはまずいと思った英瑠は、小さくなってこそこそ自宅へ戻って行ったのだった。

彼女が家へ戻ると、何故か全てを把握していた弟が、
「姉様。獣のように走り回るのは戦場だけにして下さいませんか。
もしくは、その興奮は張将軍その人に直接ぶつけて下さいますか」
と呆れたように言い、言葉を失ってしまった英瑠は恥ずかしいやら申し訳ないやらで、暫く皆に頭が上がらないのだった……。




祭りの当日。
英瑠は早くから身支度を済ませ、そわそわしながら約束の時が来るのを待っていた。
そんな彼女の元へ、貂蝉がやって来る。

「英瑠様……、張遼様と祭りへ行かれると伺いました。
英瑠様がどのような服装をされているのか、気になってつい見に来てしまったのですが……ご迷惑でしたでしょうか」

英瑠は貂蝉の訪問を快く受け入れると、何の気なしに服装について口にした。
則ち、いつもと同じですよ、と。

「まぁ……! 何故ですか……!」
と驚く貂蝉に、英瑠はうろたえる様子もなく普通に答える。

「今回のお祭りは、巡察目的なのでございます……!
それゆえ、とくに着飾る必要もないかと思い……」

英瑠は、陳宮からの秘められた提案を貂蝉が知っていることは知らなかった。
だから彼女の真意を推し量ろうともしなかったのだ。

彼女のそんな言い分を聞いた貂蝉はにっこりと笑い、英瑠の肩にそっと手を置いて言った。

「英瑠様……。憧れの人と逢い引きされるなら、それなりの準備というものが必要でございます……。
僭越ながら、この貂蝉が見立てて差し上げたく思います。
どうかこのまま、私の部屋にいらして下さいませんか……?」

「…………。」

憧れの人と逢い引き。貂蝉はたしかにそう言った。

徐州の戦が終わったあとの『女同士の語らい』の時も、貂蝉は武人だ告白だと思わせぶりなことを言っていたような気がするが、やはりか。
何のことはない、貂蝉は当時から英瑠の想い人が張遼であることに気付いていたのだろう。

ようやくそれを悟った英瑠は、そのまま固まってしまい、貂蝉に連れて行かれてしまうのだった……。



「…………、
ち、貂蝉様……、やはりこの格好は……!」

貂蝉の部屋に連行されて来た英瑠は、使用人たちに囲まれ、いきなり服を脱がされた。

面食らった彼女がうろたえていると、英瑠が未だ着たこともないような美しい服を何着も持って現れた貂蝉が、これは……だの、ではこっちは……だの口にしながら、それらの服を代わる代わる英瑠に宛がって何かを確認していった。

こうして。
貂蝉の決めた服を着せられた英瑠は、髪も化粧も手を加えられ、一人の可憐な女性として整えられたのだった。

貂蝉曰く、
「英瑠様の張遼様への思いは存じ上げております……。
そろそろ約束の時間ですね。
英瑠様が是非想いを遂げられるよう、この貂蝉、影ながら祈っております……!」

……と。
きらきら輝く笑顔で言われた英瑠は、一言も反論することが出来ず、貂蝉に素直に礼を述べてから張遼の元に向かったのだった。


***********************


張遼は英瑠が来るのを待っていた。
それを知っていた陳宮は、乗りかかった舟の安全を見届けるべく、張遼に話しかけると雑談に興じながら共に彼女を待った。

やがて。

「遅くなり申し訳ありません……! 慣れない服装ゆえ……!」

陳宮は、小さな歩を早めやってきた英瑠の姿を見て、一目で悟った。
貂蝉と呼ばれるあの美女が絡んでいることを。

貂蝉が見立てたであろう優美な全身。
その手に握られた一振りの剣だけが、辛うじて「巡察」という名目を保たせている。
陳宮は一歩引くと、これは面白いことになってきたと、二人を見守ることにした。

張遼の反応は。

「おお英瑠殿……! 私も今来たばかりゆえ、気にされるな。
ところで英瑠殿、その服装は……」

きた、と陳宮は思った。
英瑠は照れたように下を向き、
「これは、その……」と、何と答えれば良いか迷っているようだった。

そんな彼女の迷いなど知らない張遼は、力強く「うむ!」と頷いて口を開く。

「とても良く似合っておいでだ。
その格好なら武将に見えぬゆえ、街に出ても人ごみに紛れやすいだろう。
怪しい輩が居ても、我々の身分に気付かれては警戒され逃げられてしまうからな」

英瑠は、張遼に似合っていると言われた瞬間、表情を明るくした。
が、続きを聞いて、恐らく軽く落胆したであろう彼女は、それを顔に出すわけにもいかないらしくそのまま表情を保ちながら平静を装っていた。

陳宮はそれを見て、決して意地の悪い意味ではないのだが、笑いがこみあがってくるのを感じた。
彼女の気持ちなど知らないであろう張遼はさらに言葉を続け、爆弾を落としていく。

「さすが英瑠殿。
その格好で私と連れ立って歩いていれば、恋人同士か夫婦にしか見えず、敵を油断させることが出来るな。
……しかし英瑠殿、その格好で帯剣はまずかろう。
そもそも、婦人が帯剣しているだけでも目立ってしまうもの。
増してやその服装で剣を手にしていては、いくら何でも……」

英瑠は張遼の大真面目な恋人同士か夫婦か発言に、傍から見ている陳宮にもはっきりとわかるほどうろたえていた。
彼女は落ち着くために深呼吸をすると、上擦った声で張遼に「は、はい……」と答える。

「心配めされるな。武器のない英瑠殿の身は、必ず私が守らん……!
英瑠殿は怪しい輩にだけ目を光らせてくれればそれで良い」

陳宮は反射的に唇を噛んで笑いをこらえた。
そうしなければ、笑い声が口から漏れていたからだ。

英瑠といえば、今しがたの張遼の発言に、まるで琴の音のようにうっとりと聴き入り、感動に浸っている。
彼女はもはや手遅れだ。
その証拠に、英瑠ははにかむような笑みを浮かべると、戦場での叫び声からは想像もつかないような柔らかな声で張遼に言った。

「はい……! でも、文遠様のお手を煩わせるわけには参りません……。
実は、帯剣出来なかったときの事を考えて、ここに、隠し武器を……」

そう告げた彼女がふと衣の裾に手をかけたとき、陳宮は嫌な予感がした。
そのまま彼女は、躊躇なく裾を捲り上げていく。

顕わになる生脚。
……と、白い太腿に紐で括りつけられた小刀。

ぎょっとした時には遅かった。

「いかん!! 見るな!!!」

素早く反応した張遼は、彼女の行動を諌めるより先にまず、側に居た陳宮の視界を遮った。

あられもない英瑠の姿が陳宮の目に触れないように立ちはだかった張遼は、自身も顔を背け、焦ったように咳払いをしていた。

そんな張遼の表情を見た陳宮は、その時全てを悟る。

――自分が舟に乗る必要など、はじめから無かったのだということを。

(ああ、そういう事ですか)

陳宮は思わず、「理不尽、理不尽ですぞ……!」と口にしたが、
「英瑠殿……!! 隠し武器を持つのは構わぬが、そこに隠すのはやめられよ!!」
と心なしか顔を赤らめながら叫んだ張遼に掻き消され、見向きもされないのだった。

「も、申し訳ありません……! はしたなかったですよね……!」
一応自覚のあるらしい英瑠が、張遼の剣幕に驚いて裾を直す。

ごほん、とまた咳ばらいをして彼女に向き直る張遼は気付いてないだろうが、英瑠は今度は自分の胸元に視線を落としていて、陳宮は思わず、
(そこに隠すのは絶対、絶対やめた方が良いですぞ……!!)
と心の中で叫んだのだった。


***********************


祭りが始まった街中はいつも以上に人々の活気で溢れ、賑わいを見せていた。

そんな人ごみの中を張遼と並んで歩く英瑠は、とにかく夢心地で浮かれていた。
まさか、戦場以外で張遼と二人、こんなふうに着飾って肩を並べ、祭りに繰り出す日が来ようとは。

素性を悟られないために鎧を脱いだ張遼は、普段とは違った魅力を放っていて、英瑠は彼を直視することも出来ず時折横目で見遣っては、その横顔にまた胸がいっぱいになるのを実感するのだった。

「さすがに人が多いな。こう人が多くては、巡察の兵の目も隅々までは届くまい」

「そうですね……! 気を引き締めなければ……!」

彼の真面目な言葉に、英瑠はあらためて役目を自覚させられ、弛んだ気持ちを切り替えて人ごみに視線を走らせる。

だが少し歩いたところで彼が口にした言葉に、英瑠はまた私情が溢れ出すのを止められなくなってしまうのだった。

「……正直。こうして英瑠殿と並んで歩くことが出来て、私は嬉しく思っている。
役目の最中だというのに、不真面目ではあるが……。

武人は武を振るってこそ輝く。
だが私は、英瑠殿と過ごすこのようなひと時も、心地良いと感じているのだ……、
…………。
そなたはどう思われる、英瑠殿」

英瑠に顔を向けた張遼は、恐ろしく穏やかで、恐ろしく真剣だった。

彼の様子にふと立ち止まってしまった英瑠は、その顔を見つめた途端――
時が止まったような錯覚を覚えた。


行き交う人々の喧騒がすべて、ここではない別次元へ掻き消えたような。


彼女は呼吸さえ忘れ、こみあがる慕情のまま言葉を返そうと、口を開く。

だが。

人々の波が、彼女を背後から襲う。
人に押されたその衝撃で、たった今まで寸断されていたように感じていたあらゆる現実が――――たちまち戻ってくる。

さらに全く惚けていた彼女の身体は、踏ん張る間もなく前に揺らいでしまうのだった。

その身体を抱き止める張遼。

彼に身体を支えられた英瑠の視線がゆっくり見上げられ、張遼の視線と交差する。


再び喧騒が遠くなり、互いに互いの姿だけをその瞳に映し出した。

僅か数拍脈打つだけの時間が、永遠にも思える。


「……すまぬ。人ごみの中言うことではなかったな」

謝罪の言葉を口にして視線を逸らした張遼はしかし、発言については訂正をしなかった。


英瑠の心臓が、切なく締め付けられていく。

陶酔にも似た今の感覚は、戦のそれにも似ていた。

たとえば、その視界に、必ず首級をあげると心に決めた敵将だけを映している時のような。
他のものは、味方でさえ『風景』に変わる。
集中し、自分の中にある深い深い海に潜り、たった一人の首を取るためだけに、全神経を集中させた時のような。

勿論抱えた感情は違う。
今目の前にいる人間に彼女が抱いているのは、敵意でも殺意でもない。
思いを馳せるだけでほの甘い気持ちになる、暖かくて柔らかい感情だ。

しかしその深度が似ている。
『それ』を目に映してしまえば、他のものは全て見えなくなってしまうのだ。


英瑠は気付いた時には、身体から離れていく張遼の腕にそっと触れ、その袖を小さく握っていた。

「…………、」

張遼はそれを振り払うことはなく、彼女に腕を差し出したままゆっくりと歩き出す。
英瑠もそれに従い、再び歩を進める。

歩くうちに、袖を握っていた英瑠の手は徐々に開かれ、やがて彼の腕を手の平で包みこむようになり、最後には彼の腕に縋り付くように自分の身体を寄り添わせた。
張遼は何も言わずそれを受け入れる。

英瑠は、ひどく自分が図々しくなってしまったことを自覚した。
しかしこの温もりは、いかんともしがたいほど離れがたく、心地が良かった。


張遼に寄り添ったまま歩きながら、英瑠はゆっくりと口を開く。

「私も……。こうして文遠様と過ごせる時間を、とても嬉しく思っています……。
いつまでもこうして寄り添って歩いていたいような、そんな……」

口に出してしまってから、激しい罪悪感に襲われる。
しかし英瑠はもはや、自らを蔑んで一歩引くことはしなかった。

ここで引いたらもう、彼の隣には永遠に辿りつけないような気がしたから――



「……英瑠殿、何か欲しいものは無いか?
遠慮なく申されよ」

言葉少なに歩いていた彼らだったが、立ち並ぶ出店を見て張遼がふと口にした。

「いえ……、私は別に……」

「そうか……。何か良いものがあったら買ってやりたいと思ったのだが」

「っ……、」

張遼は女物の簪や装飾品を扱う店に目を遣り、そう告げる。

英瑠の胸はもう破裂寸前であった。
ただでさえ、張遼の腕に寄り添うという普段では考えられない行動に出ているのに。
その上、そんな気のきいた優しい言葉をかけられたら。

ああしかし、ここで何も言わないのは逆に失礼に当たるのだろうか。
英瑠はぐるぐると空転し続ける頭で必死に考えた。
そんな彼女の鼻をふと、嗅ぎ慣れた匂いがくすぐる。

「…………、」

匂いに刺激され、彼女は自分が空腹だったことを思い出した。

――肉饅頭。通称肉まん。
肉を詰めて蒸しあげられたそれは、英瑠の食欲を図らずも刺激したのだった。
彼女は咄嗟に口にする。

「肉まんが……食べたいです」

言ってしまってから、自分が何を口走ったのか気付き英瑠は青ざめた。
しかし張遼は、そういえば小腹が空いたな、と普通に応じ、肉まんが売られている店の方へ足を向けていくのだった。


ようやく張遼の腕から離れた英瑠は、肉まんを買ってくれた彼に感謝を述べ、そっと肉まんを口にした。

何の変哲もない普通の味。
しかし、張遼が買ってくれて、隣で彼も同じものを口にしている。
その事実が今この瞬間を、明確な『思い出』として彼女の胸に刻んでいく。


思い出とは、死ぬまで刻み続けられる生の証である。
それは、武器を置く日が来るまで戦場で武を振るい続ける将も、市井でそれぞれの日常を生きる庶人も、皆同じなのだ。
英瑠は祭りの賑わいを肌で感じながら、それをあらためて実感するのだった。


***********************


英瑠と張遼が祭りを楽しんでいるその頃。

仕事場に篭り茶を啜っていた陳宮は、手の者からの報告を聞いて、思わず茶を吹き出しそうになっていた。

彼はひそかに二人に尾行を付けていた。
単なる好奇心からではない。……否、それも少しはあるが。
彼は何より二人に与えた『役目』に関することで思うところがあったからそうしたのだが、それにしても、寄り添って肉まんとは。

(この勝負、すでに決しましたな。)
――いや、これは勝負などではないのだが。
陳宮は、すでに趨勢の決した戦を眺めるように、退屈な目をすると欠伸をひとつ噛み殺した。

それから。
手の者に、引き続き二人の尾行を続けるように告げた彼は、
「はてさて……。一時の平穏を満喫している将軍たちは置いといて、私は私の役目を果たしますかな」
と一人ごちて、書庫へ消えていくのだった。


前の話へ  次の話へ

bkm

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -