16.信頼


呂布は、徐州で曹操を退けた。
しかし、未だ力を有している諸侯は多い。
呂布軍は、遠くはない戦に向けて、兵の補充と鍛練を怠らないのだった。

各々が各々の役目を果たしながら、将兵は本拠地での平穏なひと時を過ごす。
それは、さらに武の高みを目指す英瑠も例外ではなかった。



龍英瑠は溜め息をついていた。
物憂げな顔で回廊の柱にもたれ掛かる彼女は、時折ちらりとあさっての方に目をやっては両手の指先を絡め、せわしなく動かしている。

やがてその目がとある人物を捉えると、英瑠は跳びはねるように佇まいを正し、たちまち側へ駆け寄って行った。

「文遠様……!」
「英瑠殿」

彼女の顔は先程とはうって変わってたちまち明るいものになり、その声も生命力に満ち溢れていた。
まるで、夕餉に大好物の料理が出てきた時の子供のように、喜びを顕わにする英瑠だったが。

しかし。

「英瑠殿……、すまぬ。
そなたと鍛練をする約束をしていたが、急用が入ってしまったのだ。
手合わせはまた別の機会にしてくれまいか」

英瑠は、落胆を顔には出さなかった――少なくとも、張遼をはじめ、彼らのやりとりを横目で見ていた使用人たちの目にはそう見えただろう。

彼女は、「わかりました……!
また文遠様のご都合の宜しい時にお願い致します……!」
と張遼に告げて、
「申し訳ござらんな。ではまた」と言って去っていく彼を一礼で見送っていた。

それだけだった。

……だが、それだけではなかった。

張遼が視界から消えたあと、英瑠は、傍目にもわかるほどがっくりと肩を落とし、今にも泣きそうな顔でまた溜め息をついた。
彼女はふらふらと柱に寄り掛かると、一瞬沈黙したのち、はっとしたように頭を振ると、無理矢理笑顔を作って拳を握りしめるのだった。
まるで、落ち込んだ気持ちを鼓舞させるように。



――陳宮は、一連の流れをずっと見ていた。

否、見ていたというのは結果であって、決して意図したものではなかった。
彼はただ、書庫で資料に目を通していて、ふと窓の外を見たら視界に英瑠の姿が映ったので、はて?と思い何の気なしに目をやっただけなのだった。

だが陳宮の気まぐれ人間観察という短時間の中でも英瑠は、一人で舞台に立つ道化のように、ころころといろいろな顔を見せ足掻いていて。
陳宮は、はじめはその光景が面白くて仕方がないというふうに笑っていたものの、しかし英瑠がそんな振る舞いをせざるをえない理由に心当たりがあったため、次第に出来の悪い生徒を見守る教師のような、妙な気持ちになってしまっていた。

彼は、意を決して仕方がないというふうにゆっくり腰を上げると、未だしょげたままでいる英瑠に近づいて行くのだった。


「そんなに苦しいなら、きちんと告白を、告白をした方が良いですぞ。
胸の内を本人に明らかにすれば、その煩悶からも解放されましょうに……」

突然背後から声をかけられた英瑠は、まるで盗み食いの現場を押さえられた子供のように息を呑んで、陳宮を振り返った。

「っ!! あ、軍師様あの……、あ、」

「覗き見をするつもりではありませんでしたが……、あなたがあまりに、あまりに挙動不審だったゆえ……。
女性から想いを打ち明けることに抵抗がおありですかな?
しかしそうでもしませんと、あの真面目な張遼殿との仲は進展しないと思いますぞ」

「っ!!!!」

英瑠は、驚愕と羞恥の入り交じったような表情を浮かべて陳宮を見た。
その顔には、何故貴方が私の想いを知っているのかと書いてあった。

陳宮はやれやれと肩を竦めると、これは一筋縄ではいかないななどと考えながら理由を述べた。

「あなたの張遼殿に対する想いは、近くで見ている人間ならすぐに気付くと思いますぞ……。
落胆は上手く隠してるつもりでも、喜びが全く、全く隠せておりませんからな」

「……えっ! ……っ、………………。

そう……ですか……? そんな…………、

………………………………。
うぅ…………
申し訳ありません…………」

陳宮の言葉に、鎚で殴られたように思い切り意気消沈した英瑠は、また溜め息をついて肩を落とす。

そして、今まで溜め込んでいたものを吐き出すように、彼女は語り始めた。

「だって……。
私のような者が、文………、張将軍と釣り合うはずもないですし……
想いを告げるなんて、やっぱり恐れ多くて出来ませんよ……。
将軍は優しい方だから、もしかしたら私に気を使って、何とか優しく断る言葉を模索されるかもしれません。
そんな気苦労とお手間を張将軍にかけさせてしまうわけには参りません……」

陳宮は顎をさすりながら、彼女の言い訳を黙って聞いていた。
英瑠はさらに続ける。

「張将軍も男性。殿方はやはり、武勇などとは無縁のしとやかな女性を好まれるはず……。
敵の返り血を浴びた血生臭い女が愛を告白したら、たいていの殿方は驚かれるでしょう……
でも私は武人。武器を手にして生きることしか出来ぬ身。
甘い夢は見てはいけないのだと自覚しております……」

陳宮は思わず、面倒臭いなと思った。
彼女はまだ続ける。

「今のままで十分なのです……。
張将軍と鍛練で刃を交え、時に轡を並べ、戦場では互いに武を示す……
我々武人にとって、武は何よりも雄弁にその人を語るもの。
ほの甘い……懸想なんて……」

「武に逃げるのはやめた方が良いかと」

陳宮は思わず言ってしまってから、はっとしたように彼を見つめてくる英瑠を見て、思いの外面倒なことに首を突っ込んでしまったと直感した。
どういう意味ですか、と口に出さないまでも目で疑問を語る彼女に、陳宮は半ばやけくそになって、乗りかかった舟を自分で漕ぎはじめることにする。

「武を愛で語ることが無意味なように、愛を武で語るのは無理があるかと……。
あの呂布殿でさえ貂蝉殿には、不器用ながらも己の望みを語っておりましたぞ。
側にいてくれと言わなければ永遠に、永遠に伝わらない想いもありますぞ……!」

「っ…………!!」

「それに、やってみもしないうちから諦めてしまうのは、武人としてもどうなのですかな……?
英瑠殿は、戦場でいかにも屈強な敵と遭遇したら、『負けそうだから』と、はなから諦めて背を向けてしまわれますかな……?」

「そんなことは致しません!! 武人たるもの、強者と相見えることはむしろ喜ぶべき事。
刃も交えていないのに敵に怖じけづいて逃げ出すような人間は、武人ではありません……!」

「では、本心と言う名の刃を振るう前に背を向けてしまっている今の英瑠殿は、武人ではありませんな。
女性としての視点で語れば武を持ち出して逃げ、しかし武人として語ってもその態度は褒められたものではないとご自分で認めなさる。
この陳公台、人の恋路をとやかく言うつもりはありませんが……
なんとも、なんとも都合の良い言い分ですな」

陳宮はそこまで言ってから、さすがに挑発がすぎたかと自省した。
侮辱ともとれる発言に、彼女が激昂して掴みかかってきたとしても仕方がない。
陳宮は、英瑠が今丸腰であることに心底安堵を覚えるのだった。
もっとも、素手とはいえ尋常ならざる腕力を持つ半人半妖の女に襲われればひとたまりも無いのだが。

英瑠は陳宮の挑発に、沈黙していた。
陳宮の額に汗が浮かぶ。彼女の気配が変わったらすぐに逃げ出そうと心を決めた彼だったが、しかしやがて英瑠がぽつりとこぼした、
「そうですよね……」という一言でその場に踏みとどまる。

危機は去った。よし。信じていましたぞ英瑠殿。あなたは人間だ。
……陳宮は、そんなことを考えながら胸を撫で下ろした。

「傷つくことを恐れ、敵から逃げるなど武人として恥ずべきこと。
私がもはや、皆様に気付かれるほど平静を保てなくなっているというのなら……、ここは意を決して速やかに敵陣に突入し、玉砕をするしかありませんね……!
この身が果てるまで戦い抜いて、たとえ死すとも、この一太刀を敵将に……!!」

「……、」

どこかの一点を見つめてぼそぼそとこぼす英瑠の言葉に、陳宮はヒヤリとしたものを覚え、首をかしげた。
彼女の目は決意を秘めたそれに変わり、出陣前の武将もかくやと剣呑な光を発している。
陳宮はどこか既視感を覚えながら、言葉を選んで英瑠に告げた。

「英瑠殿……今のはたとえ話であって、張遼殿は敵では、敵ではありませんぞ。落ち着いて下さいますかな?
それに戦においても、まずは準備を整えてから出陣するもの。備えもせずに玉砕ばかりを考えるのは下策、下策ですぞ……!」

陳宮は、この既視感が気のせいなどではないことを実感していた。
あの、己の直感を頼り反射的に走り出そうとする某鬼神。
それを宥め、ひとまず踏みとどまらせてから話を聞いてもらう時のような……、そんな感覚だった。

彼女は戦においては物分りが良く、指示にも素直に従う方であったのだが――
ひとたび恋路となると『こう』なのか。眩暈がする。

「はい……! 先走って思いつめてしまい、申し訳ありませんでした……!
きちんと準備をしてから張将軍に、想いをきちんと……
…………。

……でも、将軍とは、洛陽にいた頃から顔を合わせており……、いろいろなお話をさせてはいただきましたが……
これ以上、どうやって備えをすれば……。やはり、私などが文遠様に想いを告げるのは…………」

これは。話が一周し、振り出しに戻ってしまったではないか。しかも一応周りに伏せているらしいあざな呼びまで。
陳宮はいい加減、行き先を見失って大海を彷徨っている彼女の船を、きちんと導いてやらねばならないと考えた。

もちろん本来は、そんな義理も義務もない。しかしここで彼女に『貸し』を作っておく事は悪くない。
かつてあの美女、貂蝉がそうしたらしいように。
陳宮は再び後ろ向きになり始める英瑠を宥め、あることを提案するのだった。

「英瑠殿。近々、街で町民の祭りが催されるとのこと。
数々の店が軒を連ね、沢山の人が集まり賑わうことでしょう……。
その祭りに、張遼殿を誘って行かれてはいかがですかな?
二人きりで外に出れば、多少なりとも良い雰囲気にはなれましょう」

「っ!?」

英瑠は息を呑み、陳宮の言葉を受け止めると、反射的に口を開いた。

「そ……、それは……。
文…、張将軍とお祭り……。それはとても楽しそ…………っ、しかし、急にそんなお誘いをしたら迷惑ですよ……! そもそも――」

予想だにしなかった誘惑の言葉に思わず本心が漏れる英瑠だったが、しかしすぐに首を振って理性を取り戻す。
そんな彼女を遮って陳宮は続ける。

「祭りというものは沢山の人間が集まるもの。
昼間とはいえ、人が集まれば当然、当然良くないことを考える輩も出てきましょうな」

「っ……!」

「巡察の兵を回らせるとはいえ、彼らだけでは心もとないのが本音……。
腕の立つ将が素性を隠して、それとなく人々に目を光らせて回ってくだされば、治安維持におおいに役立つでしょう……。
将たるもの、治める地の民衆を統制するのも重要な、重要な仕事。
弱きを助け、悪しきをくじく……それは、人の上に立つ者の義務……!」

陳宮は、両手を広げて大仰に述べた。
果たして英瑠はそれを聞き、目に光を宿らせ表情を明るくしていくのだった。
まるで、雪の中から顔を出し、春の訪れが近いことを告げるふきのとうを見つけた時の子供ように。

雪はやがて溶け、春が巡って来るだろう。
たとえ、その次にやってくるのが再び冬だったとしても、それでも人は、走り出さなければならないのだ。

英瑠は力強く陳宮に拱手をすると、決意に彩られた双眸で彼を見据え礼を述べた。
やがて背を向けた彼女は、颯爽と去っていく。

その足取りには、もはや迷いはなかった。



彼女が去っていったあと、陳宮はようやく肩の荷が下りたように溜め息をついた。
そして、彼が口元に怪しげな笑みを浮かべた時にふと背後から漂ってきた、花の香り。

「陳宮様……。あなたも英瑠様に貸しを作ったのでらっしゃいますね……」

「これはこれは……貂蝉殿。いえいえ、貸しなどとはとんでもない……。
私は純粋に、純粋に英瑠殿のお手伝いをさせていただいただけのこと……」

陳宮は笑みを消し、振り返りながら、今しがたの美女の言葉をやんわりと否定した。
しかし陳宮の背後から現れた美女・貂蝉は、全て見透かしたような眼で微笑むと、さらに言葉を返す。

「ふふ……。英瑠様は玉のようなお方……。
方向を定めてから指で押せば、ころころと転がっていくような……」

陳宮は、貂蝉が女性である英瑠をぎょくになぞらえ、同時に玉(球)とかけたのだとすぐに気付いた。

「ふむ……。押す方向さえ定めてやれば、その玉はまっすぐ進み、立ちはだかるものをすべてなぎ倒すのでしょうな……
そんな矢の如き物騒な、物騒な玉……。
ただの玉だと思って受け止めた者は、方天戟に斬られてしまう……なんとも恐ろしい」

「まぁ……。物騒などとは、ひどい物言いでございます……。
陳宮様は、彼女を弄り甲斐のある手玉と思ってらっしゃるのですか……?」

「とんでもない……! 軍師たるもの、自軍の将について深く知っておくのは当然の事……!
それより貂蝉殿、あなたは侮れない方ですな……。
あなたはあの呂布殿まで手玉に取ってしまったのですから……!
この私が呂布殿の信頼を得るのにどれほど、どれほど苦労したことか……
以前は、英瑠殿の弟を救って彼女に『貸し』を作り、その見返りに董卓討伐に協力させたとも聞きましたぞ……いやはや」

「そんな、私は別に……。
私はただ、奉先様や英瑠様の力になりたいだけでございます……。

陳宮様……、人にはそれぞれ本分があるものでございましょう……?
奉先様や英瑠様には比類なき武が。そして、私たちには……」

「……『ここ』、ですな。わかっておりますぞ。
やはりあなたは侮れませんな。私と似た匂いが致しますぞ……!」

陳宮は自らの頭をとんとんと指差して貂蝉に言った。貂蝉も、軽く微笑むとゆっくりと頷いた。
彼らのやり取りは、決して不穏なものではなかった。
たとえるならば、明るい表通りから一本外れた裏通り沿いに住んでいる者同士が、互いに顔を合わせてしまったような。

しかしここは、昼間でも光の届かないような薄暗く澱んだそれではないのだ。
治安の悪さに怯え、闇に潜んで暮らす日々はもはや過ぎ去った。
彼らは平穏な路地のご近所さんとしてごく自然に挨拶を交わし、時に雑談を交えながら表通りに歩を進めていけば良い。

陳宮と貂蝉は、互いに意味ありげな笑みを浮かべた。
それは、似た者同士だからこそ抱く、互いへの信頼にも似ていた。



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