14.字(あざな)


呂布は、エン州から曹操の軍勢を一掃し、エン州牧となった。
北の袁紹、徐州の劉備、そしてエン州を失ったものの未だ強大な力を持つ曹操。
それらを制すために、呂布は着実に力を溜めていくのだった。

呂布配下の英瑠や張遼ら将も同様だった。
彼らは本拠を得たことと呂布と共に進む未来が見えてきたことで一層士気が高まり、鍛練に励む日々を送っていた。

近いうちに必ずやってくる戦に向けて、己を高めるために刃を交える英瑠と張遼。
英瑠は、そんな日々に充実感を感じていた。



ある時。
張遼との鍛練を終えた彼女は、周りに兵が居ないのを見計らって、ふと思い出したことを口にした。

「……今頃、貂蝉様はどうしてらっしゃるのでしょう」

「……うむ」

張遼は英瑠の何気ない一言にもきちんと反応し、しかし語るべき言葉を持たないようで黙っていた。

「私の弟が定陶での戦の後、一度だけ変なことを言ったのです……
『案外、彼女はすでに我々の近くに居るのやも』と……
弟は、『劉備とは……まさか……』などとも言っていましたが、それ以上詳しくは教えてくれなかったのです……。
気になって軍師様にも聞いてみたのですが、やはり教えてもらえなくて……。
私、貂蝉様に再会出来たら、どうしてもあらためてお礼を申し上げたいのです……!
貂蝉様の口添えがなければ、弟は董卓に殺されるか、もしくは、私がこの身を差し出さなければならなかったのですから……」

英瑠は澄み渡る空を見上げながら語り、張遼はそれを神妙な顔で聞いていた。

「……って、今言っても仕方ありませんよね……!
私は私の本分を全うしなければ……!
貂蝉様の話は、殿には絶対言えませんものね」

英瑠はいつしか呂布を殿と呼んでいた。
彼女は心から呂布を主と認め、彼の臣として刃を振るい続けることを決めたのだ。
英瑠は続ける。

「あの、戦場ではとても荒々しい万夫不当の殿が、貂蝉様と向き合っている時だけは穏やかな顔をされていたのを見ました……。
武人をあそこまで穏やかにしてしまう貂蝉様がすごいのか……
それとも、殿も普段は表に出さないだけで、愛した人には優しく接する部分があるのか……
どちらなのでしょうね……、どちらもなのでしょうか……
というか殿は機嫌が良い時は、ふとした時にすごく優しかったりしますよね、」

英瑠は張遼が黙って聞いているのをいいことに、思いつくままをただ口にした。
ひとたび武の殻を脱ぎ捨ててしまえば、彼女はただの朗らかな女性なのだった。

「って……、張将軍にこんなことを話してしまって申し訳ありません……!
口が過ぎました……!」

「…………、
英瑠殿は、呂布殿を慕っておられるのか?」

ようやく口を開いた張遼は、ゆっくりとそう口にした。
その声はただ平板で、しかし冷ややかではなく、感情の一切読み取れないものだった。
そのため英瑠は、質問を何ら含みのない文面通りに受け取り、答えた。

「はい……! 殿を慕っております……!
殿の力となり武を振るえること、今はとても誇りに思っています……!
……、張将軍もそうですよね……?」

英瑠は、ただ明朗と、笑顔を浮かべてそう告げた。
張遼の眉がぴくりと動き、再び口が開かれる。

「それはそうだが。
……そうではなく、私が聞いたのは、男としての呂布殿を慕っておられるのか、ということだったのだが……
うむ……。妙なことを口にしてしまったか」

「…………、」

英瑠は張遼の言葉を聞き、黙りこむと、その意味を頭の中で分析した。
そして直後に、心臓が跳びはねるような衝撃を受けた彼女は、素っ頓狂な声を上げてそれを真っ向から否定した。

「あの、いえいえいえ!!!!! 違います!!
わ、私が殿になどに……、恐れ多い!!!!
考えたこともありません!!
あ、殿は勿論男性としても魅力のある方だとは思いますが、それは客観的に見た場合でして、私はそれより…………

って違います、誤解です……!
私、殿のことは、武人として主としてその敬愛してはおりますが……!!!」

「ははは。それほど取り乱さずとも。
……では、陳宮殿か?」

「なっ!!!違います……!!!
軍師様は殿とは違った意味で素敵な方だとは思いますが……!!
そういう感情ではなくて……!

そもそも、私のような素性の者が誰かに好意を向けることなんて失礼に当たります……!!」

英瑠は顔を真っ赤にして手をぶんぶんと振り、必死に張遼に弁解し続けた。
はじめはその反応に笑って陳宮の例まで持ち出した張遼だったが、英瑠が「私のような、」と口にした途端に笑顔が失われ、真顔になった。

「何故自分を卑下される。
英瑠殿は今や我が軍の立派な将。
誰か好意を寄せている方がおられるなら、想いを告げれば宜しかろう」

「っ……!」

いつになく真面目な調子の張遼に、英瑠も口をつぐむと、彼に向き直った。
それから、張遼の顔をゆっくり見上げながらおずおずと口にする。

「でも将軍……
私の正体は知ってらっしゃいますでしょう……
完全に人間ではない生まれに加え、武将という身……
男性ならまだしも、女の身では縁談のひとつもありませんよ……」

「さようか」

「……さようでございます。
ましてや、こちらから想いを告げるなど……」

英瑠はそこまで言うと、耐え切れなくなり顔を伏せた。

想い人。心を寄せる相手。
それは他ならぬ、今自分の目の前に立っている武将なのだ。
精強で、凛々しくて、信義に厚く……
彼の良いところを挙げるなら、一晩中だって話していられるほどだ。
そんな相手に、半人半妖の自分が想いを告げるなどとんでもない。
英瑠はそんなふうに考えていた。

張遼は、うむ……と呟きあさっての方を向きながら腕組みをすると、すぐ解いて英瑠に向き直った。

「英瑠殿。そなたがどんな生まれであろうと、そなたの心は人間であろう。
そこに後ろめたさを持つ必要は無い。
それに、英瑠殿に想いを告げられて嫌な心持ちになる男などおらぬと思うがな。
もし強い女人が嫌だと尻込みするような男なら、こちらから見限ってやれば良かろう。

……む……いや、うむ。先程からおかしなことばかり口にしてしまったようだ。
すまぬ英瑠殿、からかってしまったこと、気を悪くされたであろう。どうか許されよ」

張遼は熱の篭った眼差しで訴えていたが、自省するように眉根を寄せると、英瑠に謝罪を述べたのだった。
その謝罪に英瑠は慌てて張遼を止め、高鳴る胸を抑えながら彼に告げた。

「そんな、とんでもありません……!!
張将軍がこのような雑談に付き合って下さり、冗談までおっしゃってくださるなんて……
とても楽しいひと時を過ごせて、私はこの上なく感謝しております……!
それに……、心は人間だと……、そんな風にも励ましてくださって、本当に嬉しいです……、本当に……」

今しがたの張遼の言葉が英瑠の頭の中で反響し、まるで心地良い湯のように全身を温めていく。

優しい彼はきっと、困っている英瑠の反応を見て気を使い、庇うような、励ますような言葉をかけてくれたに違いない。
図らずもそんな風に誘導してしまったことに対する申し訳なさと、その心遣いに対する純粋な感動。
英瑠は本当に、目の前に立っている武将への想いで胸がいっぱいになっていた。
油断すると、激情が口から溢れそうだと思った。

そんな彼女の想いを知らない張遼は、突然何かを思い出したようにハッとすると口を開いた。

「……英瑠殿。前から言おうと思っていたのだが。
宜しければ文遠と呼んでくれまいか」

「えっ、……」

「無理にとは言わぬが。
……貂蝉殿も呂布殿をあざなで呼んでおりましたな」

「っ……!」

それは貂蝉が呂布の『良い人』だからだろう。
そう言いかけて、英瑠は口をつぐむ。
張遼の言葉はまるで甘美な誘い水のようであった。

文遠……、文遠様。文遠様。
心の中で呟いてみれば、また派手に心臓が跳ねた。

まるで、憧れの人をいつも家の中から窓越しに見つめているしかなかったから、今日は意を決して家から出てみようと思った瞬間、突然その人が訪ねて来て、唐突に縮まってしまった距離に緊張しまうような。

破裂しそうな恋情を募らせた彼女は、そのままぽつりと口にする。
「文遠様、」と。

「良い響きだ」

「、っ……!」

朗らかな笑みを浮かべる張遼はただ眩しかった。
彼にとってこのやり取りは、きっと他愛も他意もない、単なる将同士の親しみを表したものにすぎないのだろう。
しかし英瑠にとってはその深度がまず違う。

暗闇の中で剣を取った人間は、何の気なしに柄を握り、その感触を確かめて一振りするだけかもしれない。
しかし間近にいた周りの人間は、気付けば見えない刃に切り裂かれていることだってあるのだ。

……否。
これは剣などという殺伐としたものではない。
もっと柔らかくて温かくて、斬られた傷口からこんこんと溢れ出すのは、慕情という熱い溶岩なのだ。
熱は顔だけでなく耳まで火照らせ、流暢な言語能力を奪う。
先程まであれほど他愛のない雑談に興じていたのに、意識してしまえば一言だって胸の内を明かせなくなってしまうのだ。

この熱は、戦のそれに似て非なるものだと英瑠は思った。
戦の匂いを全て遠ざけた時に滲み出る、龍英瑠という半人半妖の、人間の部分そのものだと気付いた。
そういう意味で、張遼が英瑠の心は人間だと言ったのは決して間違いではなかったのだ。

英瑠は朱に染まった顔で張遼をそっと見上げると、はにかむように微笑んだ。
そして、もう一度、「文遠様、」と口にした。

張遼は。
再び笑みを浮かべると、満足そうに頷いたのだった――



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