9.安寧と暗雲


長安に戻った董卓は、太師を自称しますます専横を振るっていた。
我が物顔で宮中にのさばる董卓に、士人たちはすっかり怯えあるいは怒りを押し殺しながら、日々を過ごすしかないのだった。

件の反董卓連合軍は、諸侯の足並みが揃わず瓦解して終わった。
董卓軍はこれ幸いとさらに兵を集め、軍備増強に勤しむのだった。

英瑠は手狭な仮住まいを出て、新たな家を借りると弟と一緒に移り住んだ。
彼女は武将として兵の訓練を行う傍ら、自身の鍛練も疎かにしてはならず、忙しい日々を送っていた。

「英瑠殿、鍛練の相手になってはくれまいか」
「張将軍……!」

張遼は真の武人であった。
ひたすらに己を磨き、雑事に心を惑わされない。
無法者が多い董卓軍にあって、彼は兵をきちんと統制し、彼自身もまた、清廉で紳士的な人物であった。

張遼の出自については人づてに聞いたことがあった。
元は丁原の配下だった彼は、董卓が呂布を唆し丁原を斬った際に軍ごと董卓軍に吸収されたらしい。
まだ二十代前半だった彼は主を自らで選ぶことも出来ず、そのまま董卓勢力に身を置くことになったのだとか。

以前弟に言われた、『仕えるべき主を選ぶべき』という言葉。
それは、目まぐるしく趨勢が変化するこの乱世において、言うほど簡単ではないのだということを改めて実感させられるのだった。

「っ、英瑠殿……! 腕を上げられたな」
「ありがとうございます!
でも、まだまだです……! まだ張将軍には及びません……!」

張遼と刃を合わせ、実戦さながらの特訓に励む。

一撃の重さは英瑠の方天戟の方が上だが、張遼の双鉞そうえつは二刀流である分手数が多い。
そして、経験から来る様々な攻撃に対する対応力も、張遼の方が優れていた。
英瑠のせっかくの重い一撃も、見極められ躱されて懐に飛び込まれれば、対応が遅れてしまうのだ。
もちろんその遅れは、並の使い手が相手なら全く問題のない一瞬の間である。

しかし張遼は並の使い手ではない。
ましてや、彼がその武を認める呂布はさらに高いところに居るのだ。
英瑠は武器を握りしめながら、さらに武を研ぎ澄ませ続けることを誓うのだった。

「張将軍、さすがでございます……!
私の牽制攻撃は普通に受け止められますのに、肝心の渾身の一撃はきちんと躱されるか受け流され……
将軍と手合わせをさせていただいていると、力だけが全てではないのだと思い知ります……!」

互いに息を弾ませながら、手を止め言葉を交わす。

「いや、英瑠殿もその腕はなかなかのもの。
それに英瑠殿の渾身の一撃をまともに受け止めたら、腕が痺れてしまいそうですからな」

冗談めかして最後を丁寧に強調した張遼の軽口に、英瑠が思わず唇を尖らせると、張遼は軽く笑って、
「いや、真面目な話だが、敵に囲まれた際は受け太刀で手を止めてしまうと、別の敵に隙を突かれてしまうからな。
……というか、貴公はそのような顔もするのだな」
と語った。

その言葉に英瑠はしまったと思い表情を引き締め、「も、申し訳ありません」と口にする。
さらに張遼が笑う。

「いや、良い。自然体の英瑠殿を垣間見たようで、楽しい気持ちになっただけのこと」
「……、」

「私は、目上の人間の前で畏まっている時の貴公と、戦場で恐れずに武器を振るっている貴公ばかり目にしていたゆえ。
そのような、普通の女人のような……無邪気な顔も見せるのだと知り、何故だか心が弾んだのだ」
「っ……!」

他意はないのであろう、淡々と告げる張遼に英瑠はたちまち顔が火照っていくのを自覚した。
ちょっとした『隙』を見られてしまったのもさることながら、それを見られて楽しいと言われたら。
誰より何より、張遼にそれを言われたら。

さらに張遼は悪気なく追い撃ちを掛けてきた。

「思えば、私と初めて手合わせした後もそうであったな。
英瑠殿は嬉し涙を流したり、顔に泥を付けたり忙しかったことを覚えている」
「……っ」

「このようなあらたまってはいない場では、自然体の英瑠殿をもっと見せてくれまいか。
私は貴公と過ごすこの時間を楽しいと感じているし、貴公の素の顔をもっと知りたいと思っている。
英瑠殿が華雄殿を助けて戻ってきたとき、それを確信した」

……英瑠はもはや何も言えなくなって、その場に立ち尽くした。

今しがたの張遼の言葉を頭の中で反芻する。

これは、夢ではないのか。
心臓が鼓動を刻むたび、その間隔が早まっていくのを自覚する。
胸の中が熱い。

そう、呂布に対する敬意と羨望が激しい篝火から発せられる熱風なら、この熱は、部屋の火鉢にくべられた炭のそれに似ていた。
どこまでも温かくて、手を翳してずっと当たっていたいような。

英瑠は己の気持ちの正体に気付いていた。
きっと、ずっと昔から。
いつかの林道で、この武人に助けられてから。

しかし今はまず、張遼の言葉に答えなければならない。

英瑠は火照る頬を押さえ、とろ火に炙られ溢れ出す心の熱を頭の片隅にひとまず追いやった。
その上で。

「私も張将軍と過ごす時間はとても楽しく、有意義に感じております……!
お見苦しいところをお見せしてしまうかもしれませんが、これからも宜しくお願いします……!」

笑顔で告げた。


実は英瑠には張遼に聞きたいことがあった。
鍛練を終え、別れる間際に意を決してそれを張遼に問い掛けようとしたものの――結局口には出せなかった。

もし。

もし、仕えるべき主を間違ってしまったことに気付いてしまったら。
そして、今からでもそれを変えられる機会が来たら。
将軍ならどうされますか、と――――




先の戦いで董卓にやりきれなさを覚えた英瑠だが、しかしそれを口に出すことはなく、しばらくは自己研鑽と兵の訓練に励んでいた。

だが、転機はいともたやすく訪れる。

士人たちの多くが董卓を憎む中、董卓もまた自身に向けられる刃に敏感になっていた。
董卓の暗殺を企てた人間は問答無用で死罪。
それも、本人のみならず一族や、それらを庇った者も問答無用で処刑されてしまうとの事だ。

そんな中、英瑠の弟が捕らえられたとの悲報がもたらされる。

何でも、董卓暗殺を企てた人間の身内が英瑠の弟の上司に居て、弟は師でもあるその文官を庇ったらしかった。
そのせいで弟も連行されてしまい、処刑を待っているところだという話だった。

英瑠は全身に冷や水を浴びせ掛けられたような感覚に陥った。
心臓が凍りつきそうだった。

気付いた時には、董卓のもとへ向かって走り出していた。
彼女の目は、戦場でのそれよりももっと暗く、深く、烈しく揺らいでいた。



「駄目じゃ!! わしに逆らった奴は皆死刑じゃ!!
その者を庇った者も同罪!! お前のような末端の頼みなど聞けぬ!!」

とりつく島も無かった。

董卓は目を血走らせ怒り狂い、辺りの調度品に八つ当たりをして大声を上げた。
董卓に侍り石のように黙している女官がビクリと肩を震わせる。

英瑠はなりふり構わず叩頭し、弟の死罪を撤回してもらうようさらに董卓に懇願したが、彼が素直に英瑠の願いを聞き入れるわけもなく、
「黙れ、それ以上言うとお前も斬るぞ!」と激昂し剣に手を掛ける有様で。

董卓の女官が今度は声にならない悲鳴を上げ、彼女と一瞬だけ目が合った英瑠はその顔が目の前で起ころうとしている惨劇に引き攣っているのを見たが、英瑠はそれ以上どうすることも出来ず額を地に擦りつけて固まるしかないのだった。

何か手は無いか。考えろ。考えなくては。
英瑠が焦りから眉根を寄せて思考を巡らせていると、突然何かを思いついたようにふと手を止めた董卓が、ぐふふと下品な笑みを浮かべ、言った。

「のう龍琉よ……
お前がそこまで言うなら、弟を助けるのを考えてやらんこともないぞ……?
ただし、お前がその身をわしに差し出せばじゃがな!! ぐふふふ……」

皆まで聞かずとも董卓がふと黙ったときに直感したが、下されたのはやはり無情な宣告だった。

頭を垂れた下で、英瑠はきつく唇を噛む。
己の貞操と弟の命。比べるまでもなかった。
弟は、姉を全力で支え続けてくれた。
見捨てることなど出来ようか。
たとえ、この身を董卓に捧げようとも――

英瑠が悲壮な決意を抱いて、ゆっくりと顔を上げた時だった。


「董卓様……、私では董卓様を満足させることはできないのでしょうか……?」


鈴を転がしたような、柔らかく艶やかな声が響く。

「貂蝉……!」

唐突に割り込んで来た貂蝉は、怯える女官を下がらせると、控えめな足取りで二人の間に入ってきた。

「董卓様……、恐れながらその英瑠は、私の大切な友人にございます……」

「っ……!!!」

英瑠は、突然発せられた貂蝉の一言に息を呑み、跪いたまま固まった。

「私の友人は、荒々しい戦場でこそ輝く女武者……!
宮中で董卓様の一番お側に仕えるのは、他ならぬ私の役目と思っておりましたのに……、
私の身ひとつでは、董卓様を満足させるには力不足でございますか……?」

繊細で豪奢な装身具を揺らしながら床を踏みしめる貂蝉は、淋しげな声色で董卓に縋り付くような視線を送った。

思いがけない貂蝉の登場に、英瑠は董卓と彼女を交互に見比べながら、口を閉じ事の成り行きを見守ることにする。

「おお貂蝉よ! 何を言う……! わしはお前に満足しておるぞ……?
ははぁ、さては貂蝉、嫉妬しておるのか……?
ぐふふ、可愛い奴め……!
ふん、こやつはたしかに顔は悪くないが、お前と比べたら雲泥の差よ!
ほんの冗談、気にするでない!!」

「ああ董卓様……! この貂蝉、そのお言葉を聞いて安心致しました……
嬉しゅうございます……!」

「ぐふふふ……そうかそうか。
ん、貂蝉、今こやつを友人と言ったか?」

「はい……。女の身で武器を振るう武人は、なかなか居ないもの。
英瑠とは女同士、気心の知れた相手として度々交流をさせていただいておりました。
そんな彼女が、哀しみに暮れた様子でいらっしゃるので、私も胸が張り裂けんばかりに哀しい気持ちでいっぱいでございます……!」

貂蝉の口からすらすらと流れる台詞と蠱惑的な仕種は、まるで何かの舞を見ているかのようだった。
それも、うら寂れた場末の芸妓のようなそれではなく、皇帝の前で披露されるような、恐ろしく優美で洗練されたそれだ。
英瑠は黙ってひたすら二人のやり取りを聞いているしかないのだった。

「そうは言ってものぅ、貂蝉よ……!
こやつの弟は、わしを殺そうとした奴の一族を庇ったのじゃ!!
許すことは出来ん……!」

「董卓様……、英瑠の弟君は、大変才知に長けた御方だと聞いております。
歳若く後ろ盾もない彼は、師を失えば自分の身の置き所に困ると考えたのではないでしょうか……
そのような未来ある才人が、志半ばにして死してしまうのは勿体なく思います……
ここで死罪を免じれば、彼は董卓様に感謝し、私の友人英瑠共々、董卓様にさらに懸命にお仕えするようになるのではないでしょうか」

「……うぅむ……!
たしかに、その賢才は殺すのは勿体無い気もするのぉ。
わしのためにもっと働かせた方が得じゃ!
……じゃが、そやつだけ無罪放免にしては他の者に示しがつかん!!
……棒叩きじゃ!! そやつの死罪を免じ、棒叩きの刑に処す!!!」


英瑠は、董卓に深々と頭を下げて礼を述べた。
棒叩きの刑も決して軽いものではなく死の危険もあるのだが、それでもとりあえずは絶対的に確定された死からは逃れることが出来た。

貂蝉も、「ああ董卓様……、この貂蝉のお言葉を聞き入れてくださるとは、何と広い心をお持ちなのでしょう……!」
などと言って董卓にしなを作っていた。

これは貂蝉への明確な『借り』だった。
それほど貂蝉の助け舟は鮮やかであったし、またそれがわからぬほど英瑠も愚かではなかった。

しかし。
たとえ他意があったとしても、弟の死を回避してくれたこと。
そして、自らを友人と言ってくれたこと。
それが英瑠にとってはとても嬉しく、感謝してもし足りないほどなのだった。

英瑠は誓った。
誰の為に戦うか。何を守るか。志はどこにあるのか。

彼女の瞳は、やがて訪れる分水嶺を見渡すように、静かに揺らめいたのだった。



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