戦の熱の鎮めかた・後


ある晩。軍の砦にて。

張遼は、今日の戦いを思い返していた。
なかなか悪くない戦が出来たように思う。
味方の猛攻に敵は陣形を崩し、やがて後退していった。
本日の戦いが勝利に終わり、陣中もそれなりに盛り上がっていた。
明日以降の戦況の変化には注意しなければならないが、とりあえずは小康状態だろう。
そう考えて、甲冑を脱ぎ寝台にくつろいだ時。

護衛の兵が、来訪者を告げた。
名を聞いたところ味方の見慣れている武将だった為、特に警戒せず幕舎に招き入れることにした。

「文遠様。夜分遅くの来訪をお許しくださいませ」

張遼は、一瞬何が起こったかわからなかった。

よく知った将だと思って招き入れたはいいが、実際に入ってきたのは戦場にそぐわない扇情的な衣を纏った女で、しかも拱手をするその女は、よく知った声を発するではないか。
ややあって、張遼はその女が、他でもない、よく知った将――龍英瑠その人だと気付く。

彼女の顔をまじまじと見れば、その顔は普段戦の最中はしない見目麗しい化粧で調えられていて、結い上げられた髪には控えめな飾りのついた簪が揺れていた。
剣も甲冑も身につけず、戦場での出で立ちを全て脱ぎ捨てて纏っているのは、一見して上質な織物だとわかる、生地の薄い着物だった。

「……、英瑠殿、その出で立ちは、一体……、」

どう反応して良いかわからず、切れ切れに言葉を紡ぐ。
戦場の幕舎というむさ苦しい場所にあって、彼女の周りだけが殺伐とした世界から断絶されたように、まるで平穏な宮中の庭園に咲く花のように、一輪だけ佇んでいた。

張遼の戸惑いを察したのか、英瑠はもう一度拱手をすると、うやうやしく頭を下げ口を開いた。

「文遠様……
この龍英瑠、無礼を承知でお願い致します。
どうか……、どうか……
私で戦の熱をお鎮めくださいませ」

!?!?!?

張遼は耳を疑った。
すまぬ、もう一度言ってくれるかと告げれば、英瑠は心なしか赤らんだ顔をし決意の篭った眼を光らせながら、
「私は武人ゆえ、この身体で男性を満足させることが出来るかどうかはわかりません……
しかし、もしも、もしも我が身が文遠様のお役に立つことがあるのなら……
どうかこの身体、お好きになさってくださいませ……!」

「っ!?!?!?」

英瑠はしとやかな声でそう続けて、張遼の寝台にそっと近付いた。
彼女の唇には紅が引かれ、身体からは良い匂いの香が香り、薄い生地の衣は身体に張り付いてそのなめらかな曲線を浮かび上がらせていた。

「っ、待たれよ。英瑠殿……!
自分が何を申しているか、自覚はされているか」

「はい。
私の身が少しでも文遠様のお役に立てるなら、本望にございます」

彼女の、穏やかだが真剣な眼差しは、これが冗談などではないことを物語っていた。
張遼は唐突な展開に面食らい、何がどうなっているのか頭の中で推測しはじめる。
その間に英瑠は寝台のすぐ横まで接近し、膝を折ると、張遼に縋るような目を向けた。

「文遠様……」

戦場での彼女とは全く違ったしとやかな声色に、張遼は思わず彼女の肩に手を掛けつつも、冷静に口を開いた。

「何故このようなことを。
英瑠殿、一体どうされたのだ……!
訳を説明してもらいたい……!」

「……、将軍の殿方は、戦の熱で昂った身体を、女の身体で鎮めると聞きました……。
もし文遠様もそうなのであれば、恐れ多いとは思いながらも、是非私の身を使って欲しいと思ったのです」

英瑠は肩にかけられた張遼の手にそっと自らの手を重ね、目を伏せながらそう答えた。

「それは…………。

っ、しかし何故貴公が……!
貴公が何故、私に身を委ねようとされる……!
女人とはいえ英瑠殿は立派な将。
このような役目は求めておらぬ……!
一体誰の差し金でこのようなことを!!」

「私のことは気にならさないでくださいませ……!
誰に強いられたわけではありません、私自身の意思でございますゆえ……!」

英瑠は答えにならない答えを返しながら、寝台の上の張遼に寄り沿うように身を寄せた。


――英瑠とは長い付き合いだった。
苦しい戦況を共に戦い抜いたことも何度もある。
勝利に喜び、あるいは志を語り合い、二人で盃を交わしたこともある。
しかし年下で将としても後輩、位も下である彼女はいつだって節度を忘れず、一線を越えて来ることは無かったはずだ。

しかし、今日の彼女は違う。
何かを決意したように壁を自らで壊し、未踏の領域に踏み込んで来ている。

ゆえに。普段土埃と血に塗れ戟を振るっている女とは思えない英瑠の艶に、張遼もさすがにこのままではまずいと思い始めていた。

「答えになっておらぬ……!
英瑠殿、正直に答えられよ……!
誰かに強いられていることすら口止めされているのなら、そのような卑劣なやり方は断じて許してはおけん……!!
私が全力で守る故、安心して申されよ……!!」

張遼は、英瑠の両肩に置いた手に力を込め、強い調子で彼女に迫った。

その迫力に押されたのか、英瑠は涙を滲ませると、「申し訳ありません……」とこぼすのだった。


***********************


英瑠は罪悪感に駆られていた。
自分の行いを後悔した。
同時に、「全力で守る」と言った張遼の言葉に胸が熱くなるのを覚えた。

彼女は涙を堪え、それから、そっと胸の内を明かすのだった。

「わ、私は…………、
文遠様のことを、ずっとお慕いしておりました……
先程も申し上げた通り、殿方の……その、戦の折の、そういうお話を耳にして……
もし文遠様もそうなさるなら……、
恐れ多くも、私を相手にして下さればこれ以上の喜びはないと思い……
醜く浅ましい心から、このような用意までして、ここへ参ったのでございます……!

断じて、断じて誰かにやらされているわけではありません……!
それはどうか信じてくださいませ……!!
私の武人としての誇り全てを賭けて申し上げます。
どうか信じてくださいませ……!!」

張遼は言葉を失っていた。

それから、眼を閉じると、しばらく黙り込み、ゆっくり息を吐いた。

「文遠様……」

肩にかけられた手がゆっくりと離れていく。
手を重ねたところから伝わっていた張遼の温もりが失われ、英瑠は寂寥感を覚えた。

「英瑠殿……
そなたの気持ちは嬉しいとは思う。
しかし、このように男の欲を満たすためだけに身を捧げようとしてはならぬ。
もっと自分の身体を大切にされよ」

張遼は、諭すような、穏やかな口調でそう告げた。
戦場とは違う、ひたすら優しい声だった。

そう。英瑠はその声が好きだった。
戦場においては泣く子も黙ると言われるほど武も気迫も苛烈であるのに、こうして人として関わるときはいつだって誠実で紳士的なのだ。
据え膳に下心を向き出しにして食らいつく張文遠は、張文遠ではないのだ。

そんな当たり前の事実に、英瑠はようやく気付き、また涙を浮かべたのだった。


だが。

英瑠にも、退けないものがあった。

秘めに秘めた想いをさらけ出した以上、一縷の望みもないほど拒絶されるか、命を奪われるくらいでないと撤退するわけにはいかなかった。
それは、武人としての誇りに似ていた。

勿論、こんな暴論を、普段の彼女だったら貫き通しはしなかっただろう。

――しかし。しかし、である。

「……文遠様……、私に気を遣わずに、本心でお答えいただけると幸いに存じます……
私では、お手を伸ばす気にもなりませんでしょうか……?
もし私に魅力が無いのであれば、どうかそうおっしゃってくださいませ……!
そうおっしゃられるのであれば、私はこのまま去りましょう……!」

「…………、
英瑠殿…………
そなた、酔っておいでか?」

英瑠の顔は確かに赤らんでいた。
だが羞恥のためか酒のためかは、傍目からはわからないだろう。
しかし張遼には確信があるようだった。
英瑠と長い付き合いだからこそ気付いたのだった。

「酔ってなどおりません……と申し上げたいところですが、私の平素の勇気ではどうしてもこれを実行することが出来なかった為、とある方に相談したところ……、お酒を飲めば勇気が出ると教えていただきましたので」

英瑠に酒の効力を教えた女酒豪は、今日もふふ……という危うい笑みを浮かべていることだろう。
ついでに言うと、今英瑠が纏っている扇情的な衣も、とある詩人の才女がくれたものだ。
彼女は、これを着れば殿方はきっと手を伸ばさずにはいられないはずです、と言っていた。

「我を忘れるほどお酒を頂いたわけではありません。
ほんの少し、勇気が出ればと…………
文遠様、私では力不足ですか……?
とんだ無礼を申し上げているという自覚はあります。
もし答えるのも不快ということあれば、どうか、ここで私を斬り捨ててくださいませ。
しかし私の心は先程申した通りで相違ありません……!
……お慕いしております、文遠様……」

英瑠の双眸は真っ直ぐ張遼に向けられていた。
少し座っているその目は、思慕の念に身をやつす女の激情が篭っていた。
英瑠の物騒な発言に眉をひそめた張遼は、ややあって、ぽつりと口を開いた。

「……力不足だと。何を……。
今の英瑠殿に上目遣いをされたら、どんな男だって抗えぬであろう。
その姿、それでは武将だとは到底誰も思うまい。
それで陣中をここまで来たということを考えただけでも、私は身震いがする。
……もしそなたが、その顔を知らぬ気性の荒い兵に絡まれていたらどうなっていただろうと…!」

「その時は、名乗って皆にわかってもらいます」
「その姿では何を言っても信じてもらえぬだろう……!!
英瑠殿、そなたの気持ちは良くわかった。
しかし……、」

張遼が言い淀んだところで、英瑠は何かを決意したように拳を握り締めると、
「失礼します、」と言って靴を脱ぎ寝台に上がっていった。

「英瑠殿!」

戸惑うような張遼の声がそれを制止したものの、しかし彼も本気で怒ってはいないようだった。

英瑠の頭の中に、あの女酒豪の言葉が蘇る。
『鈍感な相手には、実力行使で挑むしかないわ……!!』
と。

英瑠は羞恥に唇を噛みながら、震えはじめる手で自らの帯を解き始めた。
心臓が狂ったように早鐘を打つ。
申し訳程度に煽った酒の効果など、微々たるものだった。
こうして行動に移してしまえば酔いなどたちどころに覚め、あとは流れに乗った勢いで進むしかないのだった。
初陣に似ている、などと火照る頭で考える。

「英瑠殿……!
私も男だ、そこまでされては引き下がれんぞ……!」
「はい……、元より、そのつもりで来ましたゆえ」

言い切ると、とうとう張遼が降参だというようにため息をついた。

「……英瑠殿がこれほど情熱的な方だったとは」
「お嫌いですか……?」
「いや。英瑠殿の気持ちにもっと早く気付いていれば、それほど苦しませることも無かったであろうにと考えただけだ。」

呆れるように口を開いた彼の声は、ひたすら優しいのだった。


「ところで英瑠殿……、そなた、手が震えているようだが本当にこれで良いのだな?」
「っ、……!
あ、申し訳ありません……!
初めてゆえ、緊張してしまって……
気持ちばかりが逸るばかりで、その」

「なに」

張遼の顔色が変わる。
帯を解いて肌を晒そうとする英瑠の手を押し止め、真剣な眼差しを英瑠に向けていた。

「そなた、初めてと申したか」
「えっ……、はい。
あっ、あの……、経験もないのにこんな役目を申し出てしまって……
お見苦しいところをお見せしてしまうかもしれませんが、その……」

「英瑠殿……!! そなたという方は…!」

張遼は手をわなわなと震わせると、ゆっくりと首を振った。

「このような行動に出るとは、それなりの経験があるのだろうとばかり思っていたが……
ならぬ……。女人の操を、このような場で捧げてはならぬ……!
御身を大切にされよ、英瑠殿……!!」

「文遠様」

そして、英瑠は今度こそ動けなくなり、やがてぽろぽろと涙をこぼした。

張文遠という男はどこまでも優しかった。

拒否されているのに、その拒否こそが優しさなのだった。
その思いやりに、英瑠はますます張遼への慕情を強くした。

そんな英瑠の様子を見て何かを悟ったのか、張遼がまた穏やかな口調で話しはじめた。

「英瑠殿……
私が先程からずっと、理性と戦っていることをご存じか……?」
「え……?」

「そなたの告白を聞いてから、英瑠殿をこの腕の中に抱きたくて堪らぬ……」
「で、では……!」

「しかし私は手荒な武人だ。
きっと英瑠殿を傷つけてしまうだろう。初めてというのなら尚更。
戦で昂った神経は、きっとそなたを手酷く扱ってしまう。
女人の初めての経験がそのようなものでは、きっと身も心も傷ついてしまわれよう。
ゆえにそなたを突き放した。
決して、そなたが力不足だからではない……わかってくれるか」

「はい」

英瑠はしっかりと頷いた。
張遼は、英瑠の涙を優しく指で拭うと、彼女をそっと抱き寄せ背中を撫でるのだった。

「英瑠殿……。
もはや理性が限界に近い。
どうかこのまま、自分の幕舎に戻ってはくれまいか。
信頼できる人間を呼んで安全に送らせよう。

もしこのまま、ここに残ると申すのなら……
どれほど涙を見せても抗っても、もはや朝まで返すつもりはない。それでも、」

張遼の最終通告を、英瑠は彼の唇に指を当ててそっと制した。

涙の止まった彼女は、抱き寄せられたまま張遼と目を合わせると、黙ってゆっくりと頷いた。

そして。
長い長い旅をようやく終えたような、満ち足りたような表情を浮かべた英瑠は、そのまま何かを待ち望むようにゆっくりと目を閉じるのだった――




戦は魏軍の勝利に終わった。
英瑠は翌朝こそ初めての経験で多少身体が軋んだが、それはすぐに消え、あとは平素通り将として立派に戦い抜いた。

あの時彼は手酷く扱ってしまうと言っていたが、戦場での痛みに慣れた英瑠にとっては別段耐えられないほどのものでもなかった。
比べる経験もないし夢中で詳しくは覚えていないが、彼は端々で英瑠をいたわってくれたように思うし、あれで手荒などと言ったら罰が当たるとさえ思えた。

戦いが終わったあと、英瑠はあらためて王異や蔡文姫や郭嘉にお礼をしに行った。
郭嘉は、「ずっと罪悪感に駆られて居たけど上手く言ったようで何より」と言っていたが、英瑠には何のことだかわからなかった。

彼女は、何故だか他の皆にもからかわれ。
首を傾げつつも、また顔を赤くしながら過ごすのだった。



やがて自宅に戻った彼女の元に、客が訪れる。
他でもない、あの日情を交わし合った張文遠その人であった。

「文遠様。あの時は、押しかけてしまい本当に申し訳ありませんでした……。
私の突然の無理を聞いてくださり、感謝しております……!
あの日の私はどうかしていました。
あのような無礼で無茶な行為を……
思い込むと周りが見えなくなってしまうのが私の欠点だと、改めて反省致しました……」

英瑠の懺悔に、張遼はわずかに眉を動かす。

「……後悔されているのか、『あれ』を、……」

「いえ。後悔はしておりません。
あの時告げた想いは全て今も変わらない本心でございます……!
しかし、私の一方的で勝手な気持ちの押し付けを、万一にも文遠様が気にされることがあっては申し訳ないと思い……
どうか、あの告白はお気になさらず……、もし可能であればこの身だけ、また戦の折にでも、使っていただければと……」

英瑠は顔を赤らめて、徐々に小声になりながら張遼にそう告げた。
最後のくだりはまるで都合の良い娼婦のようで張遼は眉をひそめたのだが、俯いていた英瑠はそれに気付かないのだった。

「……英瑠殿。
二度とそのような軽はずみなことを口にしないでいただきたい」

低い調子の張遼の声に、英瑠は弾かれたように顔を上げ、謝罪の言葉を口にしようと息を吸った。
しかし張遼は彼女に喋らせず、間髪入れず言葉を続ける。

「英瑠殿。
まずは謝らせて欲しい。
長い間そなたの気持ちに気付かなかった事……、
そしてそれ故に、あのような無茶な行動を決意させてしまった事を」

「……っ」

「そして礼を言わせて欲しい。
それほど私のことを想い続けていてくれた事。
酒を煽るほど勇気が要る行為にも関わらず、その身を私に捧げてくれた事」

「文遠様……」

「しかし。
二度とあのような無茶はしないでいただきたい。
先程申した、自らを娼婦のように卑下される物言いもだ。
……いや、させぬ。
もう二度とそなたに辛い想いも、あのような無茶もさせぬ。
この張文遠が側に居るからだ」

張遼は強い調子で真っ直ぐ一気にまくし立てた。
英瑠は目を見開いて言葉を失っていた。

英瑠の視線と張遼の真剣な眼差しが交差する。

ややあって。

「……英瑠殿。
これは同情や責任感などではないと先に言っておく。

英瑠殿。
どうか私の妻になっていただきたい」


英瑠は唇をわななかせ、涙をこぼした。
ようやく実った幸せの涙だった。

遠慮と恐縮からまた後ずさろうとする彼女を、逃がさないというように張遼の腕が捕らえ、そのまま抱きしめていた。
一旦は躊躇した英瑠も、これが夢などではないことをようやく悟り、そして……

力強く、張遼を抱きしめ返したのだった。



こうして。
のちに婚儀が行われ、晴れて夫婦となった二人は、並んで戦場に立ち続けるのだった――





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