3.父との別れ



武芸の道場に英瑠が入ることになった時、道場の面々はまず、女が来るということに驚いた。

そして次に、彼女が役人の娘で、およそ武芸などとは無縁な女性らしい体つきをしていることに驚いた。

彼らは、男と見間違うくらいの厳つい大女か、山猿のような顔の醜女が来るかと思っていたからだ。

そして、おいおい好奇心旺盛なお嬢様の冷やかしかと、本当のお嬢様ならわざわざ道場まで出向く必要もないのだということに思い至らなかった門下生の一人が、師範の許しを得て英瑠と木刀で立ち会った時に、一同はまた驚く羽目になった。

細腕で構えた、型も何もなっていない彼女の木刀。
それを吹っ飛ばしてやろうと青年が力を込めて振り下ろした太刀筋は、全て力と反射だけで英瑠に受け止められ、驚愕した次の瞬間には、彼女の振りかぶった木刀によって、きちんと受け止めたにも関わらず男の体が木刀ごと吹っ飛ばされていた。

一同が驚愕を通りこして放心する中、同じく硬直していた師範までもが、震える声でぽつりと、
「技術は未熟。力は問題なし。
しかし手足の短さだけはどうしようもないから、剣よりも重い長物を振った方が突破力を得られるやも」
などとやたらと冷静な意見を述べたのを、門下生は誰も聞いてはいなかったのだった。

以来英瑠は、この道場で腕を磨いていくことになる。

彼女の腕に惚れこんだ門下生のいくばくかは、のちに彼女の下で武を振るうことになるのだが、それはさておき。




とある冬。

ここのところ体調を崩し政務を休むことが多くなっていた英瑠の父親が、とうとう病を得て役人を辞し、床に臥した。

彼は家族を枕元に呼び寄せ、家長を長男である英瑠の弟に定め、遺った者たちに後事を託した。

歳若いながらも官吏の試験に受かり、まずは見習いとして中央への赴任が決まっていた長男は、中央へは行かず父の元に残ると言ったが、彼はそれを諌め、一族の繁栄を願って出世の道を歩むことを長男に望んだ。

そして後妻と次男には、長男を支えるようにと念押しすると、最後に英瑠を呼んだ。


「父様……、
今までの勝手な行い、数々の無礼、本当に申し訳なく思っております……!
私が女の身でありながら武への憧憬を捨てられず、粗暴に振る舞ってきた結果……、
父様に余計な気苦労を与え、このようなことに……!!」

英瑠は深々と父親に頭を下げ、床に額を付けたまま涙声で訴えた。

「琉、頭を上げなさい。
わしはお前に言っておかねばならないことがある。
他でもない、お前を産んだ母親のことだ」

「っ……!!!」


父親が病床から語った英瑠の実母の話は、彼女をこの上なく驚愕させるものだった。




その昔。

まだ若かった男は、一人の若い女と出会った。
やがて恋に落ちた男は、女に妻になって欲しいと望んだ。

女の家柄についてはよく知らなかったが、男はそれなりに良い家に生まれたし、中央文官という立場と、将来有望とされる才知もあった。

しかし女は寂しげな顔でそれを拒み、そっと男に告げたのだった。

自分は人間ではないと。
神仙、妖魔、何と呼んでくれても良い。しかし人ではない。
長すぎる生と自らの世界に飽いて、気まぐれで人の世で暮らしているだけだと。

人の世で暮らし、貴方に出会い、愛した気持ちは本当だ。
離れることは身を裂かれるより辛い。

しかし当然人の世に親は無い。本当の名さえ明かせない。
名を知られたら元の世界に帰らねばならない。
人との間に子を成せるかすらわからない。
だから自分のことは忘れて欲しい、と。
涙を浮かべて。

男は驚いた。
そして悩んだ。

長男ではないとはいえ、それなりの家柄も立場もある身。
たとえ側室であったとしても、そのような得体の知れない女を娶るなど、一族の者が許さないだろう。

しかしいま女と離れるなど、出来ようもない。
それほど深く、女を愛してしまった。

だから男は捨てた。
家柄も、出世の道も。
何ものも要らぬから、側に居てくれと女に請うた。

女は、後悔されますよと釘を刺しながらも、男の愛を受け入れた。


そして男は一族から見放され、自らで蓄えた財だけを持って地方に移り住んだ。

男の才を知っている者の口添えでどうにか職だけは失わずに済み、女と二人ひっそりと暮らした。


やがて、女に子が出来た。

人との間に子が生まれたことに人ではない女は驚き、運命の許す限りこの女児を人として育て愛していくと誓った。


しかし幸せは長く続かなかった。

女の本来在るべき世界の使者が、女を連れ戻しにやってきたのだ。

女は拒んだが、ならば人との間に生まれた子を差し出せと言われた。
女はそれも拒んだ。


使者は一旦去り、姿を変えて老人に成ると、女の居ない間に男を訪ねてきた。

自分は別の世界からやってきた女の父親だと。
孫の顔を見せて欲しいと。

何も彼も知らない男が老人を招き入れ女児の顔を見せてやると、老人は談笑の中で男に告げた。

男の妻である、人ではない女の本当の名を。

男は、その名には聞き覚えがあるような、無いようなと呑気に記憶を探った。

だが、男は一番肝心なことを忘れてしまっていたのだ。
かつて、名を知られてはならないと女に言われたことを。

そして呟くように、今は妻である女の名を口にしてしまった。
ちょうど家に帰ってきた女が、それを聞いてしまうとも知らずに。


――かくして老人は使者に戻り、女は涙を浮かべ、人である夫に別れを告げた。

使者に与えられた最後の時間に、男は妻を引き止め、謝罪し、許しを請うた。

しかし女は、悪いのは貴方ではないと告げ、全ては世の理を無視し人の世に居着いた自分が悪いと言った。

たとえ名を知られなくとも、いつかはこうなっていたことだろう。
数年ばかりだが、愛した人と共に過ごせて幸せだった。
遺していく子供が忍びないが、どうかこの子は人として育てて欲しい。
人ならざる力を発揮するなら、勝手な願いだが、どうか正しい方向に導いてやって欲しい、と……。

そうして女は元の世界に帰り、残された男はまだ幼く母が去ったことさえ知らない娘を育てていくと誓った。

周りには妻は病没したと告げ、ならば娘には母親が必要だと諭され、後添いを娶って。

後妻となる女は子が出来ないまま最初の夫に先立たれた為実家に戻っていた女で、裕福な家の出だったため、以降の暮らしは楽になった。

その繋がりで、一度は離れた一族との間に再び交流を持つことも出来た。
後妻との間には息子も二人産まれた。



英瑠の父親は、そこまで話すと、彼女に告げた。

「もうわかっていると思うが、この女児がお前だ。
あとは、お前の知っている通りだ」
と――


英瑠は黙っていた。

雷に打たれたような衝撃だった。

母親が人間ではなく、半人半妖の噂が本当だったことではない。

母親が生きたまま、愛した夫と産んだ子供と別れたこと。そうするしかなかったこと。
母親はきっと、夫と子供を守るためそうしたのだろうということ。

そして、ともすれば非難されかねないような悲憤に彩られた過去を、父親が打ち明けてくれたこと。

さらに何より、母親と父親の想いを知らず、人ならざる力を勝手気ままに振るったこと。

とめどなく涙が溢れ、一言も発することも出来ず、英瑠はただ全ての運命と両親に想いを馳せ、ただただ心を震わせていた。


「すまない……。
今まで黙っていたことを、心から申し訳なく思っている……。

そして、お前から母親を奪ってしまったこともだ。
彼女がわしの元を去ることになったのは、他でもないわしの不注意が原因。
それを今でも悔いている。
たとえ彼女に、それを否定されようともだ。

そして、のちに娶った妻が、お前に辛く当たってしまったことも、重ね重ね申し訳なく思っている」

「それは……、そんなことは……!」

「英瑠。よく聞いて欲しい。
人ではない子と言われ、嫌な思いをしたことも沢山あっただろう。
その時に本当のことを言っていれば、もしかしたらお前の心はもっと軽くなっていたかもしれないとは思う。

しかし……、お前にはただ、人として生きて欲しかった。
自分は人ではないのだと力に溺れ、自暴自棄になって欲しくはなかった。

どうかこの父を許して欲しい……、
そして、お前はわしと彼女の望み通り、人の心を持って育った。
たとえどのような力を持っていようと、お前はまぎれもなく人間だ。

もっとも……、人間の女子おなごらしく、武器など振るわず平穏に慎ましく……とは行かなかったがな。
しかし、この乱世で武を振るい己が道を切り開くというなら、それもまた人の道。
普通の女子の道とは違うが、武を極めたいと思うのならこのような狭い土地に留まらず、有力な士に仕官し未来を見据えるのだ。

なぁに、家のことは心配いらん。
後妻あれはお前にとっては褒められた母親でなかったかもしれんが、息子二人は立派に育て上げた。
ここだけの話だが、実家の財も申し分なく、乱世の中にあっても上手く生きていけるだろう。

だからお前は、お前の望むまま、人の心を以て思うがまま生きよ。
それが、この、女一人守れなかった、平凡で臆病な父親の……
最期の望みだ」

「父様……!!」

英瑠は肩を震わせながら、父の床に縋り付いて泣き続けた。

「お前は……、力はあっても、心は優しい女子だな。
お前が普段は些細なことで涙ぐむことを、わしは知っているぞ。
戦場では涙は禁物だぞ。

……もっとも、武器を手にすればそのような感傷も一切忘れてしまうのがお前だろうが」

誰よりも英瑠のことをよく知っていた父親は、自分に縋り付いて泣き腫らす娘を名残惜しそうな眼で眺めていた。

まるで、その姿を網膜に焼き付けるように。



英瑠の父親が亡くなったのは、それから少し経った後だった。



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