「えーっと……、紹介するね。元彼の坂城大海君」
「どうも」

 たどたどしく紡がれた波音の言葉に、俺はただ苦笑いを返すしかなかった。





 波音は学校でも自分を偽らなくなり、その極端な変わりように学校中が激震した。

 それらのことは波音の魅力を知ってる俺と佳南にとっては鼻高々ではあったのだが、やはりそうなると当然、

「――す、好きです!」
「うん、ありがとう」

 もてるようにもなってくるものだ。
 当然、俺だって何もしてなかったわけじゃない。
 何気なくを装いながら波音と付き合っていることをアピールし、男子を近づけないようにした。
 そんな日々を送っていたものだから、『過去』の脅威に全くと言っていいほど無防備だった。
 元カノという存在が今となってはいない俺にとって、前の彼氏という存在は完全に耐性がなかったのである。

 故に、

「久しぶりだね、ヒロ君」
「おーす、お前も元気そうだなー」
「そう見える? ふふ」

 ――ああ、なんだろう、この腹立つ会話は。

 自らの彼女と仲良さげに話す二歳下の男子を大人げなく睨んでしまったのは、大目に見てもらおうか。





「……凛、嫉妬してたでしょ」
「してないよ。別に」
「えー、本当?」

 炎天下の下、元彼である坂城君と別れた私たちは公園にあるベンチに座ってアイスを食べていた。
 今日、本当に偶然ばったり坂城君に会った私は、ふとあることに気が付いて凛を呼んだのだ。
 何ともないような顔でアイスを頬張っている凛をちらりと見る。
 まあ、それも失敗したんだけど。
 付き合ってから一年くらいたつけど、彼は年上ということもあるのかやはり余裕満々で、焦ったりすることがない。
 そんな彼にヤキモチを妬いてほしいと思うのは当然のことだろう。

 だから、彼を呼んだのだが……。

『紹介するね。元彼の坂城大海君』
『どうも』
『はじめまして。日向凛です』

 大した動揺も顔に出さず、笑顔で受け答えする彼に、私のちょっとした計画は見事に失敗した。
 ぶすっとして俯く私に、凛が気づいて話しかけてくる。

「どうしたの?」
「凛ってさ……」
「うん?」
「本当に私のこと好きなの?」

 言ってから、しまったと思った。
 普通のカップルの場合は、この会話はいちゃついてるだけに入るんだろうけど、私がそういう時、彼は言葉に自虐が入っていることに気づいている。
 予想通り、彼は私を睨みつけてきた。

「なんでそんなこと聞くの?」
「だ、だって……」

 ――嫉妬とか、ヤキモチとか、全然しないじゃない!!
 なんて叫びたい気持ちをこらえて、私は唇を尖らす。

「ごめん」
「…………」

 謝っても機嫌が悪くなってしまった彼に縮こまる。
 私がそれこそが望んでいた『嫉妬』なのだと気づけないまま、彼は立ち上がった。

「用事は済んだ?」
「あ、うん……」
「じゃあ俺帰るね」
「え?」

 呆然としてるうちに帰ってしまった凛に、いよいよ本格的に悲しくなってくる。
 しばらくそこで落ち込んでから、私はよしと立ち上がった。

 ――凛にヤキモチを妬かせる計画を立てよう!!

 私は闘志に燃えていた。





「ねえ、最近波音の様子おかしくない?」

 どうしようもなくて佳南に相談したのは、俺が相当参っている証だと思う。
 図書室で、佳南は俺の衰弱した姿を、訝し気に見つめた。

「それが相談? んー、確かにおかしいかも」

 佳南はそう言って、少し悩み始めた。
 それに、俺はため息を吐く。

 坂城を紹介された日から、俺は何故か波音に遠ざけられるようになった。
 本当に意味が分からない。
 一緒に帰ろうと言っても断られ、週末どこか行こうという誘いに耳も貸さない。
 しまいには、

「いつも私と話しててもずっとスマホ気にしてるし、放課後も急いで家帰るし、確かに最近波音の様子おかしいわね」

 そうやって首を傾げた佳南に、疑いが確信に変わる。

「――浮気だ」
「はぁ? 波音に限って……」

 あからさまに眉を寄せる佳南に、俺は頭を抱えた。

「おかしいだろ! 元彼紹介してからだよ!?」
「そうだけど……、とにかく、それは絶対ないって」

 言い切る佳南に、俺もうなだれる。確かに、波音に限ってそんなこと……

 いや、でも……。

 唸る俺を、佳南は心配そうに見た。

「凛も相当やばいよ?」
「俺が?」
「うん。ていうか、ちゃんと波音を信じてあげなさいよね」
「……それはもちろん」
「じゃないと……あんたが弱みにつけこまれるわよ」
「弱み?」

 どういう意味かと聞こうとしたとき、予鈴のチャイムが鳴って、座っていた佳南が立ち上がった。

「じゃあ、私たちのクラスは次移動だから」
「あ、うん。ありがとう」
「どういたしまして」

 軽やかに去って行った佳南を見て、俺も教室に戻ろうと立ち上がった。
 人気のなくなった図書室を出たときに、廊下で聞き覚えのある声がして、俺は咄嗟にドアに隠れた。

「――うん。そう、帰りは多分五時くらいかな。え? 迎えに来てくれるの? うん、うれしい。ありがとう」

 ――なんだよその会話は。

 波音が電話で誰かと話しているのにぐつぐつと怒りがわいてくる。
 それでもそこから出られないのは、こういう場面に出くわしたことがなく、本人に直接聞く勇気ないからだ。

 ――くそ、まじかよ俺……。浮気とかされたことなかったし、確かめる方法とかもわかんねーよ。

 耐性がない。本当に、俺が過去いかにもてはやされていたかを実感した。
 通話を終えて、その場を去ったのだろう。気づいたときには周りには人がいなくなっていて、俺は頭を掻きむしった。
 そうしていると、もう一度チャイムが鳴って、俺は呆然とした。

 ――やばい、授業始まった。

「行きたくねー」

 前の高校ではしょっちゅうさぼっていた授業も、この高校に来てからはそうもいかなくなっていた。

『ちゃんと授業でないと、ついてけなくなるよ』

 そう言った、彼女の顔がよみがえる。
 ため息を吐いて、俺は図書室を出た。
 しょうがないので、具合が悪いということにして保健室へ向かった。

 保健室には、誰もいなかった。
 どうやら教師も出払っているらしい。
 蒼一高校は、保健室など生徒のたまり場だったが、もちろんこの学校ではそんなこともなく、清潔感溢れる雰囲気にほっと一息ついた。
 ごろんと、横になると、眠気が襲ってきて瞼が自然に閉じていった。





「――凛、凛!!」

 綺麗に通る良く澄んだ声に、俺は目を覚ました。
 伸びをして起き上がると、腰に手を当てて呆れている佳南が視界に入った。

「やばい、寝すぎた……」
「別にいいんじゃない? たまには。……で、凛さ……」

 霞む目をこすりながら立ち上がる凛に、佳南は何かを言い辛そうに口をもごもごとさせた。

「そういえば佳南はなんでここに?」

 その彼女の不自然な様子に首を傾げながら聞くと、佳南は気まずそうに俺の後ろにあるベットを指さした。
 つられて俺も振り向いてから、俺にびりっと背筋がしびれるような感覚が襲った。

「波音体育で少し怪我しちゃって、私が付き添ったんだけど……波音、相当怒ってたよ?」

 それを聞いて、俺は頭を抑えた。
 眉を下げる佳南は俺が寝ていたベットに近づいて、いつの間にか俺の隣に寝ていた“少女”をゆすり起こした。
 少女は体を起こすと、俺たちを見渡して、顔を真っ赤にした。

「あ、私……」
「貴方、一年生よね。他のベット普通に空いてるけど……。具合でも悪いの?」

 佳南が睨みながら問うと、少女はもじもじと言葉を詰まらせた。

「ち、違うんです……っ、私、ずっと日向先輩のことが好きで……保健室に行くのを見て……その……」
「…………」

 彼女の、今の状況では一番言ってほしくなかった言葉を聞いて、俺は顔をひきつらせた。
 少女はあわあわと俺たちを見渡すが、佳南の睨みにたえきれずに、一回頭を下げて保健室を出て行った。

「……どうしたらいいと思う?」

 かすれた声で聴いた俺に、佳南は懐かしい鋭い視線を窓に投げて言った。

「さぁ。でも早く追いかけないと…………取られちゃうかもよ?」

 ウインクして言った佳南の言葉に、俺は保健室を飛び出した。





 ――本当、ありえない!!

 私は坂城君と待ち合わせしている校門でスマホを握りしめながらさっき見た光景を思い出していた。
 苛立ちに自然と眉間にしわが寄る。
 確かに、ヤキモチをさせようと必死だったのは認めるが、だからと言って他の女の子を保健室に連れ込むことはないじゃないか。
 怒りに何度目かの溜息を吐いていると、黒いバイクが私の前に止まった。

「よぉ、波音」
「私のことは柏月って呼んでって言ってるでしょ!」
「ご、ごめん。てかなんでそんな怒ってるんだよ」

 自分から呼んだくせに理不尽に怒る私に、坂城君は頭を掻いた。ぶすっとしたまま、私は彼の元へ近づいた。
 坂城君にはもちろんすべて話している。私の目元に浮かぶ涙に気づいた彼は首を傾げて私の頬へ手を伸ばした。

「――触んな」

 低い声が私の後ろから聞こえて、坂城君がぱっと手を放した。
 私はゆっくりと振り返る。
 凛は焦ったように私の元に駆け寄ると、私と坂城君を引き離した。

「何?」
「波音、聞いてくれ。あれは違くて」
「ふざけないで! 凛は私がちょっと男子と仲良くすると女の子に手を出すの!?」
「手なんか出してないし、元はと言えば、」
「私のせいだっていうの!? 私はただ、ただ凛に…………もういい」

 唇を噛みしめた。
 そうだ、本当はわかってる。私がただめんどくさい奴だなんてこと。
 それでも、この感情は抑えられなくて。
 どうしようもなく、自分の醜い心にがっかりした。
 それ以上その場にいたくなくて、私は走り去った。

 凛たちは、追ってこなかった。









「――俺、柏月には借りがあるんすよ」
「借り?」

 近くにあった自動販売機で悠々とジュースを飲みながら坂城は言った。
 見たところ俺を茶化しているように見えるそれも、今から話すことについての動揺を抑えるためのようだ。
 手が若干震えている。

「ああでも、借りっていうのは綺麗すぎるかな。……柏月と別れる原因になったのって、俺が彼女のお姉さん好きになったからなんすよ」
「――――は?」

 あまりにも簡潔に言った彼に、俺は言葉を失った。
 姉って、紗音のことか? 何言ってんだこいつ……。

「今、頭おかしいって思ったっしょ。俺もあの時はどうかしてたんですけど……。そのこと柏月に伝えてから……」

 彼が言葉を言い終わらないうちに、俺は衝動を抑えられず彼を思いっきり殴っていた――否、本気ではない。

 ――もし、本当に波音がこいつのことを今でも好きなのであれば。

 殴る寸前力を弱めてしまったことに舌打ちし、俺は壁を蹴った。
 坂城はよろけると、少しだけ赤くなった頬を抑えてにへらと笑った。

「まだ最後まで言ってないじゃねえすか」
「うるせぇよ……、てめぇよくそんなこと俺の前で言えたな」

 むしゃくしゃした感情が積み重なり頭を掻きむしる俺に、坂城がははっと笑った。

「なんだよ」
「そうっすよね。柏月もこの話言うとあんたは絶対怒るから言わない方がいいって言われたんすけど……」
「波音が……」
「なんかあんたに、ヤキモチしてほしいみたいだったんすよ」

 思わぬ言葉にばっと顔を上げる。

「ヤキモチ? そんなの……」

 必要すぎるほど妬いてたはずだ。でも、そうか……

「もうちょっと顔に出した方がいいっすよ」
「…………」

 本当に余計なお世話だ。だが確かに、俺はあまり表情を顔に出す方ではない。

「じゃあ、波音はお前を利用して俺にヤキモチを妬かせたかったと」
「ちょ、利用って嫌な言い方止めてくださいよ……。でもまあ、要約すればそうです」

 彼の言葉を聞いて、俺ははぁとため息を吐いた。
 本当に心臓に悪い。
 とりあえず一安心して俺も缶コーヒーを買う。
 坂城は不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。

「……これからどうするんすか?」
「別にどうもしないけど」
「へ? でも、波音さっきめっちゃ怒ってましたやん」
「追うなってお前が言ったんだろ」
「あ、ま、そうですけど……」

 坂城が戸惑って目を泳がすのに、俺はははっと笑う。

「俺が浮気してるなんて波音は疑ってないよ。多分、今日は俺の家来ると思う」

 そう言い切って俺は呆然としてる坂城を置いてその場を後にした。





 波音と俺の間に何もないと知った途端、雰囲気がガラリと変わった長身とイケメンの後姿を俺は呆然と見つめていた。
 俺が波音に協力したのは、以前彼女を泣かせてしまったことへの罪悪感からだった。

 『――俺、紗音さんが』
 『ヒロ君……? 何言って』
 『ごめん、俺、君のことを、もう君としてみれない。別れよう』

 泣かせると思っていて、わかっていて、俺はそう彼女に告げた。
 別れたことにお互い後悔はしてないが、もうちょっと言い方を変えればよかったという想いは常に抱いている。
 波音の目的は、ただただ、いつも飄々として気持ちがわからない今の彼氏を嫉妬させたいということだった。

 最初は、明らかだった。
 波音と親しくする俺を彼は人を殺すかのような目で睨んできた。
 完全に波音の作戦は成功しているのだが、彼女自身はそうは思わなかったらしい。
 彼女の行動はエスカレートした……らしい。
 俺と一緒に遊びに行ったふりをしたり(実際は俺とは会ってない)、相手の誘いをすべて断ったり。
 聞くだけで相手側がかわいそうになるくらいのことをし、元カノながらさすがに恐ろしい女だと思う。

 だが……

「あいつもあいつで……」

 俺は空になったペットボトルを捨てて、バイクにまたがった。





 チャイムが鳴って玄関まで行くと、恐ろしい形相をして俺を睨みつけている波音が立っていた。
 ふっと安堵の息を吐く。来てくれてよかったという思いを隠して、涙目で俺を睨む波音に微笑んだ。

「どうしたの?」
「…………」

 挑発的に笑う俺に、波音は歯を食い占めると、一歩歩みよった。
 それによって一歩下がった俺の腕を掴むと、彼女は空いている手のひらを高く掲げた。

 ――パン

 乾いた音がその場に響いて、呆然とする俺に、波音は唇を引き結んだ。

「そういうとこ……嫌」
「…………」

 波音は俺の胸に頬を寄せると、背に腕を回した。

「なんでもかんでも隠すとこ、すごく嫌」
「…………」

 彼女の本心からの言葉に、俺は言葉を詰まらせた。
 彼女こそ、という言葉を押し込めて、俺は謝ろうと口を開いた。
 波音の充血した目から涙が一筋流れた。止めなければならない。そのために、

「お前だって……」

 ――普段言わない言葉が漏れた。

 弱々しく出たそれは、波音の濡れた眼を大きくさせた。

「お前だって、本当のこと言わないだろーが」

 それは、俺にとって『かっこ悪い言葉』であった。


 『お母さん』
 『……うるさい』
 『お母さん、泣かないで』
 『うるさい』
 『俺が、ずっと笑ってるから』
 『…………』
 『だから、泣かないで』


 目も合わせられない俺に、くすりと、笑う声がした。
 頬に冷たい感触が触れる。
 波音の手が俺の両頬を包み込んで、微笑んだ。

「……凛、かわいい〜」
「え?」
「ふふっ、ふふっ」

 あーもう……意味が分からない。

「別に、可愛くはないだろ」

 そう言った俺に、波音は楽しそうにくすくすと笑う。
 その嬉しそうな表情に、思わず俺も笑ってしまった。





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