「誰かを……好きになったことなんてなかった」

 ――あなたは、いつもそうやって儚く笑っていたね。





 私が彼にあったのは、本当に偶然のことだった。

「――大丈夫ですか?」

 暗闇の中の道路の隅にボロボロになって倒れている青年に私は声をかけた。
 “運命”というには、それはあまりにも唐突すぎた。

「…………」
「――!」

 彼がもぞもぞと動いて顔を向けた途端、私はまるで雷にでも打たれたかのような衝撃が体を突き抜けた。
 その時の彼の顔は、正直見てられなかった。
 傷だらけで、生気のかけらもなくて、顔はかっこいいんだろうけど、敵意むき出しの鋭い眼光が整ったその顔を台無しにしていた。

「……誰だよ、お前」
「……それはこっちの台詞だよ。そんな傷だらけで、喧嘩でもしてたの?」

 肩を貸して立ち上がらせると、彼はうめき声をあげて、ごほごほと咳き込んだ。
 相当傷を負っているのだろうが、とにかくここでは話をすることもできない。
 歩き出すと、彼は少しだけ私に目を向けて口を開いた。

「……お前、」
「お前って言わないで。私の名前はサネ」
「――サネ、ここが危険区域のなかってことわかってるのかよ」

 静かに紡がれた言葉に、私は足を止めた。
 その質問には答えずに、また歩き出す。

「この服、睡蓮のでしょ」
「…………」
「私のこと誰かわかってるの?」
「……一目でわかったよ。紫蘭の姫様」
「……そ、良かった。結構知名度あるんだ、私って」

 それきり話は切れて、私は彼を知り合いの家に運び込んだ。





「――凛」
「……また来たの」

 その日から、私はなぜか、彼の家に遊びに行くようになった。
 彼は仲間内でもめていたらしい。そのせいで彼が睡蓮と疎遠になってる少しの間に、私たちはより深く仲を深めていった。

 迷惑そうな凛を席に座らせ、腕をまくって料理をふるまう。

「う……、紗音は本当に料理が下手だな……」
「しょうがないじゃん。妹の方がご飯おいしいんだもん」

 私が作ったオムライスを彼は苦々しく見つめた。
 言われなくても、痛いほど彼の心情がよくわかる。

「たまには女の子の手料理が食べたい」
「…………」
「って思ってるんでしょ」
「…………」

 目を泳がせた凛に少し笑って、私は彼の近くによる。

「ふふっ、残念。凛が私といる限り、おいしいご飯食べれないよ」
「それは自慢することじゃないだろ……。少しは頑張ってみてよ」
「やだ。っていうか、そんなに料理上手な子がいいなら私と付き合わないでよ」
「…………」

 黙り込んでしまった凛に、はっと口を抑える。
 彼は悲しそうに微笑むと、まだ食べかけのオムライスを残して席を立った。

「俺と君は、付き合ってないよ」
「……っ。わかってるよ。でも、私は凛のこと好きなの。凛は違うの?」

 いつもの問いかけ。いつもの確認。
 私は彼に依存していた。そうでもないと、やっていけなかった。
 彼は薄い笑みのまま視線をこちらへ向けると、ぽつりと寂しく呟いた。

「誰かを……好きになったことなんてなかった」

 ――気づいたら、私は彼の腕の中にいた。

 この関係が、間違ってるだなんて思わない。

 例え、家族や仲間、友人を裏切っていても、
 例え、私が近づくことで彼を深く傷つけていても、
 例え、それら全部をわかっていて、進むたびに、心が擦り切れていくのだとしても。

 私は、この、小さな小さなかわいそうな少年を、ちっぽけな腕で抱きしめてあげたかった。


「なんで?」
「俺は嫌われてたから、ずっと」
「そんなの、みんなそうだよ」
「…………」
「みんな、心の中では誰かを蔑みながら生きてるの。そうじゃないといられないの」
「俺は……」
「凛は、私だけ見てればいいよ。私も、凛だけ見るから」

 だからお願い。そんな寂しい顔しないで。

 私はずっとプレッシャーの中に生きている。

 仲間からの依存、母からの愛情、妹からの羨望。
 皆のことが好きだった。
 だからこそ、どれもこれもが強すぎて、弱い私は、支えきれなかった。
 がらがらと心が崩れ落ちていく感覚に日々苛まれていて。

 もう、いいかなって。

 あの日、あの人と出会った日に、私はすべてを投げ捨てるつもりだった。
 だけど、貴方はそんな私に、夢をくれた。

 ――なんで、あの日、何もかもを捨てた私は、貴方に出会ったんだろう。

 少しの間だと知っていても、私は幸せだった。

 大好きな人。
 愛してる人。
 私の『死ぬ場所』を変えた人。
 私に温かさを教えてくれた人。
 どうか、幸せになってください。
 どうか、笑顔で毎日を生きてください。

 私はずっと、あなたの幸せを心から願ってる。

 愛してくれて、ありがとう。



 ――私は頭から流れる血を感じながら、静かに目を瞑った。







「――申し訳ございませんでした……!」

 地に額をこすりつけて、私の母にそう謝る彼の姿を私はじっと見つめた。
 それを止めることは私にもできなかった。資格もなかった。
 母さんはしばらく彼を見て、深く目を瞑るとしゃがんで彼の肩に手を当てた。

「頭を上げて……」
「…………」

 ゆっくり顔を上げる彼の額に、母さんは自分の額をくっつけた。
 目を見張る私の前で、母さんは凛の頭を抱え込む。
 彼女はまるで我が子を抱くように、愛しげに凛を見つめた。

「やっと会えたね……」
「お義母、さん……?」

 涙ながらに呟いた母さんに、凛の手が震えた。不思議そうにじっと目を見る彼に、母さんはふっと、笑った。それは、自虐の笑みのようだった。

「貴方に言わなきゃいけないことがあるの」

 私に目を向ける。

「波音にも」
「え……」
「私の、母親としての罪と、紗音の覚悟を」

 母さんはそう言って、私たちの前に一つの白い封筒を差し出した。





 お母さんと波音へ。


 最初に一番伝えようと思います。
 今まで本当にありがとうございました。

 お母さん、お父さんが死んでしまって、一人で私たちのこと育ててくれて、本当にありがとう。
 波音、あなたは私の自慢の妹でした。
 本当に、二人とも大好き。――大好きだったから、本当のこと、言えなかった。

 ずっと抱えてた想いを、伝えられずに自殺したことをお許しください。

 二人とも、私のことを何でもできるって思っていたけど、私はそんな完璧超人じゃない。
 料理はできないし、好き嫌いだって本当はいっぱいある。
 でも、そんなこと言えなかった。
 みんなからの期待の目が、私に私を作らせた。
 責めてるんじゃないよ。
 これは、私が弱いことがいけなかった。……もう、耐えられなかったの。ごめんね。

 二人とも、天国のお父さんも、本当に本当に大好きだったよ。

 これからは、私のことはもう忘れて欲しい。
 忘れて、幸せに生きてください。

 あと、波音。
 私はできなかったことだけれど、凌空を助けてあげてほしい。
 あの人も、私と同じ、とても弱い人だから。
 あなたにならできるよ。

 みんなのこと、大好きだった。

 でもそれと同じくらい…………



 ――そこで、手紙は途切れていた。

 私はその手紙を何も言えずに見つめていた。
 予想外の出来事に頭が付いていかない。

「これは……」

 凛が震える声で母さんに聞いた。
 母さんは目を瞑って答えた。

「紗音は……おそらくあなたに会う前でしょうね。自殺を考えていた。この遺書を置いて、家出をしたの」
「そんな……じゃあ、姉さんは、私たちのせいで……」
「波音、落ち着いて。貴方が取り乱すと思ったから、この手紙は見せなかったけど、今の貴方だったら大丈夫だと思ったから、見せたの」
「…………」

 息を呑む私に、母さんは微笑んだ。
 ぐるぐると回りだした物理的な吐き気が胸の中にたまっていく。

「紗音は周りからの期待に耐えられなかった。私達には、そんな弱みは一切見せなかったわ。だから貴方は何も悪くない。ただお姉ちゃんに憧れていただけじゃない。悪いのは、私と紗音」

 自虐の笑みでそういう母さんに、私と凛は何も言えなかった。
 母さんは次に凛を見た。静かな声で、彼に告げる。

「でもね、そんな紗音を救ってくれたのが貴方だった。事実、貴方に会って、紗音は自殺を止めた」
「俺は、そんな大層なことは……。紗音、さんは、僕を助けてくれたんです。僕が抱えている闇を、柔らかく包んで、守ってくれた。彼女は、彼女は……」

 耐え切れず、涙を流す凛に、私も思わず泣いてしまう。
 「なんで」という想いが体中いっぱいに満ちていった。
 今更思っても仕方がないのに。
 自らを責める母と、彼女のいないことを嘆く凛の姿を見て、何かできなかったのかと、私は……

「ありがとう。凛君。紗音を救ってくれて。私には、できなかったことだから……」

 そうやって儚く笑った母さんに、私はやっぱり、何も言うことができなかった。
 凛は、深く、深く頭を下げた。





 母さんの言葉で、凛は私達と共に夕食を食べることとなった。
 私と母さんがテレビを見て話をしている中、凛はじっと汗をかいてご飯を食べていた。
 手紙のことを気にしているのだろうか。
 いつもの彼らしくない様子に、心配して彼の背に手を当てると、凛は私を見てふっと笑った。
 その何かの覚悟を決めたような顔により心配になる。
 彼は箸をおくと、母さんに向き直った。

「お義母さん」
「うん?」
「僕は今、波音さんとお付き合いさせていただいてます」
「え……、波音と?」

 驚いたような顔で私を凝視する母さんに小さく頷いた。
 私と付き合っていることは言わないでほしいと言ったのは凛だったのに。と不思議に思い凛を見る。

「お義母さん、率直に言います」
「うん」
「――波音さんと結婚させてください」

 彼の言葉に、私は目が飛び出る勢いで彼を振り返った。
 彼はじっと、母さんを見つめている。

 長い沈黙の後、母さんはふっと息を吐いた。

「………そう。波音はどうなの?」

 いきなり振られた言葉に、私は詰まりながら二人で話していたことを答える。

「う、うん……。できれば大学卒業したら……母さん」
「なに?」
「凛もシングルマザーだったの」
「え、そうなの?」
「はい。今は再婚してますが」

 凛が頷くのを母さんが驚いて見つめた。

「三人で、一緒に住むのが、私の、」
「波音さんと、僕の夢です」
「貴方たち……」

 母さんは眉を下げる。
 凛はずっと母さんを見ている。私は、さっきのことも引きずって、母さんのことが見れなかった。
 しばらくして、母さんが笑う気配がして顔を上げた。

「そうなこと言われちゃ、駄目だなんて言えないよね」

 ふふっと母さんは笑うと、凛に目を向けた。

「波音は、私にはもったいないくらいの娘よ」
「はい」
「大事にしてくださいね」
「はい、もちろんです……!!」

 凛は母さんの微笑みに、唇を噛みながら頷いた。

「母さん、ありがとう」
「もう、だからお礼なんてあなたがするものじゃないって言ってるでしょう」

 母さんは嬉しそうに笑って、遠い眼をした。

「お父さんがいたら、なんて言ったかしらね」

 その言葉に私は、それに凛も、ぐっと歯を噛みしめた。


 ――夜に晴れている空を、久しぶりに見たと思う。


 私は家の庭から、ぼーっと欠けた月を見ていた。

「……波音?」

 いつもより低い声を聞いて振り返ると、眠そうに目をこすった凛が窓から顔を出した。
 うつらうつらと首を揺らしながら、彼はあたりまえのように私の隣に座る。

 ふと付き合ったばかりのことを思い出した。
 前はこんなに隙を見せることはなかったのに、と愛しく思う。
 私は21、凛は23になった。彼は高校教師になることがもう決まっている。
 彼との将来に不安はない、ないのだが……。
 彼の髪は首にかかった。ふと見ると、彼の目は固く閉じられ、口からは小さな寝息が聞こえてくる。
 眠いなら寝ていればいいのに、と私は不思議に思った。

 何故、私なのだろうと、漠然に思う。

 今までは、ただ求めていただけだった。
 姉のようになりたい。姉のように愛してほしい。

『波音は私の自慢の娘よ』
『波音、愛してる』

 ――私は手に入れてしまった。

 欲しかったもの全部、それが、今全部手に入ってしまった。
 ただ一人、姉さん。彼女だけを殺して。




 『姉さんを残して、私は』
 『紗音は君のことを本当に大事に思っていたよ』
 『凛……。私は、幸せになっていいのかな』
 『波音がなりたくなかったとしても、俺が幸せにするよ』
 『…………』
 『波音、結婚しよう』




「……母さんはああ言ってたけど、私は……」
「自分を責めるの?」
「……凛」

 彼の鋭い眼が、私を射抜いた。
 起きていたんだとか、そんなこと考える暇もなく、彼の目に吸い込まれてしまう。

「……責めてないよ。あの時の私にそんな余裕はなかった。でも……」
「なに?」

 彼の反応を恐れて、目を伏せた。

「私は……凛といてもいいのかなとか、いろいろ思っちゃって……」

 私は、凛が姉さんを深く愛していたことを知っている。
 知っていながら、今はさも当たり前かのように――まるで凛と結婚するのは運命だったのかのように思うのに、どこか罪悪感を感じてしまっている。

「――波音」

 凛の私を呼ぶ声にびくっとした。
 釣り合わないとか、そういうことを言うことを凛は本当に嫌がる。
 それは彼が私の言葉に含まれる自虐に気づいているからで。
 怒られる、と思った私は少しだけ顔を上げて彼の顔を見た。

 だが、

「馬鹿だなぁ、お前」

 彼は嬉しそうに笑いながら言った。
 私は唖然として唇を尖らせた。

「ちょっと、私は真剣に相談してるのに」
「わかってるよ。でも、紗音のことで悩んでると思って慰めに来たのが、俺のことだったってことが……」
「嬉しかったの!?」

 眉を歪めながら聞くと、凛は目を泳がせながら微笑んだ。
 そんな彼に呆れてしまう。

 真面目な話なのに、と思いながらも、そんな彼の表情に安堵してしまうのは、やはり、

「――大好き」
「え!?」

 突然の台詞に、凛がぎょっと飛び退くように私を見た。
 その反応に少しむっとしてしまう。

「何よぉ」
「いや、最近そういうこと言ってくれなくなったじゃん」
「そりゃ、思った時にしか言わないよ。それに、凛だってそうじゃん」
「ん、んー……」
「前は誕生日サプライズとかしてくれたのに」
「今もしてるだろ。てか、波音は俺の誕生日いつも忘れてるじゃんか……」
「あれ、そういえば去年凛の誕生日祝ってないかも……!」
「…………」
「わー、ごめんって! 今度は二倍にするから」

 ふてくされてしまった彼の頬をつつく。
 独りでいたときはあんなに辛く感じたのに、彼といるだけで、心が弾むようになる。

 『姉さんがいたら』

 今までずっと考えてきたそのifの言葉にそっとふたを閉めた。

 彼と過ごす幸せな日々を想像して、姉さんの覚悟を感じて、
 私は、意地でも幸せになってやろうと、そう感じた。






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