32 その男性に止められた凛は案外すんなりと殴っていた手を止めると、私の方へ駆け寄ってきた。 「凛……」 「大丈夫か? 波音」 凛に抱き寄せられ、今までの緊張がふっとほどける。 「……てめ、ら……なんなんだ、よ……」 凌空が血まみれの顔で男性を睨んだ。 男性は蔑むような目で彼を見下ろしてる。 「……お、お、お前っ、何をしたんだっ!!」 震えた声が聞こえて、扉の方を向くと、さっき出て行ったはずの凌空の父親が青い顔をして立っていた。 「お、やじ……?」 「加藤君、少し静かにしていなさい」 ぎろっと、威圧のある表情をその男性が向けると、凌空の父親はひっと情けない声を上げて縮こまった。 彼のそんな様子は見たことがなかったのだろう。 凌空は目を丸くして自分の父を見ている。 男性は胸元から名刺を取り出して、私とリクに手渡した。 その名刺に書かれた文字を見て、衝撃が走った。 「私はクレッセントグループ代表取締役の三日月修造だ」 三日月、修造…… 三日月って、 「佳南の……?」 小さく呟いた私に、三日月さんはちらっと目を向けた。 「君は柏月波音さんだね? 娘がいろいろとお世話になっていると聞いている」 「どうして……?」 疑問点がありすぎて、単調な質問を返す。 「その説明は後でしよう」 三日月さんは深く目を瞑ると、ゆっくりと息を吐いた。 ぞわっと、凌空に襲われたときとは違う恐怖がこの場を支配した。 彼の、何かが変わった。 「……加藤凌空。お前がした罪を忘れていないだろうな?」 「……っ」 ――罪。 そんなの、忘れやしない。 彼が言っているのは、 「私の娘を、佳南を傷つけたこと、俺が身をもって後悔させてやる」 憎しみのこもった目で睨みつけた三日月さんに、凌空がひっとひるんだ。 「つれてけ」 黒服を着た彼の部下のような人たちが、血らだけで倒れている凌空を荒々しく掴みあげた。 玄関まで来てようやく自分の状況に気が付いたらしい凌空が、激しく喚いた。 「待てよっ……どういう意味だっ!! やめろっ!!」 それでも止まらない男たちに、本格的に凌空はもがいた。 「止めろっ!! おいっ!! 紗音っ、親父っ!!!!」 凌空が父親に手を伸ばす。 私たちが黙って見守る中、この状況に一番震えていた彼は凌空の様子に目を吊り上げた。 「う、うるさいっ!! お前のせいで、俺の地位はっ……、お前がいたせいでっ!!」 その言葉を聞いた瞬間、確かに、凌空の目の色が変わった。 どこか、空虚な、魂の抜けたような、悲しい色。 「待ってくださいっ!!」 気が付いた時には、私は凛の腕から抜けて彼の元へ駆け寄っていた。 周りの人たちは驚いて私を見つめていたが、三日月さんは何かを知っているような目をしていて。 これが、私の知らない父親の目なんだと、感じた。 「紗音……」 「凌空、さん……。私は紗音じゃない!」 大きな声で叫ぶように言った私の言葉に、凌空は何も動じなかった。 やっぱり、本気でそう思ってたわけじゃないんだ。 私は腕を高く上げると、思いっきり彼の血にぬれた頬を叩いた。 ぱちん、と。 小さな音が響いた。 小さな音だけど、これが精一杯。 私の変わりは、凛が殴ってくれたから。 これが、精一杯の、私の復讐。 「あんたは最低だよ。何にも知らないで、逃げて、佳南にひどいことして、凛を傷つけて……。あんたといるだけで、私は自分の価値が下がっていくようだった! ずっと…っ」 今までの憎しみを全て言葉にしてぶつけた私に、凌空の見開かれる。 「でもね、私はあんたのこと、どこかで救いたいって気持ちもあった。私も、姉さんを、紗音をまだ忘れられてないから」 どこか、似た雰囲気を感じたんだ。かわいそうだって、思った。 凌空の姿を初めて見たとき、私を“紗音”と言ったその姿に。 「……だから、近くにいた。私はあんたのこと許さない。あんたも、私たちを傷つけたこと、絶対忘れないで。でも……だけど……」 言葉を区切って、彼の目をまっすぐ見る。 「私が紗音じゃなくても、あんたは別に、一人じゃなかった」 そう言った瞬間、凌空の目から涙が零れた。 私が横を向くと、黒服の人たちは彼を連れて家を出て言った。 「……三日月さん」 去ろうとしていた彼に呼びかけると、三日月さんは顔だけ振り返った。 「あの、ありがとうございました」 「俺は娘のためにしただけだ。それと、礼なら彼に言うんだな」 え、と言って、凛を振り返る。 「俺と母さんが加藤の情報を血眼になって探しているのを、彼が睡蓮とやらのチームを使って調べ上げてくれたんだよ」 凛、が……私のために……? 「じゃあ、俺はもう行く。加藤のことは任せろ。別に悪いようにはしない」 そう言って出て行こうとした三日月さんに、何かが飛びついた。 「お父さんっ!!」 「佳南!?」 私は驚いて声を上げる。 凛も目を見開いていた。 「か、佳南……なんでこんなところに……」 三日月さんがあたふたと動揺している。 佳南が上げた顔は、涙でぬれていた。 「なんで、なんでこんなことしてるんですかっ!!」 「……ふん、別にお前に関係ない」 「嘘、ばっかり。お母さんに聞きました。全部」 佳南の後ろから、美しい女性が入って来るのが見えた。 「お父さん、もう隠せないわよ。この子ったら、ずいぶん強情なんですもの」 厳しそうな顔立ちは佳南によく似ていて、鋭い瞳に少しの優しさを滲ませていった。 「あの……どういうことですか?」 このなかでたった一人、私だけが状況を掴めなくて、おずおずと尋ねる。 三日月さんはため息を吐いて抱き着いて泣いている佳南の頭をそっと撫でると、口を開いた。 「この子があの事件にあったと聞いて、どうしても許せなくてね。母さんと、途中から日向君とで、彼のことを調べ上げていたんだ」 それを聞いた佳南が顔をぐしゃぐしゃにして三日月さんを見上げた。 「私っ、私っ……昔から、お父さんとお母さんに嫌われてると思ってて……」 「…………」 「……それで、ずっと、悩んでてっ……」 「ああ、悪かったと思ってるよ。お前には、自分で立てる力を育てたいと思っていたんだ。それで少し冷たくしていた。だけど、間違いだったよ」 ごめんな、と三日月さんが佳南を抱きしめた。その佳南の背中に、彼女の母親が手を当てる。 そうして、また佳南が、大きな泣き声を上げた。 その不器用で温かい家族を見ていて、無性に、母さんと姉さんに会いたくなった。 |