33


 佳南達が帰って、俺は、風に髪をなびかせ佇むように立つ彼女にそっと目を向けた。
 視界に、彼女よりも少し優しい雰囲気を纏った女性が写ったような気がした。
 その女性は波音にそっと寄り添うと、俺の方を向いてにっこりと笑った。

 ぱちりと、瞬きをすると、その女性は消えていて、波音が不思議そうにこっちを見た。

「どうしたの? 凛」
「……いや、なんでもない」

 栗色の、ふんわりとした髪型、目元はとてもあの人に似ているが、でも、違う。
 彼女の纏う強さは、紗音とは違う。まるで、何本も幹が重なった大きな樹のように、瞳を見るだけで、俺を包み込む。

 だけど、ところどころ細いところがあって、そのか細さが、人を、俺を引き付ける。
 愛しさがこみ上げ、彼女を抱き寄せようと手を伸ばしたとき、手のひらについた血に気づいて、慌てて手を引っ込めた。

 俺は、彼女とは違って、汚くて弱い。
 中学、以前の高校にいたころは喧嘩に明け暮れて、何人も人を殴って来たし、それが快感だった。
 昔格闘技を習っていて、気付けば睡蓮という暴走族の総長になっていた。
 別に、そのチームにそれといってこだわりはなかったが、俺よりも年上の奴らが喧嘩に負けただけで駒のように動く姿が滑稽で面白く、ゲームのように、睡蓮を動かしてきた。

 紗音に出会ったのは、そんな時だった。
 調子に乗っていた俺は、危険区域に一人でいたところに、十数人の男たちに襲撃された。
 なんとか逃げ出したのだが、大怪我を負って血だらけで道端に倒れていた。
 そのときに、

『――大丈夫ですか?』

 彼女に出会ったのだ。

 彼女は俺を手当てしてくれて、それから頻繁に会うようになった。
 一人の女がこんなに愛しいと思ったのはそれが初めてで、彼女を敵対している紫蘭の姫だということを知っていながら、俺は彼女を近くに置きたかった。
 だけど、俺は結局、己のことしか考えていなくて。
 守りたいと、何度も願った彼女を守れなかった。

 佳南の時もそうだ。
 ぎりぎりまで、彼女の苦しみに気づかず、紫蘭に傷つけられ、俺が弱かったせいで、彼女を何度泣かせたか。


「……波音」

 近くにいるけど、遠くにいるような、彼女の名前を呼んだ。
 羽のような美しさを持つその美貌と、波の音色のような綺麗な声。

「なに? 凛」

 そんな彼女にぴったりの名前を呼ぶと、ふわりと、彼女は花が咲いたように笑って俺を見た。

 抱きしめたい。その華奢な身体を。
 今すぐ彼女に触れて、嘆いてしまいたい。

 俺は、君を守れただろうか。
 やはり一人の力では到底無理だったけれど。
 君の心の闇に、少しは光を差してやれただろうか。
 この、血にぬれた手で、君を抱きしめても良いのだろうか。

 俺の躊躇いに気づいたのか。
 波音は目を細めて、俺の手を取った。

 血が付いた手のひらじゃなくて、加藤凌空を殴ったせいで赤くなった手の甲を、白い手でそっと撫でる。

「波音?」
「……痛い?」
「大丈夫だよ」

 君が受けた痛みに比べれば、全く。
 掠れた声でそう言うと、波音は悲しそうにそこをじっと見つめて、それから、唇を当てた。

「…………ありがとう」

 俯いたまま、言った波音に、激情が胸の中に燃え上がる。
 固まったままの手をゆっくりと伸ばした。
 受け入れろ、自分の弱さ。掴め、今度こそ。

 俺は、確かにがっしりと、彼女の背中に手を回した。

「凛……」

 顔を切なそうに歪ませて俺を見る彼女を見ると、俺の中の弱さが吹っ飛んでいくような感じがした。

「――波音、愛してる」


 誓おう。
 何人もの人を傷つけたこの手を、今度こそ、大切な人を抱きしめることだけに使うと。

 最後まで、守り抜くと。

 決して、二度と泣かせやしないと。







 風が、駆け抜けた。

 あれから、一年がたった。
 太陽の下、制服が風に揺られなびく。
 私は何げなく、大空に手を伸ばしてみた。

 ぼーっと、学校にいる時もただ窓の外から雲や青い空を眺めるだけの日々。
 決して刺激的ではなかったけど、平凡で、落ち着いた高校生活だった。

『――転校生が来る』

 そう、担任の教師が言ったのが全ての始まりだったのかもしれない。

『……日向凛です。よろしく』

 甘い蜂蜜をイメージさせられるような髪色をし、端正な顔だちをした彼を私が視界に入れたのが始まりだったのかもしれない。

 まあ、どうであれ、私の世界は彼が来てから、がらっと変わった。
 苦しくて、辛くて、彼と会ったことは間違いだったんじゃないかって思うときもあるけど。
 今は、後悔していない。

 彼らと出会ったことで、一番大切なことに気付けたから。

「佳南さん」

 呼ばれて振り向くと、長い間入院していたせいで少しばかり幼さが残る顔だちの少年が立っていた。

「竜也君」

 先月までアメリカで手術を受け入院していた彼は、今年から無事に星蘭学園に入学できるらしい。
 きっと、いろいろな覚悟があったんだろう。

「……いいかげん、そろそろ姉さんと仲直りしてくださいよ」

 美沙とそっくりな眉を寄せ言った彼に、ふふっと笑う。

「やだ」

 もう、怒ってるわけじゃない。
 また美沙と笑いあえるなら、そうしたい。

 でもね、あの時の気持ちは、まだとっておきたいんだ。
 人を大事にするっていう心を。


「かなーんっ!!」

 後ろから、私を呼ぶ声がしてそちらを振り返った。
 凛と波音が大きく手を振って私を呼んでいる。

 ……もう、あんなに引っ付いちゃって。

 仲良さげに笑いあう二人を見て、苦笑した。

 彼を想う気持ちが、消えたわけじゃない。
 でも、いいんだ。

 この、甘酸っぱくて、苦くて、熱い想いを、

 私は一生、忘れないだろうから。





63