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「ただいまー」

 佳南の家で勉強会をして泊まった朝、家に帰ると、いつもはないはずの靴があって少し驚いた。
 茶色の、少し小さめの靴。

 これは……――

「――波音ちゃんっ!!」

 ふわりと、風が吹いたと思ったら、私の身体が温かいものに包まれた。
 少し遅れて、私は抱き着かれているのだと知る。
 私を抱きしめた主は、そのままぎゅっと腕の力を強くすると、情けない声を上げて泣きだした。

「波音ちゃん、良かった……。家に帰ってきたら、誰もいないから、波音ちゃんまでいなくなっちゃったんじゃないかって……、心配でっ……」

 涙ぐみながら言った彼女に、私はふっと笑って、よしよしと頭を撫でた。

「もう、大丈夫だって。私はいなくならないよ。……母さん」

 本当に? とまるで子供のように見上げる母さんに、本当本当、と言葉を返す。

「とりあえず、リビングに行こう? 話はそれからだよ」





 泣き止まない母さんをなんとか落ち着かせて、リビングへ向かい合わせで座ると、私は冷たい麦茶をコップに注いで母さんに出す。

「はい」
「ありがとうね」
「ううん、いいの」

 まるで客人をもてなす対応をしている私に、ふっと自嘲の笑みがこぼれた。

 ……この人は、本当に私の母親なのだろうか?

「母さん、帰って来てたんだね。連絡してくれたら良かったのに」
「でも、私、波音ちゃんの携帯の番号知らないわ」
「そう、だったっけ?」
「ええ。いつも聞こう聞こう思っていたんだけど、機会がなくてね?」
「そっか。会わないもんね」
「そうね」

 そこで会話は途切れ、苦しいくらいの沈黙が流れる。
 まるで初めて会う人のような緊張感。

 このまま沈黙が流れることに耐えられなくて、意を決して話しかけようと口を開く。
 だけど、それは母さんも同じだったようで、私が喋る前に言葉を発した。

「あの……波音ちゃん?」
「何?」
「昨日と今日はどこに行ってたの? こんな朝早くに帰って来て」
「泊まってきたの。友達の家。その子の彼氏もいたから、邪魔しちゃ悪いかなって思って、早く帰ってきた」
「そ、そうなの……」

 彼氏という単語に、わかりやすく母さんの表情が変わった。

「どうしたの?」
「……その子たちは、星蘭高校の生徒達なのよね?」

 その言葉を聞いて、母さんが心配していることがわかった。
 母さんは、私が前みたいに、紫蘭などの暴走族みたいな危ない人たちと関わっていないか不安なのだ。
 心配してくれるのは嬉しいけど、それならそうやって直に聞いてくれればいいのに。
 家族なんだから。
 私は少しいらっとして、曲がりくねった返事をした。

「星蘭の生徒じゃないって言ったら? 母さんはどうするの?」
「え……?」
「私が、まだ紫蘭とつるんでるって言ったら? 母さんは、私の意思を無視して、関わらせないようにでもするつもり?」

 母さんは私の言葉を聞いて目を丸くすると、その目にみるみると涙が溢れてきた。

「か、母さん!?」

 慌てて傍に寄る。

「は、ねちゃん……、」
「ん?」
「いじわる、しないでよ……、私、もう、誰も失いたくないの……」
「うん……」

 ひっくひっくと鼻をすすりながら言う母さんの背中をさすって、頷きながら母さんの言葉を聞く。

「もう、どこにも、行かないで……」
「わかった、わかったから……、変なこと言ってごめんね」
「どこにも行かない? 私を置いて行ったりしない?」
「しない、しないよ。私は母さんを置いて行ったりなんかしない」
「……良かった」

 それから黙ってしまった母さんに、寝てしまったのかと思って顔を覗き込んだ。
 だけど母さんは起きていて、目を虚ろにさまよわせている。
 私と目が合うと、柔らく微笑んだ。

「紗音ちゃんは、いい子ね」
「……っ」

 確かに、私を見て『さ』と言った母さんに、私は息を呑んだ。
 衝撃が体中を駆け巡るが、気にしないで言葉を絞り出す。

「かあ、さん。私は、紗音じゃないよ? 私は、『波音』」
「は、ね……?」
「そう。波音。妹の、波音」
「……ああ、そう。波音ちゃん。そうだったわ……。それで、紗音ちゃんはどこにいるの?」
「母さん……」

 まるで、障害者のような発言に、胸から何かがこみ上げてきた。

「紗音は……、姉さんは、死んだよ。二年前に。……覚えてないの?」
「二年前に、死んだ……? ああ、そうだったわ。紗音は、死んだんだったわ」

 声を震わせて言う母さんに、耐え切れなくなって、涙がぽろりと流れる。



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